バロックの午後―カンタータと室内楽

カメラータ・ムジカーレ第49回演奏会 プログラム・ノート

(2009.11.3 横浜市開港記念会館、2009.11.8 聖パウロ女子修道会)

 

バロック時代の協奏曲

協奏曲(コンチェルト)といえば、オーケストラをバックにピアノやヴァイオリンの華麗な独奏、そして第1楽章はソナタ形式……しかし、それは後の古典派・ロマン派時代の話で、バロック時代のコンチェルトはずいぶん趣が違います。

イタリアで誕生したコンチェルトは、1600年頃までは小規模な声楽曲が多く、器楽曲でも同じ種類の楽器による親密な合奏でした。いずれにしても短い曲で、決まった形式はなく、「コンチェルト」の語には「調和」「協調」といった意味が込められていました。

ところが17世紀半ば近くになると、「コンチェルト」は逆に「対比」「競合」の意味で使われるようになります。この原理を体現したのが、コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)です。「全体」を意味する「グロッソ」は全楽器による合奏を指し、その中からいくつかの楽器が選ばれて独奏楽器群を形成します。こうして、全合奏(フォルテ)と独奏群(ピアノ)、速い部分と遅い部分、弦楽器と管楽器などの交替・対比が強調されます。その後、1つの独奏楽器と弦楽合奏のための、ソロ・コンチェルト(独奏協奏曲)も誕生しました。

このようなコンチェルトを形式的に完成させたのが、「四季」で有名なヴィヴァルディです。速い−遅い−速い、という3つの楽章から成り、速い楽章では全合奏によるテーマが何度か繰り返され、その間を独奏楽器が自由な動きでつないでいく、という形式です。その後のイタリアとドイツのコンチェルトの多くはヴィヴァルディにならっています。

本日は、後期バロックと前古典派時代につくられた、さまざまなコンチェルトをお楽しみください。

アルビノーニ(1671-1751)/2つのオーボエと弦楽合奏のための協奏曲ハ長調 作品9−9

バッハもその作品を熱心に研究したことで知られるイタリアのアルビノーニは、オペラ作曲家として活躍しましたが、今日ではオーボエ協奏曲の作曲者として有名です。バロック時代の職業音楽家は教会や宮廷、歌劇場などと雇用契約を結ぶ「サラリーマン」がふつうでしたが、貴族の家系の裕福な紙問屋の長男として生まれたアルビノーニは、自由な身で作曲活動を続けた時期が長かったようです。

12の協奏曲集 作品9(1722年)に含まれるこの曲は、2つのオーボエを独奏楽器とするコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)です。第1楽章は弦楽合奏のユニゾンで始まり、2つのオーボエがアルペジオで対話を繰り返します。第2楽章はすべてのパートがそれぞれ不協和音と協和音を交互に繰り返しながら進みます。第3楽章は弦によるテーマの後、2つのオーボエが躍動感あふれる旋律で模倣し合います。

バッハ(1685-1750)/チェンバロ、オーボエと弦楽合奏のための協奏曲ニ短調(復元版)

バッハは1730年代、ライプツィヒのコーヒーハウス(喫茶店を中心とした娯楽施設)でのコンサート・シリーズで自らチェンバロを弾くために、十数曲のチェンバロ協奏曲を書きました。これらは、以前に作曲した他の旋律楽器のための協奏曲をチェンバロ用に編曲したものです。しかし、一部の曲を除いて、ほとんどは「原曲」が失われたため、その独奏楽器が何だったのかわかりません。そこで、いろいろと推理を働かせて「原曲」を復元しようという試みが行われています。

ニ短調のこの曲は、「原曲」が不明なだけでなく、現存する楽譜も第1楽章の冒頭9小節しかありません。ですから、「原曲」よりもまず、編曲版であるチェンバロ協奏曲を復元しなければならないのです。幸いなことにこの9小節とほとんど同じなのが、教会カンタータ(プロテスタントの礼拝用音楽)第35番第1部のシンフォニア(序曲的な器楽曲)の冒頭です。つまりこれは、同じ「原曲」の第1楽章からの、もう一つの編曲らしいのです。このシンフォニアは教会で演奏されたため、オルガンが独奏楽器となっていますが、同じカンタータの第2曲のアリアと第2部のシンフォニアにもオルガンの独奏があるので、この2曲が「原曲」の第2、第3楽章の編曲だろうという説が有力です。そこで、これらのオルガン・パートをチェンバロに置き換えて、チェンバロ協奏曲が復元されました。

ところで、現存する楽譜(冒頭の9小節のみ)をみると、この協奏曲にはチェンバロと弦楽合奏に加えて、オーボエのパートもあるのですが、前述の復元版では曲全体を通じてオーボエが独奏楽器らしい活躍をしません。そこで本日は、オーボエを独奏とする教会カンタータ第156番のシンフォニアを第2楽章に転用した、別の復元版を使います。実はこのシンフォニアもまた、失われたヴァイオリン協奏曲(またはオーボエ協奏曲)の第2楽章の編曲であることがわかっています。というのは、その「原曲」に当たる協奏曲を編曲した別のチェンバロ協奏曲(ヘ短調BWV1056)が残っているからです。なんともややこしいですね。

テレマン(1681-1767)/リコーダーと弦楽合奏ための組曲イ短調

バッハの親友だったテレマンは、ギネスブックも認めた音楽史上ナンバーワンの多作家で、管弦楽組曲だけでも数百曲書いたといわれています。それらはどれも、さまざまな趣向が凝らされ、テレマン一流の才気とサービス精神に溢れています。

バロック時代の「組曲」は舞曲を並べたもので、チェンバロやリュートのための作品が多く残されています。一方、管弦楽のための組曲は、踊り(バレエ)を多く含むフランスのオペラを起源としているため、大規模な序曲で始まります。しかし、いずれにしても組曲というのは舞曲が中心であり、協奏曲とは全く異なる形式です。

ところがテレマンは、管弦楽組曲に協奏曲の原理を取り入れることを思いつき、いくつかの楽器に華やかな独奏パートを受け持たせました。このような「協奏曲風組曲」は、イタリア趣味とフランス趣味の統合を理想としていた当時のドイツで歓迎されました。しかし独奏がリコーダー1つだけという編成はたいへん珍しく、この曲はフルートを独奏としたバッハの有名な管弦楽組曲ロ短調に比すべき、ユニークな傑作です。テレマンが得意としたリコーダーを自ら手にして妙技を披露したのかもしれません。またこの曲では、「楽しみ」「アリア」「喜び」といった舞曲ではない楽章が多いことと、終曲のポロネーズをはじめ随所でポーランドの民族音楽の響きが聞けることが特徴です。

チマローザ(1749-1801)/2つのフルートと室内管弦楽のための協奏曲ト長調

イタリアの作曲家チマローザは、古典派のハイドンとモーツァルトの間の世代ですが、様式的にはバロックと古典派の橋渡しをした作曲家(前古典派)の一人です。若い頃からオペラ作曲家として頭角を現し、70曲のオペラを残して、イタリア・オペラの伝統をロッシーニへと引き継ぎました。

前古典派時代に「協奏交響曲」という形式が流行しました。「交響曲」といっても、実際は複数の独奏楽器とオーケストラのための協奏曲に近く、バロック時代の合奏協奏曲の伝統につながるものです。チマローザのこの曲(1793年頃)も協奏交響曲のスタイルを借りていますが、形式的にはかなり自由で、オペラ作曲家らしい歌心に溢れた作品です。

第1楽章は全合奏による力強いテーマで始まり、合奏と独奏が交替しながら美しい旋律がいくつも登場します。2つのフルートが楽しげな会話を繰り広げる第2楽章から、軽快なロンド形式の第3楽章へは、休みなくつながります。

バッハ(1685-1750)/ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調

6曲から成るこの有名な協奏曲集は、ブランデンブルクの領主に献呈された(1721年)ために後世この名前で呼ばれるようになりました。今も昔も誰かに作品を捧げるときには、たいてい何か見返りを期待するものですが、当時ケーテンの宮廷楽長だったバッハも、新しい就職先の斡旋を期待していたようです。

バロック協奏曲の頂点を極めたこの曲集は、楽器編成の多彩さでも際立っています。しかし、この第3番は同じ種類の弦楽器だけ、しかもヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3つずつという、たいへん珍しい編成で、特にどれが独奏楽器ということもなく、中間の遅い楽章はたった1小節で、教会旋法による2つの和音が書かれているだけ(ここで即興的な独奏が行われたと想像されます)。というわけで、むしろかなり古い時代のコンチェルトのイメージに近いものがあります。