(2011.10.30 横浜市開港記念会館、2011.11.3 SDA東京中央教会)
アントニオ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)はヴェネチアのピエタ女子養育院のヴァイオリン教師でしたが、養育院の少女たちのオーケストラの見事な演奏は、観光都市ヴェネチアの呼び物の一つでした。そしてヴィヴァルディはこのオーケストラのために多くの協奏曲を書きました。それらは6曲または12曲ずつまとめて曲集として出版され、これによってヴィヴァルディの名もまたヨーロッパ中に知れ渡りました。有名な「四季」は、「和声と創意の試み」と題された12曲から成る協奏曲集(作品8)の第1番〜第4番です。
ヴィヴァルディは「海の嵐」と題する曲を全部で4曲も残していて、そのうち1つがヴァイオリン協奏曲、残りの3つがフルート(フラウト・トラヴェルソ、またはリコーダー) 協奏曲です。この3曲のうち、室内楽編成による初期の2 曲は同じ曲の異稿で、これらを元に編曲・改作したのが、1729年にアムステルダムで出版された6つのフルート協奏曲集(作品10) の第1番です。本日はリコーダー、オーボエ、ファゴット、弦楽器による多彩な音色が特徴的な初期稿にアムステルダム出版譜の一部を取り入れた、オリジナル・バージョンで演奏します。嵐に荒れ狂う海を表現した両端楽章と、束の間の静寂を表わした中間楽章の対比が印象的です。
この曲はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791) が9歳の時に、演奏旅行先のロンドンで作曲したといわれています。バロック音楽から古典派音楽への過渡期で、ラモーやテレマンの最晩年にあたる当時は、鍵盤楽器といえばまだピアノよりもチェンバロのほうが主流で、モーツァルトの初期の鍵盤曲の多くがチェンバロで作曲されたと考えられています。また、モーツァルトは鍵盤楽器のために独奏曲ばかりでなく、「四手のための」曲、つまり連弾曲や二重奏曲(2台の楽器で演奏) も数曲残しています。
ハ長調のこの連弾曲は二段鍵盤用で、おそらく姉のナンネルが高音部を、モーツァルト自身は低音部を演奏したのでしょう。低音部左手の伴奏に乗って3 つの旋律(高音部の両手と低音部の右手) が複雑に絡みあうので、二段鍵盤ではあっても、二人の奏者の手が何度も交差し、衝突しそうになります。モーツァルトのやんちゃな一面が垣間見える曲です。
繁栄を誇っていた帝国自由都市ハンブルクの市音楽監督ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767) は、1730年にイタリア語で「6つの四重奏曲集」と題した曲集を当地ハンブルクで出版しました。フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバまたはチェロと通奏低音のために書かれ、流行の最先端であったフランス音楽の優雅なスタイルを取り入れたこの作品の評判は上々で、気位の高いパリの音楽界も唸らせ、1736年にはフランス語のタイトルを付けてパリでも出版されました。そしてその翌年、パリで活躍していた高名な音楽家たちがテレマンをパリへ招待したのです。
パリの音楽家たちと市民の熱烈な歓迎ぶりに大いに気をよくしたテレマンは当地に8ヵ月も滞在し、その間に、先の「6つの四重奏曲集」と同じ編成で、やはり6曲から成る「新しい四重奏曲集」を作曲し、国王ルイ15世の特別許可を得て出版しました。今日「パリ四重奏曲集」と呼ばれるこの作品もまた、パリの音楽家たちによって演奏され、テレマンの名声をますます高めました。出版譜に収録された予約購入者名簿には、フランスの貴族たちに混じって、テレマンの親友であった「ライプツィヒのバッハ氏」の名前もみられます。
「音楽の練習帳」はテレマンが1940年頃に出版した作品で、リコーダー、フラウト・トラヴェルソ、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロのための12の独奏曲(ソナタ、組曲) と、これらの楽器のさまざまな組合せによる12の三重奏曲(トリオ・ソナタ) が集められています。出版譜の主な購買層は、テレマン自身のような宮廷や都市、教会に雇われていた職業音楽家やそのタマゴではなく、新興市民階級に属するアマチュア音楽愛好家たちだったようです。リコーダーやフラウト・トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバといったアマチュアに人気の高い楽器が多く採用されていることからも、テレマン自身が愛好家向けであることを強く意識していたと思われます。
とはいえ、どの曲もけっして技術的にやさしいわけではなく、また表現のスタイルは多様で、音楽的な完成度も高いので、今日のコンサートでもしばしば演奏されています。「練習帳」というタイトルに違和感を覚えるくらいですが、当時はこういった命名が流行だったようです。たとえばバッハの有名な「ゴルトベルク変奏曲」も、貴族のお抱えチェンバロ奏者のために書かれた難曲ですが、後年の出版時のタイトル・ページには「練習曲…愛好家の心を楽しませるために…」とあります。当時の愛好家のレベルは相当高かったとも考えられますが、このような言葉遣いは少しでも売れ行きを伸ばすための常套手段でもありました。
曲集タイトルの「食卓の音楽」とは宴会用のBGMのことで、バロック時代にはこのようなタイトルの曲集がいくつか出版されました。王侯貴族を中心とした支配階級の社交の場で、お抱えのプロの音楽家たちによって演奏されたそれらの音楽は、宴会主催者の権力や財力、そして教養の高さを誇示するためのものでもあり、そのため音楽的完成度がきわめて高く、また最新の流行と最良の趣味を反映していました。テレマンの作品(1733)はその中でも最も有名で、彼の代表作でもあります。ただし、テレマンのこの作品の予約購入者名簿には一般市民の名前が多くみられ、ここにも当時のドイツではすでに新興市民階級がこのようなレベルの高い音楽を自ら演奏して楽しむほどに、社会的に力をつけてきていたことが伺えます。
作品全体は第1部〜第3部から成り、独奏曲から協奏曲、管弦楽組曲まで、さまざまな編成の作品を収めています。本日演奏する弦楽器のみの編成による協奏曲は、緩−急−緩の3楽章から成り、ヴィヴァルディが完成させた協奏曲の形式に忠実に従っています。
ジャン=フィリップ・ラモー(1683〜1764) はバッハやヘンデルの同時代人で、フランス各地で教会オルガニストや音楽教師として過ごした前半生にはいくつかのクラブサン曲(クラヴサンはチェンバロのフランス名) と音楽理論書を出版しただけでしたが、50歳を過ぎて作曲し始めたオペラにより名声を博し、ルイ15世の宮廷作曲家に任ぜられ、18世紀半ばのフランス音楽界に君臨しました。
17世紀初頭にイタリアで生まれてバロック音楽の扉を開いたオペラは、フランスに輸入された当初はあまり流行りませんでしたが、優雅な宮廷バレエを取り入れることによって次第に広く受け入れられ、ついにはオペラ・バレエを生み出しました。これはもはや、ドラマとしての話の筋にたいした意味はなく、ひたすら華やかな舞踏と音楽のスペクタクルでした。ラモーの「優雅なインドの国々」(「優雅なインドの人々」と訳されることもある) はその最も見事な例で、ギリシャ神話の神々が演じる序幕に続いて、第1 幕「寛大なトルコ人」、第2幕「ペルーのインカ人たち」、第3幕「花々、ペルシャの祝祭」、第4幕「未開人たち」(舞台は北米大陸) と、エキゾチックで他愛のない、ときには荒唐無稽ともいえる恋物語が次から次へと繰り広げられます。当時のヨーロッパではこれらの遠い異国・異教の地はすべて「インド」と呼ばれていました。
なお、「組曲」というのは、バッハの無伴奏チェロ組曲などのように、もともとは舞曲(メヌエット、ガヴォットなど) を集めた器楽曲でしたが、フランスではオペラの序曲と劇中の舞曲、エール(アリア)、情景描写音楽などを抜粋して音楽だけ演奏することもしばしば行われ、後にこれも組曲と呼ばれるようになりました。