(2008.12.21 聖パウロ女子修道会、2008.12.23 横浜市開港記念会館)
バロック時代のコンチェルト(協奏曲)は、弦楽合奏を中心とする〈全合奏〉といくつかの独奏楽器からなる〈独奏群〉とが対立し、競奏するもので、この原理を確立したのがイタリアのコレッリです。そしてそれを形式的に完成させたのが、「四季」で有名な同じくイタリアのヴィヴァルディです。それは、〈速い−遅い−速い〉という3つの楽章から成り、速い楽章では全合奏によるテーマ(リトルネロ)が何度か繰り返され、その間を独奏楽器が自由な動きでつないでいきます。リトルネロ形式と呼ばれるこの形は、テーマをAとすると、たとえばA-B-A'-C-A''-D-Aのようになります(Aはわずかずつ形を変え、転調して現れる)。
その後のイタリアとドイツのコンチェルトの多くは、コレッリ-ヴィヴァルディのスタイルにならっています。ところが、当時からすでに、文化のさまざまな面でイタリアの影響を大きく受けながらも、イタリアに対する対抗意識も強かったフランスでは、このようなコンチェルトは流行りませんでした。そのかわり、踊りが好きなフランス人は舞曲を並べた〈組曲〉または〈コンセール〉を好みました。「コンセール」は英語の「コンサート」に相当し、イタリア語の「コンチェルト」と同語源ですが、小さな編成で、独奏と合奏の区別がなく、またコンチェルトのように一つのテーマが何度も登場するということはありません。中心となる舞曲はふつう、それぞれが繰り返される2つの部分から成り、つまりAA-BBという形をとります。
ドイツのバッハ一族と同じように多くの音楽家を輩出したフランスのクープラン一族の中でも、ヴェルサイユ宮廷で音楽家として高い地位に着いたフランソワ(1668-1733)は、今日「大クープラン」と称されています。日曜日のたびに催された太陽王ルイ14世のための御前演奏会で、クープランはチェンバロを弾き、またヴァイオリン、フルート、オーボエ、ヴィオラ・ダ・ガンバなどと合奏しました。そして、1714年にこのような合奏用組曲を集めた「王宮のコンセール集」(第1番〜第4番)、1724年には続編として「趣味の融合、または新しいコンセール集」(第5番〜第14番)が出版されました。当時フランスでは音楽におけるイタリア趣味とフランス趣味の優劣が論争の種でしたが、クープランは両者の融合こそが音楽を完全なものにすることを示したのです。
クープランはオペラなどの大規模な編成の作品をまったく残していませんが、このコンセール集の中で最も楽章数の多い第8番は「劇場風」と題されています(全11楽章中、本日は8楽章を抜粋して演奏)。フランスではオペラから序曲と劇中のいくつかの楽曲(主に舞曲)を集めて管弦楽のみで演奏する〈組曲〉が好まれました。オペラの序曲の形式(付点リズムの荘重な行進曲風の部分と、フーガ風の急速な部分とからなる)による「序曲」で始まる「劇場風」は、このような管弦楽組曲の室内楽版を意図したものです。なお、「エール」は、イタリア語の「アリア」に相当し、本来は叙情的な歌曲ですが、そのスタイルを真似た舞曲風の器楽曲も多く作られました。
アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)は、17歳のときにボローニャのアカデミア・フィラルモニカの正会員となりましたが、20歳以上を会員資格とするこの音楽家協会に、他に十代で特例として入会を認められたのは、100年後のモーツァルトだけでした。
コレッリは、当時としては珍しく残された作品が少なく、そのほとんどは6つの曲集(作品1〜6、いずれも12曲からなる)として出版されました。これらの曲集はどれも高い評価を得て、出版と同時に次が待ち望まれたといわれています。
合奏協奏曲集作品6(1714年出版)は2つのヴァイオリンと1つのチェロが独奏楽器です。第8番は最終章が〈パストラーレ〉(羊飼いの歌、牧歌)のリズムとスタイルで書かれています。羊飼いたちに天使が救い主(キリスト)の誕生を知らせたという聖書の物語から、パストラーレはクリスマスの喜びを表現する音楽として用いられることが多く、コレッリもこの曲の冒頭に「クリスマスの夜のために」と書き記ていることから、「クリスマス協奏曲」の愛称で親しまれています。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)のチェンバロ協奏曲は、独奏チェンバロが1台のものから4台のものまで、13曲が現存しています。バッハはある時期、テレマンが創設した学生オーケストラを指導して、コーヒー・ハウス(喫茶店)や庭園で定期的に演奏していました。おそらく、そこでバッハ自身が(ときには息子達と一緒に)独奏チェンバロを弾くために、これらの曲を書いたと思われます。このうちの何曲かは自作のヴァイオリン協奏曲の編曲なので、残りの曲もほとんどは旋律楽器のための失われた協奏曲の編曲だろうと考えられています。とすると、チェンバロは歌うような旋律を奏するには不向きな楽器なので、旋律楽器を独奏とする「原曲」をぜひ聴いてみたくなります。そこで、編曲版(現存するチェンバロ協奏曲)の調性や音域、旋律の特徴などから失われた「原曲」の独奏楽器を推定し、全体の復元を試みる研究が行われています。
現存する2台のチェンバロのための協奏曲ハ短調から復元されたオーボエとヴァイオリンのための協奏曲は、この種の復元曲として最も成功した例で、チェンバロ編曲版よりも有名になりました。共通のテーマに基づく第1楽章と第3楽章ではオーボエとヴァイオリンがしだいに個性の違いを際立たせていきます。
やはりコーヒー・ハウスか庭園でのコンサートで演奏されたと思われるこの曲も、「原曲」が現存しないので、その独奏楽器が何であったかはわかりません。ヴァイオリンの可能性もありますが、音域や音の動きの特徴から、オーボエという説が有力です。いずれにしても、バッハは編曲に際し、「原曲」の独奏楽器パートに対して、チェンバロの特徴が活かされるように相当に加筆し、弦楽合奏もそのチェンバロ独奏が引き立つように書き換えたようです。そのためこの曲は、編曲版であるチェンバロ協奏曲のままでも十分に聴き栄えがします。
バッハと親交があり、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親でもあるゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)は、当時ヨーロッパ中に名声をとどろかせたドイツの音楽家です。バッハが国際的な大都市ライプツィヒの栄えある聖トーマス教会合唱長兼ライプツィヒ市音楽監督に志願したとき、市議会は先に白羽の矢を立てていたテレマンに断られたので、「最高の人材が得られないのだから、月並みの人材で我慢しなければならない」といってバッハの採用を決めたのは有名な話です。生前それほどまでに名声を博し、自伝を2度も出版したテレマンですが、しかし20世紀初頭の「大英百科事典」(第11版)はバッハとヘンデルには多くのページを割いているのに、テレマンの項目はありませんでした。その当時バロック音楽は遠い「過去の音楽」になっていたのです。
テレマンはあらゆるジャンルにわたり、おびただしい数の作品を残しました。作品数は4000曲ともいわれ(バッハは約1000曲)、協奏曲だけで百数十曲もあり、実にさまざまな楽器を独奏楽器に起用しています。ところが、リコーダー(縦笛)とフラウト・トラヴェルソ(横笛)を独奏楽器にしたものはこの1曲しかなく、しかもバロック時代を通じてこの編成は他にほとんど類がないという、貴重な作品です。聴衆を楽しませることにかけては他の追随を許さないテレマンは、この曲でもサービス精神を存分に発揮し、汲めども尽きぬ豊かな楽想と親しみやすい旋律で、最後まで飽きさせません。終楽章は奔放なポーランド風のリズムと旋律で締めくくります。