(2014.1.11 sonorium)
ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)は当時、ヨーロッパ中で人気ナンバーワンの音楽家で、また当時のあらゆるジャンルにわたって4000曲余りの作品を残した音楽史上ナンバーワンの多作家でもあります。
2つの旋律楽器と通奏低音という編成のトリオ・ソナタはバロック時代を通じてたいへんポピュラーでした。中でもテレマンは、自伝の中でトリオ・ソナタは最も得意な分野であると書いています。しかし、2種類の管楽器を独奏楽器としたトリオ・ソナタは、多作家テレマンとしては意外に多くありません。その中ではリコーダーとオーボエという組み合わせのものが最も多く、6曲が現存しています。この6曲のみならず、テレマンのすべての器楽作品に共通していえることですが、イ短調のトリオ・ソナタも、リコーダーとオーボエそれぞれの特性を熟知したテレマンならではの、演奏効果満点の曲に仕上がっています。
デートリッヒ・ブクステフーデ(1637-1707)はバッハやテレマンより2世代ほど上のドイツの音楽家で、リューベックの聖母教会でオルガニストを務めていました。その教会で彼が毎年主催したコンサート・シリーズ『夕べの音楽』は有名で、ブクステフーデはドイツの音楽家たちの憧れの的でした。バッハは若い頃、このコンサートを聴くために宮廷オルガニストの仕事を休んで徒歩で10日ほどかけて旅し、そしてコンサートに強い感銘を受け、ブクステフーデの音楽をさらに深く学ため4週間の休暇を無断で4ヵ月に延長してしまいました。
ヴィオラ・ダ・ガンバも演奏したといわれているブクステフーデは、ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバによるトリオ・ソナタを20曲近く残しています。変ロ長調のソナタは中でも最も有名で、冒頭のヴィヴァーチェは何度も繰り返される短い低音旋律に乗ってヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバが会話しながら変奏を続けるシャコンヌの形式です。
ヤコプ・フリードリヒ・クラインクネヒト(1722- 1794)はバイロイト宮廷楽団のフルート奏者、後にヴァイオリン奏者で、さらに宮廷作曲家の肩書きも得ています。父のヨハンはウルムの大聖堂のオルガニスト、兄と弟もバイロイト宮廷の音楽家という音楽一家でした。ヤコプ・フリードリヒは交響曲、協奏曲、トリオ・ソナタ、ソロ・ソナタなどの作品を残していますが、フルートとヴァイオリンが活躍する曲が多く、オーボエを独奏楽器に起用したのは協奏曲1曲とこのトリオ・ソナタ1曲のみです。
この曲は、ドイツで典型的なバロック音楽の直後に流行った、大バッハの息子C.P.E.バッハの作品にもみられる「ロココ趣味」「多感様式」の特徴が色濃く、短い間をおいて次々と急速に変化していく調と気分、風変わりで特徴的なリズムなど、変化に富み、緊張感に満ちています。
アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)は、1703年から40年近くもの間、故郷ヴェネチアのピエタ修道院(慈善養育院)で、捨て子や孤児たち年少の女子の音楽教師を務めていました。彼女たちの演奏によるコンサートの評判はヨーロッパ中に伝わるほどでした。1705年に出版された作品1は12曲のトリオ・ソナタを集めたものです。
「フォリア」とは「狂気」とか「常軌を逸した」という意味で、15世紀ごろにイベリア半島で生まれた舞曲の形式です。シンプルな動きの低音と親しみやすい旋律のため、ヨーロッパ中に広まりました。特に17世紀末にこのテーマを基にした作品がイタリアで大流行し、その代表がコレッリのヴァイオリン・ソナタ(作品5第12番)です。
ヴィヴァルディもコレッリの作品の影響を大きく受けて作曲したことは間違いありません。ヴィヴァルディの曲は、冒頭で「フォリア」の低音の上でテーマが演奏され、それに続いて2つのヴァイオリンと通奏低音の間で緩急自在に多彩な変奏が繰り広げられます。
「大バッハ」と呼ばれるヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)は、息子たちや弟子たちの教育のために、6曲のオルガン・ソナタを書きました。右手・左手・足で3つの声部、つまりそれぞれが独立した旋律を演奏する(まさに至難の技!)これらのオルガン・ソナタは、いずれもバッハが以前に作曲した(死後に消失した)トリオ・ソナタなどを自らオルガン用に編曲したものともいわれていますが、原曲や編曲の経緯などの詳細の大部分はわかっていません。
第5番についても、第2楽章はオルガンのための「プレリュードとフーガ、ハ長調」(BWV545a)の第2楽章を転用したものですが、さらに遡って原曲のトリオ・ソナタがあったのかどうかは不明です。本日はヘ長調に移調し、リコーダー、ヴァイオリンと通奏低音の編成に編曲したかたちで演奏します。イタリアの協奏曲の形式にならい、深く沈みこむような緩徐楽章と、それをはさむ両端の明るいアレグロ楽章の対比が特徴です。
大バッハの次男、カール・フィリップ・エマヌエル(1714-1788)は「啓蒙専制君主」といわれたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷に使え、「ベルリンのバッハ」また「ハンブルクのバッハ」と呼ばれて、生前は父親を凌ぐ名声を獲得しました。
このソナタは、ベルリンの宮廷時代1749年の作品、2つのフルートと通奏低音のためソナタを後に編曲したものです。父バッハが開発したオブリガート・チェンバロ(=通奏低音ではなく、右手も独立した声部を受け持つ)と独奏楽器という編成を採用し、原曲の第2フルートを独奏フルートに、第1フルートをチェンバロの右手に置き換えました。無類のフルート好きで玄人はだしの演奏をしたフリードリヒ大王のために作られたと思われますが、それにしては冒頭から大きな感情のうねりを伺わせる進歩的なスタイルで、保守的だったベルリンの宮廷の好みを大きくはみ出した作品です。
フランソワ・クープラン(1668-1733)はフランスの音楽家一族に生まれ、一族の中では最も有名です。「太陽王」ルイ14世のヴェルサイユ宮廷に仕え、日曜日のたびに催された御前演奏会ではチェンバロを弾き、またヴァイオリン、フルート、オーボエ、ヴィオラ・ダ・ガンバなどの名手たちと合奏しました。そしてこのコンサートで演奏された合奏曲の多くは後にいくつかの曲集として出版されました。穏やかな気品と豊かな詩情が漂うそれらの作品はフランス・バロック室内楽の最高峰といわれています。
「諸国の人々」には、「フランス人」「スペイン人」「神聖ローマ帝国人」「ピエモンテ人」(ピエモンテはフランスに近いイタリア北西部地方)の4曲が収められています。これらのタイトルの由来や意図は今日では不明ですが、いずれもイタリア趣味のソナタの後にフランス趣味の舞曲を配しています。クープランの室内楽作品はたいてい楽器指定がなく、トリオ編成の「諸国の人々」も同様ですが、本日は高音声部にリコーダー、フラウト・トラヴェルソ、オーボエ、2つのヴァイオリンを用い、さまざまに組み合せを変えて演奏します。