2000年11月



11月15日(水)  The Beatles "1"

ビートルズの"1"を聞いている。デジタル・リマスタリングを謳うと同時に、ヒットチャートで1位になった曲だけを集めてベスト版にするという、安直というか明解なコンセプトのディスクだ。

どの曲も聴き馴染んだものばかりであり、一種ナツメロ状態なのだが、今回、このサイト的に、耳ではなかなか拾いにくい歌詞を文字を追いながら聞いてみた。で、以前から思っていたことではあるのだが、あらためてビートルズ作品の歌詞の、いわばくだらなさを再確認することとなった。歌詞にはほとんど意味などない。もちろんのこと、後のイマジンのようなメッセージ性はかけらも見られない。けれども、それでいいのだ。

そして、最近のマイブーム(?)の韻である。韻を踏みまくりである。歌詞が、いかに曲に乗るか、聞いてて気持ちいいかに、ひたすら奉仕していることが分かる。代表として誰でも知っているイエスタデイの冒頭を引用する。

Yesterday all my troubles seemed so far away

Now looks it as though they're here to stay

Oh I believe in yesterday

てなもんである。2行めなんぞ、英語としてどうなんだろう、意味との兼ね合いから見れば、強引とも言える言い回しではないだろうか。そうまでして韻を踏んでいる。そしてみごとに無意味というか内容がない。これがビートルズなのだ。それでいいのだ。

ひるがえってJ-POPを対置してみよう。私の尊敬するつんくさんぐらいではないだろうか、大いに韻にこだわっているのは。確かに歴史的にみて、和歌の世界は韻へのこだわりが乏しい印象があるが、それでも、「ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しずこころなく はなのちるらむ」のような有名な頭韻の例を容易に思い浮かべることができる。漢詩となると、言うまでもなくもうがちがちの韻の世界となる。

J-POPは韻を軽視しているように見える。一方でかっこよく聞こえる英語の歌詞がやたらにはびこっている。合いの手的なものまで含めると、ほとんどの歌詞に英語が現れる。このあたり、洋楽に日本語を乗せることの困難さもあるのだろうが、どうだろう、J-POPの歌詞における英語というのは、耳障りをよくする、聞き心地をよくするための方便になっているのではないか。そのカウンターパートとしての韻の軽視なのではないか。

上記ビートルズを持ち出すまでもなく、洋楽の英語をニュアンスまで含めて聞き取れる日本人は少数派だろう。実際にはたわいのない無内容な歌詞であっても、英語となるとなんだか心地よく聞こえる。格調高く聞こえる。はっきり言って偉そうである。権威主義的な序列意識が見え見えである。

別に私は、J-POPの英語歌詞を否定しているのではない。それどころか歌を気持ちよくする補助線として大いに活用すべきだと思う。しかし、そこに権威主義的な意識が忍び込むのはいただけないと言いたいだけだ。

例えば"hold me tight"は「アホーみたい」でいいのだ。"miracle"は「ミラコー」でいいのだ。日本人の耳にはそのように聞こえるのだし、こっそり言うとネイティヴ・スピーカーは"hold me tight"の"d"を発音することはまずないし、"miracle"は「ミラコー」としか表記できない発音で話す("people"なんかも同様です)。それでいいのだ。つんくさん、あなたは正しい。

それにしても、この"The Beatles 1"の対訳、ちょっとひどくないかい?誤訳とは言わないけど、???な訳がやたらと目に付くぞ。



11月7日(火)  例によって耳ダコ状態

いかん、やられてしまった。"Say Year! もっとミラクルナイト"にしゃぶ漬け状態に陥ってしまっている。つんくマジックとはよくいったもので、別に禁断症状とかはないのだが、気がつくとプレイヤーの再生ボタンを押してしまっている。今回は短すぎるということも手伝ってか、早くもっと聞きたい願望が加わり、なんとももどかしい。

マジックの種明かしを試みてみよう。まずはお約束に従って歌詞から。言葉の選び方が素晴らしいのはもちろんだが、それが駄洒落的に見事な韻を踏んでいる。歌詞が曲と一体になって耳馴染みが良いにも関わらず、心地よさが絶妙で飽きがこない。

韻というものの重要さを指摘した評論を、少なくとも私は寡聞にして知らない。韻というのは、実は歌の魂なのだ。それが、欧米流の音楽に日本語の歌詞を載せるという作業の困難さの中で見失われてしまった。つんく作詞とは似て非なる代表としての桑田圭介流が蔓延する中、天才詩人、松任谷由実といえども、ついに韻にまで踏み込むことはできなかった。それをつんくさんはやっているのだ。

妙な権威意識がなせるものなのだろうか、いわゆるコミックソングとか駄洒落とか合いの手とかをレベルの低いものであるかのように語る人々がいる。メッセージソングや高尚な心のあやを表現する歌をレベルの高いものであるかのように語る人々がいる。しかし歌の歴史を紐解けば、韻と駄洒落に境界がないこと、音楽とは書いて字の通り音を楽しむものであることを知るだろう。歌の善し悪しはあっても、上下関係などないのだ。そんなあたりまえのことを、こうしてあえて主張しなければならないというのは悲しいことだ。

続けよう。次は曲である。曲についてはいちおう守備範囲外なので簡単に述べるにとどまるが、耳馴染みが良いのに覚えにくい、逆にいえば飽きにくいというのが、マジックの要諦だろう。ここでいう覚えにくいというのは歌いにくいということではない。聞いている時、歌っているときにはよく把握できるのだが、ひとたび歌から離れて別の作業に取りかかった後、改めて思い出して反芻するのに、いくばくかの困難を催すということだ。

今回の"Say Year! もっとミラクルナイト"などは典型的だと思うのだが、類似の曲が邪魔をして、容易に完全には思い出し切れない。ひとたび聞けば容易に歌える、そんな難易度の低い歌だと思うのだが、なんとなく覚え切れにくい。その位置取りの絶妙さであろうか。

かくして耳ダコ状態へと陥るのだ。まいった!



11月6日(月)  "Say Year! もっとミラクルナイト"

スタジオパークもBSも見ることができなかったが、拾って聞くことができた。音質はそんなに良くはないしなにしろ短いんで、確かなことはまだ何も判断できないとは思うが、少なくとも前作、"I WISH"よりは分かりやすい曲のようだ。

歌詞も耳で追っているだけなので、間違いもあるだろうが、例によって見事なつんく作詞に仕上がっているように思う。それだけでこのサイト的には万々歳である。

何度も述べていることだが、つんくさんの書く詩には、いつも独特の現実感ないしは肉感が備わっている。歌とはそもそも幻想身体側に属する一つの文化表現には違いないが、それを発するのはあくまでも物理身体である。いや、幻想身体と物理身体という安直な二元論こそが脱却されるべきしがらみなのであり、その上位レイヤにこそ人間存在がある。その全存在により歌は歌われる、あるいは歌われてしかるべきなのだ。

私がとりわけ娘。に引かれる理由が、恐らくそこにある。今回の"Say Year! もっとミラクルナイト"もそのように聞こえるのだが、控えめかつ適度な肉感、少女としての人間存在の手応えが伝わってくる。ウェットなものを隠した元気さという微妙なバランス、というよりアンバランスが伝わってくる。

私がLOVEマシーン以前の娘。に関心を引かれなかったのは、このバランスが情的な(あるいは俗な)肉感側に傾きすぎていた、アンバランスの方向性があまり関心を引かれないものだったからだろう。そういう意味では、"I WISH"という曲は、逆に聖的な方向に傾きすぎていたかもしれない。

「肉感」というと抽象的に過ぎると言うことであれば、「肉体感覚」あるいは「身体感覚」と言い換えてもいいだろう。ぶっちゃけて言うなら肉体の臭いである。つんく作品、とりわけ娘。のそれは、表現者の臭いを纏うことに成功していると思う。体臭を嫌う現代日本にあって、娘。はいわば納豆のような好まれ方をしているというと書き過ぎかもしれないが、少なくとも私にはそんな感触がある。

娘。関連以外のJ-POPについても、音楽番組などでそれなりに流行を追ってはいるのだが、そんな体臭の伝わってくる歌は非常に少ないように思う。臭いという情報を排除した、幻想身体表現としてのみ発せられているとしか思われない歌が大ヒットしているのを見るにつけ、そのような歌を求める人々の心の内を思うと、背筋が寒くなる。





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