3月5日(火)映画「もののけ姫」
「千と千尋の神隠し」が旬を過ぎようとする今日び、何を今更なんですが、「もののけ姫」を見ました。冗談と思われるかもしれませんが、初見です。ひたすら世間に背を向ける、というわけでもないのですが、流行に対して斜に構えたがるのかな。そんな私がなんで娘。ファンなんだという話はさておき。
でもって、ちょっと奇怪な感想を書いてしまわなければならないのですが、さすがに不安なって、こういうことは普通はしないのですが、「もののけ姫」の評論、日記をネット検索し、ざっと読んでみました。テキストはたくさん見つかりましたが、だいたい「共生」とか「ノーマライゼーション」とか「エコ」関連の議論が大半を占めているようですね。日本中世史とか流動民関連とか、ま、はいはいさようでございますか的な議論もありましたが、しょもない感想文はともかく、まともに評論なり意見なりになっているものは、だいたいがそんな論調のようです。まさに映画が旬の頃も、やっぱりそんなもんだったんでしょうか。
けれども、私は全く違った感想を書かざるを得ません。「共生」とか「ノーマライゼーション」とかは無関係ではないせよ、この映画の本論ではないのではないか、少なくとも私はそう思います。この映画、そんなに外を向いていません。はっきり内向きの、内省的といえば聞こえはいいですが、宮崎駿監督のきわめて個人的な思いが語られているのではないか、監督の心象風景、あるいは心の旅路なんではないか、そんなふうに思われたのです。
なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、例えば冒頭のアシタカの村は日本人の心のふるさとのような佇まいですが、これって典型的な近代自我によるユートピア幻想、始源幻想になってます。そこへタタリ神が侵入し、村を出ざるを得なくなるという構成は、これまた楽園追放パターンをなぞっています。シシ神(治癒神)を探すというのも同様です。古典的な構成、あるいは深層心理と結びつきやすい表現が多用されているのです。
これに続く物語も、解釈は様々でいいかと思うのですが、例えば神/森VS人間/科学技術という構図は、まさに近代日本が経験してきた歴史のカリカチュアです。神が殺され、世界が平坦化するというのは、まさにニーチェ的です。「美少女」サンとの距離感も、これは暴論かもしれませんが「萌え」と等価のように見えます。
つまりこの映画が表現しているのは、一日本人としての宮崎駿監督の精神構造ではないでしょうか。
伝え聞くところによれば、当時宮崎駿監督は、この「もののけ姫」を最後の映画にするつもりだったとのことですが、とすれば、この映画をより的確に一言で表現できるように思います。つまりは「遺言」ですね。
実際にはその後、「千と千尋の神隠し」が作られ、空前の大ヒットとなったわけですから、この遺言は執行されなかったことになるのですが、そのあたりはまたいつか、私が「千と千尋の神隠し」を見る気になった時、その感想とともにもう一度考えてみようかと思います。