2月27日(水)映画「ミッション・トゥー・マーズ」ほか

映画「ミッション・トゥー・マーズ」を見ました。映画としてのできは、どうでしょ、少なくとも傑作とは言えないでしょうね。世評は知りませんが、たぶんそんなに評判にはならなかったのではないかと想像します。私なりの見方では、ストーリーも人物描写も淡泊といえば聞こえはいいですが、要するに浅薄な感じがしました。

ただその分、人物像やストーリーそのものではない、映画に込められた精神性がより透けて見えるようにも思われましたので、こうして取り上げることにします。

結論から言うと、この映画にはキリスト教的な、いやより正確にはプロテスタント的な死生観が濃厚に漂っており、であるにもかかわらずその事実を、意図的なのかそうでないのかは分かりませんが、隠そうとしています。そこが私にはとても興味深く感じられました。最近の映画では、特にこの場では取り上げはしませんでしたが、「シックス・センス」なんかもそうでした。このいわば「隠蔽」の感覚は、日本的な表現にすれば、まさに「癒し系」でしょう。日米の奇妙な(でもないか)シンクロというところなのでしょうか。

具体的には、映画の中盤あたりに描かれていた、宇宙空間でのサバイバルシーンですね。そこで愛する妻を生存させるために、自らの命を絶つ男が描かれます。これを単純にお涙ちょうだいと捉えていては、一神教の感覚は理解できません。確かに涙を誘うシーンではあるのですが、それ以上に重要なのは、絶望的な現実認識ということです。

この世は絶対的に絶望的に残酷にできている、一神教の世界観とはそういうものです。人間なんて何の意味もなく、簡単に死んでいくのです。いや、より正確には「殺されて」いくのです。過去に生きた人はすべて死んでいます。現在生きている人も必ず死にます。英雄的な死もあれば無意味な死もある、大往生であれ悲劇的な死であれ残酷な死であれ、そんな死はすでに無数に発生し、積み上がってしまっており、しかも徹底的に無意味なのです。そういう現実認識です。

映画「ミッション・トゥー・マーズ」のこのシーンも、愛するもののために死を選ぶという英雄的な、そして悲劇的な死でありながら、しかも限りなく無意味な死、無に等しい死の一つにすぎないものとして描かれています(のはずです)。

このあたり、恐らく私の言わんとするところはうまく伝わらないでしょう。というのは、アメリカの同時多発テロ事件に対し、なぜアメリカがかくも激しい対応をしたのか、それを正しく指摘した日本の論調を、私は眼にすることができなかったからです。そして欧米のマスコミは、そんな当たり前のことは敢えて書かないのです。

映画とぜんぜん無関係じゃないかと思われるかもしれませんが、そこは目をつぶって、アメリカが何に対して反応したのか、そこをよく見てください。確かにテロによる死者という点では等しくみな犠牲者なのですが、他の犠牲者とはまったく違う扱いを受けた人々がいます。それは、消防士たちの犠牲者です。

危険を顧みずに人々の救出に向かい、そして自らも犠牲者となった消防士たち、彼らに対し、アメリカは最敬礼するとともに、犯人たちへの復習を誓ったのです。その後の世界情勢は、もちろん政治がらみですが、民主主義国家アメリカをここまで結束させ、拳を振り上げさせ、断固とした対応を行使させた、その源はといえば、この犠牲となった消防士たちなのです。

無に等しい生であっても、いやだからこそ生きなければならない、生かさなければならない、そしてそれを体現するものを尊敬しなければならない。アメリカにおける消防士とは、そんな尊敬を集める存在です。その崇高な存在の犠牲が、誤解を招く表現になるかもしれませんが、いわば「殉教」としてアメリカ人には映り、そして自らを「宗教的な」情熱へと駆りたてたのです。

話をもどしますが、宇宙への旅路を、英語は"mission"という言葉で表現します。映画の題名「ミッション・トゥー・マーズ」のミッションです。この言葉は、ニュアンスとしてキリスト教の「伝道」という意味が込められています。宇宙という絶望的に残酷なフロンティアに赴く、そこには、宗教的な情熱が明示的であれ暗示的であれ存在します。いや、はっきり言います、宇宙探検というのは人類の英知という名のキリスト教世界の拡張、つまりは「伝道」として理解されているのです。

この宗教的情熱の最終的な目的は何かといえば、神の意志を知ることになります。本来のキリスト教(ヨハネの教義)では、この世の全ては神によって決定されています。過去現在未来の別なく、神は全てを決定しているのです(予定律)。しかし、人はその神の意志を決して知ることはできず、無明の闇をさまようのです。絶対的に絶望的に残酷な世界観とはそういうことです。

しかしそれでも人は生きるのです。いや神によって生かされるのであり、生きなければなりません。そんな中、神へ一矢でも報いようという意志が、例えばサイエンスを生み出します。科学と宗教は相反するものと日本人はかってに思いたがっていますが、そんなことはない、科学とはキリスト教の内部概念です。

話がとっちらかってしまってますが、もう一度「ミッション・トゥー・マーズ」にもどりましょう。つまりは、宇宙探査の先に神が現れるというのは、アメリカ人の常識のようなものです。彼らはそういう精神構造をしているのです。だから、ここでも造物主が現れます。いわばお約束です。

ところが、ここからが、いわば「非常識」になっているのです。火星で遭遇した造物主は、ちっとも造物主らしくありません。顔といういわば偶像に鎮座し、お辞儀(bow head)めいたことはするは、姿形は恐竜人でも参考にしたのか崇高さも感じられません。

何よりいけないのが、造物主であるはずの恐竜人君、ただの火星人なのです。天災により火星に住めなくなり、宇宙に散った火星人が、気まぐれで試してみた実験の結果、人類が誕生した、そんなお話になっています。これではいけません。日本的に言うなら、水戸黄門様だと思っていたら、真っ赤な偽御老公だったてなもんでしょうか。

でもって主人公は、そんな元火星人文明に招待され、どっかへ旅立ちます。自分の人生を、無数の死を、人類を代表して、背負って、どっかへ旅立つのです。おいおい、こんなのありか?これじゃこれまで死んでいった無数の人々が浮かばれないでしょ・・・・。

というか、ここでようやくストーリーや人物描写の浅薄さの意味が合点されるのです、少なくとも私には。つまりはキリスト教的世界観の緊張を無へと昇華させる(例えばアルマゲドンのごとく、アルマゲドンは話ははちゃはちゃですが)のではなくて、監督はそんな緊張感を拒否して、心優しい火星人(現人神!)が造物主であり、人類はよくできた子供なんだ、だから暖かく受け入れてもらえたんだという、優しい物語にしてしまいたかったのではないでしょうか。

この世界観は、予定律ではなくて因果律になってはいないでしょうか。とすれば、もはやここには残酷な現実は存在しないことになります。いや残酷には違いないにせよ、人の意志は世界に反映されます。状況はまったく別物となります。なりますが、これでは羊頭狗肉です。アメリカ人って、もしかして日本人から精神的な影響を受けつつあるのでしょうか。先に挙げた「シックス・センス」にしても、あまりに非キリスト教的な物語になってましたし。

話まとまりませんが、これはこれにて。



2月18日(月) 「ザ・スクープ」を見よう!

うーむ、月一更新になりつつありますね。でもって、最近のネタは娘。関係ばかり。エセオピニオンサイトを目指すとの、当初の野望は早くも脆くも潰え去りそうな今日この頃です。

んなわけもあって、というわけでもないのですが、久々にいわゆる「硬派」ネタです。私、基本的にテレビネタは扱わない方針(いつ決めたんだろ?)なんですが、今回は見ていて驚愕のあまり、書き散らすことにしました。そう、テレビ朝日系列での本放送が土曜の昼10時50分からと、はっきり言って冷や飯ぐらいの「ザ・スクープ」です。

土曜のこんな時間に硬派の調査報道番組を見るなんて、よほどの好き者としか言いようがありません。まともな人が見ているとは思われません。もちろんご存じのように、この「ザ・スクープ」、以前はもっと見やすい放送枠にありました(正確には失念)。私も、そのころはよく見てました。でもって、例えば「桶川ストーカー殺人事件」など、その報道としてのレベルの高さと、ジャーナリスト鳥越俊太郎氏のすばらしさ、何よりも「愛」の存在に、非常に感銘を受けながら見ていたものです。けれども現在の放送枠に「左遷」された後は、とんと見なくなっていました。ま、大衆なんてそんなもんです。

でもって2月16日の放送は、スケジュールの都合でたまたま流し見ることになったのですが、たちまちのうちにのめり込むように見入ることとなってしまいました。恐らく見ていない人が大半だと思いますが、ここでネット配信されていますから、悪いことは言いません、ぜひ一度見てみてください。でもって、そのすごさを実感してください。いまいちすごさがピンと来なかった人は、これから僭越にも私が解説を垂れますので、参考にしてみてください。

何がすごいのか、一言で言えば、すべてのソースが一次資料であり生だということです。例えば使われている証言は、すべて本人が語っています。伝聞や消息筋はまったくありません。公式発表されたもの、あるいは公式文章でも、すべてウラ(つまりその記述者、あるいは陳述者)の証言を生でとり、内容を確認してあります。すべて番組のスタッフによって取材してあるのです。

あたりまえだと思われた方、あなたは正しい。報道とは本来どころか当然、そうあらねばならないのです。こういうのを「報道」と呼ぶのです。

ところが一般的な報道の実態はどうか。翌日の報道番組(のようなワイドショー)で見て印象に残ったので取り上げますが、某局(だけじゃなかったね、それこそウラをとってないので断言はできないけど)では堂々と、いっさいウラをとらず、自らはまったく取材することなく、ある情報を垂れ流していました。

それは鈴木宗男議員ネタでした。共産党の議員が予算委員会で指摘した「ムネオハウス」「ムネオ号」の件を、あろうことか「共産党議員の調査による」とキャプションまでつけて、おもしろおかしく映像としゃべくりをでっち上げて、もっともらしく大仰に垂れ流していたのです。

私は、そのあまりの落差に呆然とするのも忘れて冷笑してしまいました。おまえら取材しろよ・・・、もちろん私が言ってどうなることでもないのですが、人のネタで商売する、他人のふんどしで勝負する、この厚かましさ厚顔無恥に、ただただ呆れかえるしかありませんでした。

しばらく呆れかえって、でもってあほらしくなって我に返ってちょっと考えてみて改めて気づかされるのは、溢れかえるマスコミ報道の大半(というかほとんど全部)が、同じ穴のムジナだということです。少なくとも私が知る限り、大手マスコミは歌を忘れて念仏を唱えるカナリヤのようなもんです。

いつから使われるようになったのか、奇妙なニュース用語があります。「〜であることがわかりました。」ってやつですね。あれって何なんでしょ。私、あれを聞くたびに虫酸が走るというか、バカヤローと叫び出したくなるのです。誰が「わかりました」なんだ、私は別に分かってなんかいないぞ。ソースを出せ、ソースを。かつての大本営発表だって、もうちょっと工夫していたというか、時々耳にするピョンヤン放送みたいに、芝居がかってまで説得しようする努力が見られたものです。おまえらなめとんのか!?

ネット時代となった今、マスコミ報道のソースに当たるのは簡単です。英語が読めなくても、けっこう使える翻訳ソフトが出てきているので、誰でもニュースソースにアクセスできます。むしろソースの信頼性をどうやって判定するのかが問われます。引きこもりのたむろするBBSですら、いや、だからこそ常套句に「ソースを出せ」があるくらいです。であるにもかかわらずの「〜であることがわかりました。」、間違いないですね、完全になめてるというか弛み切っているのでしょう、大手マスコミは。

自ら取材をしないというのも、こうやって見てくると当然なわけです。この国を蝕んでいる病根の、もっとも分かりやすい、そしてもっともたちの悪いていたらくが、大手マスコミ自らによって鮮やかに曝されているというわけです。

話を「ザ・スクープ」にもどします。ものすごい努力をしたであろう、その努力の姿はおくびにも出さず、番組はいわゆる「筋弛緩剤混入事件」の真相に迫っています。どこにも憶測はありません。すべてのソースは開示され、生データのみでの合理的推論が展開されています。そして、現役警察官の偽証と、捜査段階の予断を鮮やかに立証するとともに、捜査の理不尽さ、警察そして検察の無能ぶりを、キャスターが言葉で語るまでもなく鮮やかにあぶり出して見せています。いい仕事してます。

繰り返しますが、これが報道というものではないでしょうか。鳥越俊太郎さん、都合がつく時にしか番組を見ないダメ市民の私ですが、あなたの姿勢と努力を支持します。何にもできることはありませんが、応援します。






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