9月18日(火)  溢れちゃう・・・BE IN LOVE

先日のミュージック・ステーションが初見となりました。でもって私、「つんく、びびったか!?」などと呟いてしまいました。ま、ほんとに口に出したかどうかはともかく、直感的にそんな感触を持ってしまいました。

どっちかというとぼけっと流し見していた(正確にはミニモニを見た後、脱力していた・・・)ので、何かものを考えたとか分析したとかではなく、正に直感です。ですからまったくの思い過ごしの間違いかも知れません。けれどもそのような直感がひらめいてしまった以上、自らその解釈を以下にしてみます。

前作「愛のバカやろう」でもその気配はあったのですが、今回ははっきりとした形で現れたのだと思います。それは、楽曲と歌い手のズレというか、えーい、はっきりと書いてしまおう、後藤真希という素材を楽曲が十分に表現し切れていないのではないか、楽曲が力不足なのではないかということです。

それでも「愛のバカやろう」では、後藤さんの拙さというか、未熟さがまだしも救いになっていたと思います。敢えて言うならへたくそな分、バランスはそう悪くなかったというか。しかし今回は違います。急成長を遂げた、遂げつつあると思われる後藤さんを前に、楽曲が力負けしています、いや、力負けというより、私は作者のとまどい、そしてそう、びびりのようなものを感じてしまいました。冒頭の直感は、おそらくこれだったのだと思います。

Mステの一回限りを見ただけでどこまで暴論を吐くと思われるかも知れませんが、そこは匿名いーかげんサイトなんで、どんどん気にせず書いちゃいます。今回の後藤さんの輝きようは尋常ではありません。こりゃあホンモノです。超一流の素材ですね。これからまだまだ延びます。

けれども、冷静に公平に見て、つんく(あるいはプロデューサーサイド)は、はっきり言って今ひとつ一流とは言い難いと思われるのです。もちろん才能はあるでしょうが、それも超一流といったものではないでしょう。多くの人が同意してくれると思うのですが、つんくは努力の人でしょう。並の才能を超絶の努力で補う、そういう人だと思います。

才能には格(より正確には階級というべきでしょうか)があります。二流の才能が一流を越えることはなく、超一流となると存在そのものが別格となります。で、どうやら後藤さんは超一流である可能性があります。もちろんいくら才能があっても努力しなければ宝の持ち腐れですが、今回のパフォーマンスを見る限り、後藤さんは努力しています。

そして、超一流の存在を一流以下がプロデュースできるのか?私の思いは、この疑問へと辿り着いてしまうのです。

つんく(そしてプロデューサーサイド)は、後藤真希という素材を取り扱いかねているのではないでしょうか。なんとか後藤さんにあわせて楽曲制作を試みるけれども、自らの力不足に突き当たってしまっているのではないでしょうか。そして、何事に対しても常に自覚的なつんくは、そんな状況に焦っているのではないでしょうか。

折しも、ネットでは盗作騒ぎが巻き起こっています。私は確認していませんが、確かな耳の持ち主がクロと断定しています。確かにオーバーワークと言うこともあるかもしれません。しかし、私の直感とこの盗作騒ぎは、不幸にも向いている方向が同じなのです。焦った末に自己を見失い、他の才能に闇雲に依存する・・・イコール盗作ということなのだとしたら・・・、そうでないことをただ祈るしかありません。



9月14日(金)  アメリカのテロ事件と報道の偏向

何か書かねばと思いつつ、やはり否定できないあの映像のインパクト、大型旅客機が超高層ビルにあいついで命中し、数十万トンの巨体を崩壊させるという、ハリウッド映画をはるかにしのぐ凄まじい映像に圧倒されてしまいました。数千人の犠牲者が出ているというのに、現実感覚が伴いません。なにか麻痺したような、淡い酩酊のような状態が持続しています。

そんなあやふやな精神状態の中、現実の事件の実態についてまともに考えることなどとてもできませんが、それでも周辺に蠢く情報操作というか、マスコミの報道内容の偏向ぶりには閉口せざるを得ません。こちらにはむしろ過敏にすらなってしまいます。

具体的には、崩壊した世界貿易センタービルはなぜ狙われたのか、そこでは何が行われていたのか、報道されているとおりテロの実行犯がイスラム原理主義者だとするなら、彼らの実態はどのようなものなのか、アメリカのテロ対策はどのようなものだったのか等・・・、誰がこんな情報操作をしているのか、奇怪な感じすらします。

まず、世界貿易センタービル(を中心としたストック市場)ですが、ここでの最大の機能は言うまでもなく国際金融取引です。もっというと、コンピュータ上にしか実態を顕わさない巨額の富(一説には数千兆円!)を巡る、超絶レベルのギャンブルが行われていた、まさにその現場です。犠牲者の多くは、いわば高級ギャンブラー達なのです。

そんな、良識ある一般市民的感覚から見た場合、まさに異常としか言えない場所にして、アメリカの富の象徴であり、力の源泉でもあるウルトラスーパーカジノこそが、今回の標的とされたまさにそこなのです。ここを狙う妥当性と、そこにたどり着ける洞察力に、私は身震いすら覚えます。

次にイスラム原理主義ですが、これはアメリカによるイスラム圏介入と不可分の関係にあります。一例、今回名前のあがっているオサマ・ビン・ラディンは、かつてのアメリカのエージェントであった可能性が高い人物です。イスラム教自体は大変寛容な宗教で、異民族、異文化、異宗教とも共存共栄を望みます。ある意味、最も平和主義的ですから、今回のテロというのも、イスラム教そのものとは直接関係がありません。

テロ事件そのものも、追々明らかになることでしょうがかなり奇妙です。おそらくエシェロン等を駆使することで、今回のテロをアメリカは察知していたはずです。いや、間違いなく察知していました。であるにもかかわらず未然に阻止できなかった、ここには恐らく政治的な配慮が隠されています。

あくまでも傍証にしかなりませんが、アメリカ政府にとっての最要人であるブッシュ大統領とパウエル国務長官は、事件当日、ワシントンにはいませんでした。最悪の事態を想定していた可能性を否定できないのではないでしょうか。

これ以上の深読みはあえてしませんが、それでも、今回のテロ事件とかつてのパールハーバーの「政治」レベルでの近似には、少なからぬ人々が気がついていることでしょう。パールハーバーについてすら、その政治性についての正式の議論はなされていない以上、屋上屋を重ねる愚を犯すつもりはありませんが、しかし、この近似性は、今後のアメリカ、そして世界の動きの中でますます明瞭になるかもしれません。

少なくともこれだけは言えると思います。今回の想像を絶する事件についてのマスコミの報道内容には不審な点が多々ありますし、第一、当事者たるアメリカそのものの振る舞いもまた異様だということです。もっとも、これが国際政治なんだといわれれば身も蓋もないのですが。



9月4日(火)  映画「タイタニック」

何を今更の「タイタニック」ですが、テレビで放送されたようなので、ちょっと蘊蓄します。ちょっとだけです。

この映画をラブストーリーとして見た方、あるいはパニック映画としてみた方、中には史実の正確な再現フィルムとして見た方、様々だろうと思いますし、別にそんな見方に異をとなえる意図は全くありません。ありませんが、ここは一つ、別の見方もあるんだよという提案をしてみようと思うのです。

というか、たぶん上記のような一般的(でしょ?)な見方では、どうしても冒頭と末尾を飾り、途中にも挟まった現代のシーンの意味が、今一つ納得できないんじゃないかと思うのです。なんでこんなに多くの現代のシーンがあるのか、あるいは主演女優はなぜ、宝石を海中に投じるのか、その意味がつかめないのではと思うのです。

実は、これらの現代のシーンには、制作者の深い思いが込められています。その思いが伝わると、回想(再現)されたタイタニックの物語を、また違った角度から楽しむことができるようになります。いや、むしろ、なぜここまで正確な再現を試みたのか、客船タイタニックのディテイルに拘ったのか、制作者の思いがわかります。そして、この映画が真の傑作であることが納得できると思います。

結論から先に言ってしまうと、この映画はアメリカの歴史(あるいは非歴史というべきでしょうか)を描こうとしているのです。アメリカという国は、ヨーロッパ人だった人々が祖国を捨て、一から作り上げた国です。歴史を捨て、伝統を捨て、少なからぬ人々は言葉をも捨て、プロテスタント的なイデオロギーのみに依拠して、人の意志により、いわば人工的に作り上げた国です。

客船タイタニックは、そんなヨーロッパからアメリカへの移民船という性格を強く持っていました。特に船底の三等以下の船室には、故郷を捨てて新天地アメリカを目指す若者たちが大勢乗っていました。

その一方で、一等船客は階層社会であるヨーロッパの上層部、高い教養と知性を持ち、世界最高峰のヨーロッパ文化を担う人々が乗っていました。映画にも克明に描かれていましたが、あらゆる部分に高い文化のみがまとうことの許された美と退廃があり、そしてその周辺にはスノビズムがはびこっていました。つまり、ここにはヨーロッパの縮図があったのです。

そんな客船タイタニックが氷山と衝突し、やがて沈没するという過程には、ヨーロッパの没落が重ね合わされています。そしてそこからの脱出、生存というのは、アメリカの勃興を象徴しています。すべてを失うこと、そこからアメリカという国は始まったのです。

ですから、詳しくは書きませんが、アメリカという国は「歴史」を拒否します。西部開拓史という「神話」こそ用意しますが、それは歴史ではありません。現在もなお多くの移民を受け入れることで成立しているアメリカという国は、日本のように歴史を共有することで国を成立させることが決してできません。いや、逆に歴史があってはならない、そう考えるのです。

そんなアメリカという国の「歴史」あるいは「非歴史」を描き出す、えぐり出してみせることに、この映画「タイタニック」は挑戦しています。そして、私には、その目的をある程度は達成できているように思われます。

現代のシーンの謎解きはこうです。深海調査船による宝探しというのは、いわばアメリカ(人)の自分探し、自らの深層に埋もれている闇の捜索です。沈船タイタニックとは、捨て去り、忘れ去ったはずのヨーロッパの象徴です。多くのアメリカ人にとっては、意識すらされないような、しかしてタブーの世界です。

そこに宝石を戻す主演女優の意志、そして破顔一笑こそが、この映画の白眉となります。宝石は現代アメリカ人に深く静かに残存する、美化されたあるいは秘めやかなヨーロッパそのものです。こんなものいらない、返してやる、それはアメリカ、そしてアメリカ人の、ヨーロッパに対する勝利宣言なのです。

映画「タイタニック」とは、物語と表裏でいわばアメリカの精神分析でもあったわけです。この映画はアメリカの無意識を暴き、何事もなかったかのようにタイタニック、そしてヨーロッパを埋葬し終えるわけですが、そこはやはりタブーということで、青春の思い出にまぶされる形で映画は終わるのです。

もしかしてこの映画は、日本人がもっとも楽しめたのかもしれません。アメリカ人にとっては、気がつくかつかないかはともかくタブーに触れているわけですし、ヨーロッパ人にとっては喪失の記憶であり、苦々しい思い出と映るのかもしれません。

先にこの映画は真の傑作だと書きましたが、どうも制作者たち、ヨーロッパの深層の方はよくわかっていないぽくはあります。ヨーロッパに勝利するのは1000年早いというか・・・、それともあれは「勝利宣言」なんかではなくて、「父さん母さんありがとう」なのかなあ。そうは見えなかったけど、だとすれば心温まる(?)お話なんだけどな。






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