2001年3月



3月19日(月)  愛のバカやろう

先週は恥ずかしげもなくヲタモード全開になってしまったが、今回もヲタが入っているかもしれない、が、気にしないことにする。まずは拍手だ、後藤さん、あんた凄いよ。

実は今回のソロ曲、ミュージック・ステーションで初めて見聞きした。事前のチェックなり拾い食いはしなかった。あちこちのサイトで芳しくない評判は目にしており、関心がないわけではなかったのだが、放っておいた。そこへ中澤さんショックが重なり、わたし的に二重に偶然とは思えない展開となってしまい、そして今日に至っている。何のことだか分からないだろうが、特に説明はしない。おいおい分かっていただけたらと思う。

「愛のバカやろう」は、後藤さんのソロデビューにベストフィットと言い得るように思う。曲だけ聴けばなんじゃこりゃなのだが、後藤さんが歌えばこれ以上はないくらい映えている。そう、曲ではなくて後藤さんの方が、である。見事なできだと思う。売れるかどうかの判断力は私にはないが、私が感じたものが世の中に受け入れられれば売れるだろうし、そうでなければ売れないというだけのことだ。別に予想とかをするつもりはない。

99%の努力(perspiration)と1%の才能(inspiration)という有名な言葉がある。天才の定義のように語られることもあるが、そしてしばしば逆の意味に使われているが、より有用な理解は、1%の才能にこそすべてがあるという現実を受け入れること、これに尽きるだろう。そう、これ以上はない努力も、才能がなければ成就することはないということだ。もちろん、才能があっても努力しなければ宝の持ち腐れということでもあるのだが。

「才能」という言葉では誤解があるかも知れない、あえて原語を上げておいたが、この"inspiration"とは、努力では決してあがなえない産まれ持ったもの、いや、より原義通りに受け取ろうか、人間の意志とは一切関係なく、勝手に神が吹き込んだ能力のことである。努力は人間の意志の発露だが、才能は人間の意志とは一切関係がない。

そして、どうやら後藤さんには、表現者としての才能(inspiration)が備わっているらしい。以前からエセ業界人だのゴロライターもどきがそのように吹聴していたのは聞き知っていたが、驚いたことにどうやら嘘ではなかったようだ。やはり見るべき人が見れば原石の段階でも「神の意志」は自明なのだろうか。

娘。の最大の魅力は、そのひたむきさであり、その純粋さだろうと思う。いたいけな少女達の努力の積み重ねが人々の心を捉えていく、そういう物語に魅了されていくということだろう。もちろん彼女たちもまた十分すぎるほどの才能に恵まれている。努力する才能だからこそ魅力的なのだ。

そして後藤さんだ。彼女も努力している。そのように思わないファン(ヲタ)もいないわけではないようだが、努力する才能であるには間違いないだろう。ただ、そのアウトプットには歴然とした差が現れてしまう。おそろしく残酷な現実である。努力の量や質ではなく、結果的に露わになるのは才能の量と質なのだ。

後藤さんはその図抜けた才能を明らかにしてしまったと私は思う。口籠もってしまうのだが、それは娘。という才能とは別格のものである、私にはそのように感じられてしまった。そしてそして、一方でまさに娘。の中でも努力の人代表と言うべき中澤さんの脱退である。私は脱力するしかなかった。

いちおう繰り返しておくが、これは売れる売れないとは別次元の話である。才能があったって運(人間の意志とは一切関係ない、いわば神の意志)に恵まれなければ売れない可能性だってあるだろうし、逆に才能に恵まれなくても運があれば売れることだってあるだろう。

もう今日はここで放り投げてしまおうとも思ったが、ふと気を取り直して、最後に一人の少女に心を致すことにしようと思う。誰あろう、市井さんである。市井さんの才能がどれほどのものであったのか、今となっては分かりようもないのだが、最後に至るまでのあの光り輝きようが尋常ではなかったことは、娘。ファンで知らぬものはないだろう。今回の後藤さんのソロが売れるようなら、市井さんの再デビューなどという夢物語もあり得ることなのかな、何の根拠もなく、ふとそんなことを夢想してみたりした。



3月12日(月)  ビューティフル・ドリーマー

鬱だ、氏のう・・・、で済む話ではない。マスコミの扱いとは桁違いの衝撃が日本中に走ったに違いない、そう、中澤さんの脱退である。いつかその日が来るこことは誰にでも分かっていることだった。けれどもその日が来てしまった今、失われるものの巨大さにただ呆然とするしかない、時が流れ行くのをただ眺めるしかないのだ。

この脱退が娘。というムーヴメントの発展的方向性の中で決まったものであるのなら、それは哀しいけど拍手をもって、あるいは祝福をもって迎えることができたかも知れない。一例たとえば寿脱退だったなら、たとえば真の意味での卒業であったなら・・・。しかし、誰もが気づいているように、今回の脱退はきわめて「政治的」なものであることは2chをみるまでもなく、火を見るより明らかだ。その行き着くところが娘。ムーヴメントの終焉であることもまた自明だろう。

愚かである、そう言い放てるのであれば、こんな楽なことはない。しかしやはり繰り返し叫ぶしかない、愚か者どもめ!

ちなみに誤解を招かないよう一言述べておくが、ここでいう「政治」とは具体的な国政などを指すものではない。人と人の関係性、強制、権力といった意味である。為念。

娘。が巨大な利益を産み出す以上、いやそれ以前に日本という仕組みの性格上、必要以上に政治性が絡むのはやむを得ない。否、しっかりとした政治の枠組みがなければ、そもそも娘。は成り立ち得ない。だから、政治というものを否定する意志はさらさらない。しかし、政治的なものが非政治的な世界に、まさに政治的に介入するなら、その結果は破滅的である。分かりやすい類例としては、大蔵省と日本経済を上げておこうか。経済と政治は不可分であるにも関わらず、必要以上の政治の介入の結果、経済は崩壊した。しかし現在に至るまでそれに気がつかない阿呆どもが、この世には満ちあふれている。

エンタテインメントの世界は、経済と較べれば十分に政治から遠いと言い得るだろうと思う。であるにもかかわらずである。愚かである。ああそうさ、人は愚かなもんだよ・・・。

私が声を荒げて言うまでもなく、娘。というのは奇蹟のような存在だ。確かに仕掛けだらけのやらせだらけの埃にまみれた氏育ちだけれども、結果的に咲いた花は、現実世界の汚濁とはかけ離れた夢のような存在だった。欲望という言葉で語るのではあまりに酷な、やはり「夢」と呼ぼう、夢を必死にけなげに追い続ける娘。そしてそんな娘。を慈しみ育てた人々、夢は見なければ始まらないけれど、けれどもうたかたのように失われるものだけれど、ちょっとした神のいたずらか、そんな夢の欠片が人為を離れて天高く舞った、そう表現するしかない存在だった。

そんな夢に参加する、一緒に夢を見させてもらう、娘。ファンの醍醐味とはそういうものではなかろうか。そして、そんな夢を可能にしたキーパーソンが中澤さんだったのではないか。さらに踏み込もう、娘。という夢の主は中澤さんではなかったか。娘。もファンも中澤さんの夢の住人だったのではないか。

しかし、夢は夢に終わってしまった。中澤さんは目を覚ましてしまい、娘。という夢から去ることとなった。もちろん本人も言うように年齢ということはあったろう。時が来れば夢から目覚めねばならないのは定めというものだ。しかし、今回の脱退はそれだけではあるまい。誰かが、何ものかが中澤さんを無理矢理起こし、夢から目覚めさせてしまった。

メンバーの誰かが夢を引き継ぎ、娘。という夢を生きながらえさせる、そんなもう一度の奇蹟を願うのは慢心というものだろう。夢とは夢のように消え去るもの、娘。もまた消え去るのだろう。夢から覚めて立ち向かわなければならない現実は過酷だ。一人として不幸に沈まないことを祈るしかない。鬱だ、氏のうで済むのであれば・・・、鬱だ・・・

話が変わるが、以前にもちょこっと書いたように、正直、2月の別働隊3+3曲には物足りないものを感じていた。中澤さんの歌唱ははっきり言って雑としか思えなかったし、タンポポは過剰というパワーのないもの、プッチモニは停滞と言い放ちたいできだと感じた。今になって思えば、中澤さん脱退の流れの中での必然だったのかと思われてならない。

さらに振り返ってみれば、それは「IWISH」ですでに予告されていたのかも知れない、「恋愛レボリューション21」のラップはそういう思いが込められていたのか・・・、深読みはいくらでもできるものだが、つんくさんの悲鳴が聞こえてきそうだ。

ここから失地挽回が可能かといえば、現実的にはノーと答えるしかないだろう。つんくという人もまた、夢の住人であってこそのつんくであり、そのことを骨身に染みて知る人だろうだから。やはり、鬱だ、氏のう・・・





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