どうやら曲のみならず、歌詞の方も大変評判がよいらしい。私はそんな多数意見にまっこうから立ち向かわなければならないらしい。けれども、まずは声を大にして言いたい。こんな歌詞のどこが良いのだ?この歌詞の異常さに気がつけ!正直、私はこの作詞者の人間性すら疑っている。 何が問題なのか、なるべく緻密に論じていこうと思うが、その前にあらかじめ書いておこう、最初に聞いたときは、私も良い曲だと思った。なんとなく歌詞の言葉遣いが妙かなとは感じたものの、SMAPはかっこよく歌い、曲はキャッチーで一度聴いたら耳から離れない。実は踊りがちょっと気にくわないのだけど、これはまったくの好みの問題。 しかし、歌詞が聞こえるようになって来るにつれ、次第にクエスチョン・マークが増えて行った。やがては卓袱台をひっくり返したいくらいに憤りすら感じてきたのだ。こんな歌詞を誉める感性とは何なのだろうか。 具体的には、冒頭から、この歌詞の異常性が明らかになる。「君はいつも僕の薬箱さ〜」。私はこの部分だけで引いてしまった。文言を素直に受け取る限り、これは一人の人格を「薬箱」というものに例えているのだ。人格をものに例えるという感覚自体がちょっと信じがたいのだが、しかもそのたとえが「薬箱」なのである。冗談ではないぞ!私は愛する人をものに、薬箱に例えることは決してしないだろうし、逆に愛する人からそのような例えをされたら怒るだろう。一人の人間、それも愛する人を対等の人格とは見なさない、そんな異常な精神がここに描かれていることに気づいて欲しい。 しかも、その次が「どんな風に僕を癒してくれる」なのだ。上記のような私の捉え方が間違っていないことがこれで判る。愛する人を薬箱に例え、癒してくれーと要求する・・・。ちょっと絶句するしかない。ここには相手に対する思いやりは欠片もない。一方的な要求のみである。自己中心的で甘えた人格が発する言葉、そう捕らえるしかないのではないか。 これだけで、もう放り出したくなるが、冒頭がこれだから、以後の歌詞も同様の色眼鏡で見るしかない。歌詞としてはありきたりというか、それなりによくできた文言が並ぶのだが、ほぼ破綻しているとしか思われない人格という前提からは、表面的な言葉とは異なった異常な精神性を見透かすしかなくなる。「あきれるほどに そうさ そばにいてあげる」そう言われればストーカーをすら想定してしまう。「眠った横顔 震えるこの胸 Lion Heart」からは、考えたくなくても犯罪的な状況をついつい想起してしまう。「Lion Heart」という言葉は、歌詞の中からでは意味が分からないが、ライオンが肉食獣であり猛獣であるという事実から、容易に襲いかかるというイメージが浮かび上がるだろう。胸を震わせながら襲いかかる・・・、もちろん作詞者が意図したものとは違うだろうが、歌詞の流れからはこちらの邪推の方が、むしろしっくりくるくらいだ。 さて、この"Lion Heart"だが、この歌の題名「らいおんハート」としても現れてくる、おそらくキーとなる言葉である。その意味するところは、某所(http://www.popkmart.ne.jp/idea/d.html)の説明によれば以下のようなものだ。 引用開始−−−> ライオンの雄というのはなんの仕事もしないんだって
引用終了<−−− まず指摘しておかなければならないことは、ライオンの雄についての以上の説明が、動物行動学的に見て誤りであるということだ。が、そんなことはどうでもいい。この説明が作詞者の考えに多少とも近いとして、このような「らいおんハート」をあなたは受け入れることができるだろうか。 要するに「らいおんハート」とは、仕事もせず、子育てもせず、奥さんを守る以外の何もしないということだ。いや、だいたいライオンの雌が襲われるという想定自体が無意味に近いから、事実上何もしないということになりはしないか?そういう人間がいたら、常識的には、穀潰しのぐうたらとかなんとか罵声を浴びせかけられるがおちではないか? この説明は説明になっていないのではないか。むしろ、この耳慣れない「らいおんハート」という言葉、最初から大して意味など付与されていないのではないかという疑念が湧いてくる。確たる根拠は示せないのだが、言葉の響きだけで選んだのであり、意味はあとからこじつけたのではないか、そのように思われてならない。それならそれで良いのだが・・・。 続く歌詞に戻ろう。続く部分は「いつか もし子供が産まれたら、世界で二番目にスキだと話そう」である。再び憤りのあまり罵詈雑言を浴びせたくなる誘惑に駆られる。これは何なんだ。愛する家族の中に順位をつける、奥さんが一番、子供は二番。では父親はどうなんだ、母親は・・・。 確かに現実的に誰々が一番スキというのはあるだろう。愛する家族の中に順位を持ち込むというのはあまり聞いたことがないが、現実的な視点としてあり得ないことではないとは思う。妻と子供とどちらか一人しか助けられない事態に立ち至ったとき、どちらを助けるべきか、そんな想定の中で順位というのは存在しうるのかもしれない。しかし、これは歌詞の中のフレーズである。愛の歌のはずである。そこに極めて現実的な順位を持ち込む、しかも「一番スキ」ではなくて「二番目」なのである。 このような感覚を異常と感じるのは私だけだろうか。少なくとも私は、自分の子供に「二番目にスキだよ」などとは決して言わないだろうと思う。子供もまた言われたくはないだろうと思う。ママが一番と説明されて納得できるほど、人の心は淡泊ではないはずだし、それ以前に順番をつけるという感性が信じがたい。 もうこれ以上続けると、怒りのあまり何を書き出すか分からない。この歌詞ではなく私の人格を疑われるのも面白くないので、このあたりで留めようかと思う。といいつつ、言わずもがなのもう一言になってしまうが、私には、この作詞者の心の中に寒々とした荒涼とした風景が広がっているように感じられる。この作詞者は人を愛したことがないし愛されたこともないのではなかろうか、僭越ではあるが、そのように思われてならないのだ。
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