12月11日(火)  100回のKISSをつついて鵺を出す

ここは無責任妄想匿名サイトですので、そこんところよくご理解の上、今回の暴走ぶりをご堪能ください。って、ここを見てる人はみなさんよくご存じか。

というわけで、これまではあえて(?)避けていた歌詞の完全解説を試みることにします。というのも、この"100回のKISS"の歌詞は超絶レベルですばらしく、であるにもかかわらず、ある意味捨て歌詞となっているからです。無力ながら私が詳説することで、わずかなりともこの歌詞のすごさが伝わって欲しい・・・というのはおこがましいかな。

まずすばらしいのは、曲なしで歌詞をそのまま読んでみても、一流の詩になっていることです。ほんの一部(英語部分)を除いて日本語として破綻はありません。流れるように美しい言葉遣いとリズムです。曲に乗せた場合については、後で詳しく述べます。

詩の内容ですが、女性の独白という形になっていて、複雑でつかみ所のない、いわゆる女心が語られているというのは異論のないところでしょう。言葉が重層的に錯綜し絡み合って、詩の世界の全体像を把握するにはいくらかの困難が伴いますが、ヒントはあります(以下、引用歌詞頭の数字は段数です)。

11:あの日の気持ちは

12:ウソとかそんなんじゃないし

に対する

16:100回あなたを許せる

そして

22:あの頃は淋しかった

23:いろんな事が重なったから

に対する

31:100回あなたの夢を見るわ

という心理です。22,23段から、この女性は失恋、裏切り、失意といった状況にあり、傷心状態にあったことが伺えます。11,12段からは、どこか心ならずも、相手の男と性的関係を持ったことが仄めかされています。31段は、相手の男に精神的にすがり救いを求めたことが、しかし16段は、そんな男が自分を抱いた事への咎めが、それぞれ逆説的に語られています。

男との微妙な距離感は、詩のあらゆるところで明示的に語られます。

01:心まで入らないで

02:別に隠してるわけじゃないよ

05:それ以上、のぞかないで

06:別に嫌だって意味じゃないよ

いけてない硬い表現で言い直せば、これは拒絶と許容の間の心の揺れでしょう。背後にあるのは弱い自分(自我)を守りたい、しかして弱い自我を支えて欲しいという矛盾というか葛藤です。あるいは表裏関係の依存心です。この二律背反は、

10, 27:っていうか別に別に別に...

で、強がりと甘えの重なった多重表現、あるいは自己への引きこもりと他者依存の共振として絶頂に至ります。そして、

28:どうして涙が

29:流れてくるのでしょう

カタストロフがやってきます。しかし、このカタストロフは自覚を拒否しているので、心の辿り着くところはどこにもありません。歌詞は無限ループとなって自己矛盾、あるいは自我の弱さ、依存心と自尊心、性的肉体と心を丸め込み、何ら解決されることなく、かたまり、わだかまりとなってそこに放置されます。

「100回のKISS」という言葉が、この詩世界が描くかたまりにしてわだかまり、あるいは「鵺(ぬえ)」を現出させる魔法の呪文です。この呪文に解決、あるいは存在そのものが丸投げされ、あたかも重大な意味のある言葉(現実)であるかのように振る舞います。しかし、もちろんそれは幻なのです。

さて、この歌詞が曲に乗るとどうなるか。基本的に、曲に乗せて歌った歌詞の内容が、耳で聞いただけで容易に分かります。ふつうに語られる口語としてニュアンスまで聞き取ることができます。ちゃんとした日本語としての情感と抑揚が実現されているのです。

これは近年の日本の歌(というかJ-POP)では希有なことではないでしょうか。たとえば典型例として思い浮かぶ、ミスターチルドレンの桜井和寿氏の歌い方、たとえば"Youthful Days"では、何を言っているのか聞き取るのは困難です。ちなみにこれは桜井氏を誹謗しているのではありません。私、"Youthful Days"はけっこう好きです。

日本語は高低アクセントの言葉です。みなさんよくご存じのように、日本語には、表記こそされませんが複雑なアクセントがあり、そのアクセントにニュアンス、情感のみならず、意味まで付与されています。日本語は開音節言語であり多音節言語です。世界でも少数派の発音系です。そして、これらがJ-POPの曲に日本語を乗せることを困難にしています。

一例桜井氏の歌い方は、そんな日本語の特性を極力なくしたものです。この唱法の元祖は桑田佳祐氏だろうと思いますが、確かめたことはないので違っているかもしれません。高低アクセントをやめて強弱アクセントに近づけ、語頭の子音の発音を強めて母音の発音を弱めることで、英語の発声法に近づけるわけです。しかし、これでは一聴して内容を聞き取り難くなるのもいたしかたありません。それでもどうにか聞き取れる分、中国語圏(広東語、普通話)などに比べれば状況は遙かにましであり、これはこれで一つの革新でしょう。

つまりこの曲は、普通に日本語で歌われているわけです。かつての歌謡曲、演歌、あるいは童謡、唱歌のように。いや、それ以上にニュアンスまで曲に鮮やかに乗っているのですから見事と言うしかありません。この歌は歌詞が先行して作られ、それに曲が合わせられていったのだろうと、私は推測します。

さて、ここからがちょっと問題なんですが、この"100回のKISS”、CD音源と生歌(私の聞いたのは「歌の大辞典」の超短縮バージョンのみです)では、少なくとも私には非常に違ったものとして聞こえたのです。CD音源では、音程と発音、抑揚、音と言葉の兼ね合い、リズムの取り方が大変込み入ったものになっています。発声法こそ違いますが、一種演歌的な歌い方がなされています。その結果、歌詞の内容はよりウェットに伝わり、成熟した女性の歌となって聞こえてきます。情感が深まり、歌詞世界の仮想現実感が濃密に伝わってきます。

ちなみにこのCD音源の歌唱法は、ちょうど同じ「歌の大辞典」に過去のヒットチャートで登場していたシャ乱Qのつんくの歌唱法と類似していました。母音を丁寧に発音し、細かい抑揚をつけてニュアンスを表現し、言葉のリズムを大事にしていました。

一方、生歌の方では、CD音源のような込み入った歌い方=ニュアンスはきれいさっぱり消えていました。歌い方も言葉の立ち上がりが強調され気味になり、曲のリズム側に歌詞が合わされています。このような歌い方の差異がもっとも顕著に出るのが、下でも指摘した"Yes, My Love Story"と"It's My Love"の部分です。CD音源ではここでリズムが崩れるのですが、生歌ではまさに歌詞の一部として違和感なく聞こえます。

結果、生歌はより耳障りが軽くなり、優しくなり、アイドルらしい曲に聞こえて来るから不思議です。歌詞に立ちこめる濃厚な霧が嘘のように晴れてしまい、聞き取れる言葉の表情は、まるで少女のぎこちない恋物語のようです。アイドルである松浦さんの等身大のように響きます。

どちらの表現が作者の意図に近いかといえば、恐らくよりつんく臭の明かなCD音源の方でしょう。しかし、歌詞に"Yes, My Love Story"と"It's My Love"が入っているのが引っかかります。この部分は敢えて言うなら松浦色です。

そこで最後にしょもない妄想を垂れて、この論考を終えることにします。

"100回のKISS"は、そのできから言ってつんくのいわばモナリザだったのではないか。誰に歌わせるつもりでもなく、少しずつ手直しをしながら暖めていたのだが、松浦の出現により彼女の曲となった。しかし、歌詞の内容が大人すぎるので、最小限の修正を加えて英語部分が現れた。それでも歌唱に無理があるということで、松浦の成長を待ってのCD発売となった・・・。ちゃんちゃん。



12月3日(月)  100回のKISS

美しいです。ほんと美しい曲です。なんか聞いてて感極まって泣きたくなりました。みなさん、聞いてください。

・・・とま、これ以上の言葉は必要ないかとも思いましたが、よけいな言葉を動員してまでも賞賛したい気持ちの高ぶりを押さえられません。情報によればこの曲は以前、どこかで一度使ったものの再アレンジによるシングル化とのことですが、なんでこんなすばらしい曲がお蔵入りしていたのでしょうか。いろんな要素をトータルに見てつんくの最高傑作ではないか、そう私には思われるほどです。

とにかく隅から隅まで美しい、そんな感想しか出てきません。メロディの美しさもちろんですが、歌詞の美しさ、松浦亜弥の声の美しさ、歌唱の美しさ、そしてそれらが相乗することによるえもいわれぬ美しさ・・・、これ以上ないほど褒め称えたくて、どうにも褒めるすべがない、そんな逆説に追いつめられてしまうような、ほんとすばらしい曲です。

中でも、メロディに乗った歌詞の美しさといったらありません。どこを取り上げても完璧というか、ほとんど隙のない完成度ですが、あえて一カ所を拾うならやっぱり「って言うか別に別に別に・・・」でしょうか。歌詞の情感とメロディとリズムが至上の融合を遂げています。松浦さんの声と歌唱が絶品です。

うーん、どうやってもうまく褒め称えることができない。こうなんだって感じてる感触の10%も言えてない。私の表現力では、この曲のすばらしさにとうてい到達できません。褒めるというのは難しいものです。

というわけで、この曲で唯一、ほんとうに唯一、わずかに気になるところ、ほんのわずかなんですが引っかかる部分を指摘することにしてしまいます。そう、けなすのはとても簡単なことなんです。

私がわずかに気になる部分とは"Yes, My Love Story"と"It's My Love"という英語の部分です。曲の最後なんですが、ずっと日本語の美しいリズムと情感で歌われてきたものが、この英語でほんのわずかですが躓くように感じるのは私だけでしょうか。この歌がこうまで美しいのは、歌詞に表現された情感と、メロディと言葉のリズムと声と歌唱が完璧にマッチしているからです。ところが、ここでだけ、そのマッチングが微妙にずれるように感じられます。情感が唐突にしぼむように感じられます。

あえてこのようにしたのかもしれない、そう考えてもみました。情感を曲が終わった後まで引きずらないように、終止符のつもりでこのようにしてみたのだろうかと。けれどもどうにも納得できません。

まあ、私に作詞の才能があろうはずもなく、こんな疑問を垂れても何の意味もないのですが、思いつき的にこの謎(?)を解いてみることにしましょう。

仮説1この曲は歌詞から作って行った。

だってそうでしょう、曲なしで歌詞だけ読んでも、すばらしい出来具合の詩として成り立っているんですから。純粋に詩として見たって、こんなのよほど詩人としての才能がないと書けませんよ。メロディとリズムが先にあって、それに言葉を乗せていくというのでは、歌詞だけを眺めたとき、こんな美しい日本語として読めるようにはならないでしょう(ホントカヨー)。

仮説2当初の歌詞(詩)には"Yes, My Love Story""It's My Love"の部分はなかった。

詩として読んでみれば分かると思いますが、この英語の部分はいらないんです。ない方が詩として自然です。

仮説3かくして・・・

詩ではなく歌詞として、曲として形あるものにする過程で、この"Yes, My Love Story""It's My Love"という部分が追加されたのでしょう。曲として完成させるために、どうしてもほんのすこしバランスを崩さざるを得なかった・・・。あるいはこのあたりが、いかに歌謡曲化して日本化の努力を尽くしても、欧米生まれの音楽、欧米生まれのポップスに、日本語を乗せることの難しさ、限界が現れているのかもしれません。






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