バッハとヴィヴァルディ

カメラータ・ムジカーレ第45回演奏会 プログラム・ノート

(2005.10.30 上野学園エオリアンホール、2005.11.3 横浜市開港記念会館)

 

バッハとヴィヴァルディ

1713年の春、留学先であるユトレヒト(オランダ)での学業を終えたヴァイマール公国の若き公子ヨハン・エルンストは、帰国の土産にと、ユトレヒトやアムステルダムで大量の楽譜を買い漁りました。当時ヨーロッパの大きな都市では、ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi、1678〜1741)を初めとするイタリアの作曲家たちの協奏曲が大流行し始めたところで、アムステルダムで有名なオルガニストがそれらの協奏曲をオルガン独奏用に編曲して演奏するのを聴いたヨハン・エルンスト公子も、この最先端の音楽に魅せられていたのです。

帰国した公子はさっそく、宮廷オルガニストのバッハ(Johann Sebastian Bach、1685〜1750)に命じて、持ち帰った作品のいくつかを編曲して演奏させました。宮廷の公的生活のほとんどすべてが音楽を伴って行われていた当時は、音楽の流行に敏感であることが宮廷の格式と権威を高めることに役立つと考えられていたからです。

バッハは初めて本格的に触れたイタリアの協奏曲を、チェンバロとオルガンの独奏用に次々と編曲しながら、その明快で論理的な構成、劇的な表現と美しい旋律の魅力に圧倒され、大きな影響を受けました。以後、協奏曲作品はもとより、器楽独奏曲、室内楽曲、管弦楽曲、そして宗教的・世俗的な大編成の声楽作品に至るあらゆるジャンルにわたって、バッハはヴィヴァルディ風の協奏曲の作曲原理を自らの創作の中心に据えました。もちろん、これは一人バッハだけがそうしたのではなく、当時まだ後進国であったドイツの音楽家たちは皆、こぞってイタリアの協奏曲を真似て作曲し、そのスタイルを他のジャンルにも取り入れようとしたのですが、それをバッハほど徹底して行い、しかもドイツやフランスのさまざまな音楽の伝統と見事に融合させて壮麗な音の絵巻物に仕上げた人は、他にいませんでした。

ところで、バッハにイタリア作品の編曲と演奏を命じたヨハン・エルンスト公子は、自らチェンバロとヴァイオリンを演奏し、バッハに作曲を習って6曲のヴァイオリン協奏曲集を作曲・出版するほど音楽の才に恵まれましたが、帰国後まもなく、惜しくも18歳の若さでこの世を去りました。

本日のプログラムはヴィヴァルディの代表的な協奏曲、それを範としたバッハの協奏曲、そしてイタリア・フランス・ドイツの伝統にもとづくバッハの組曲とソナタです。

ヴィヴァルディ:協奏曲集「調和の幻想」作品3第8番イ短調

ヴィヴァルディといえば協奏曲集「四季」の作曲者として有名ですが、アムステルダムで出版された「調和の幻想」全12曲は彼の協奏曲作品の頂点に立つ傑作です。ヨハン・エルンスト公子のオランダ土産の中にもこの作品集があり、バッハは第8番を含む2曲をオルガン独奏用に、他の3曲をチェンバロ独奏用に編曲しました。

第8番は2つのヴァイオリンが独奏楽器で、第1楽章と第3楽章ではイ短調の音階を下降する冒頭の合奏主題が印象的です。「遅めに、そして生き生きと」と指定された第2楽章では、弦楽合奏が終始同じ音形を繰り返して、独奏楽器の旋律を支えます。ヴィヴァルディは協奏曲の速い楽章で、何度か現れる合奏主題の間を独奏が自由につなぐ「リトルネロ形式」を確立しました。しかしこの曲はやや古いスタイルで、合奏と独奏の役割分担がそれほど明確ではありません。

バッハ:ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ第1番ト長調

バッハは同時代の多くの作曲家と同様に、以前書いた曲を別のさまざまな機会のために編曲して利用しました。この作品も2つの旋律楽器(ヴァイオリン、フルートなど)と通奏低音のための、失われたあるトリオの編曲と考えられています。そのトリオの、2つの旋律楽器の声部をチェンバロの右手とヴィオラ・ダ・ガンバに、そして通奏低音の声部をチェンバロの左手に移して、この曲が生まれました。

「(楽器で)演奏されるもの」という意味の「ソナタ」はイタリアで生まれた形式で、緩−急−緩−急の4つの楽章から成り、速い楽章ではフーガのようにテーマが各声部(この曲ではヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロの右手と左手)の間でやり取りされます。

バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調

ヴィヴァルディによって新しい可能性が開かれた協奏曲の領域において、バッハが提示した最終解答ともいうべき「種々の楽器のための6つの協奏曲」は、ブランデンブルクの領主に捧げられたことから、後世その名を冠して呼ばれるようになりました。当時は聖・俗の権力者や有力者に就職の斡旋依頼を目的として音楽作品が献呈されることがよくあり、この時ケーテンの宮廷楽長だったバッハも新しい職を探していたようです。

第5番は音楽史上初めてチェンバロを独奏楽器とした点で、画期的です。ケーテン宮廷ではもちろんバッハ自身がチェンバロを弾いたのでしょう。第1楽章の終わり近くには長大なチェンバロのカデンツァ(完全な独奏部分)があります。「感情を込めて」と指定された独奏楽器(チェンバロ、フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリン)のみによる親密な第2楽章をはさんで、舞曲(ジーグ)のリズムによる軽快な第3楽章では再びチェンバロの技巧的な独奏が聴かれます。

バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調

形式的にも内容的にもヴィヴァルディの「調和の幻想」第8番をお手本にしたようにみえますが、しかしこれもバッハがヴィヴァルディ風の協奏曲の明快な形式と細密画のように重厚なドイツの伝統的スタイルを巧みに融合させた作品の好例です。

第1楽章ではリトルネロ形式の中にフーガ形式が組み込まれ、第3楽章では冒頭で主題を第1ヴァイオリンから1拍遅れで第2ヴァイオリンが模倣したり、途中で独奏と弦合奏の役割が逆転したりと、バッハらしい凝った細工が随所にみられます。中間の第2楽章では舞曲(シチリアーノ)のリズムに乗って、2つの独奏楽器が心に染み入る旋律で対話を続けます。

ヴィヴァルディ:ソプラニーノ・リコーダー協奏曲イ短調

トリノの国立図書館には、ヴィヴァルディ自筆による「Flautino」のための協奏曲が3曲残されています。この「フラウティーノ」(小型フルート)は、今日いうところのソプラニーノ・リコーダー(F管)を指すとの解釈が有力ですが、確かなことはわかっていません。このイ短調の曲を含む2曲については、C管のソプラノ・リコーダー(日本の小学校で使われているサイズ)が用いられた可能性もあるようです。本日は一般的な解釈に従い、F管ソプラニーノで演奏します。甲高い小鳥の鳴き声を思わせるソプラニーノの音色が、曲想に最もふさわしいと思いますが、いかがでしょうか? ちなみにこの楽器は当時「フラウト・ピッコロ」とも呼ばれ、バッハやヘンデルも声楽曲などで効果的に使っています。

両端の速い楽章は典型的なリトルネロ形式で、明快なトゥッティ(全合奏)部分と華々しい独奏部分の対照が際立っています。

バッハ:管弦楽組曲第1番ハ長調

当時イタリアに次ぐ音楽の先進国だったフランスでは、ダンスを多く取り入れたオペラであるオペラ・バレエが人気でした。バロック時代の管弦楽組曲は、このオペラ・バレエから序曲と作中の舞曲をいくつか抜き出して、器楽だけで演奏したのがその起源です。舞曲にはメヌエット、ガボット、ポロネーズ、ジーグなど多くの種類があり、それぞれの踊りのステップに合わせて拍子、リズム、およそのテンポが決まっていました。

2つのオーボエ、ファゴットと弦楽合奏のためのこの曲は、近年の研究ではバッハのヴァイマール時代に初稿が成立した可能性があるといわれています。とすると、ヨハン・エルンスト公子もその演奏を聴いたか、もしかしたら演奏に参加したかもしれません。序曲といくつかの舞曲の中間部では、2つのオーボエとファゴットが協奏曲の独奏楽器のように扱われています。

 

2005年6月9日、わが国を代表する鍵盤楽器(チェンバロ、フォルテピアノ)製作家、堀栄蔵氏が逝去しました。私たちはグループ結成当時から堀氏に物心両面でお世話になってきました。ここに謹んで哀悼の意を表し、本演奏会を堀氏の霊前に捧げます。