10月24日(火) "TOUCH ME" by TSUNKU
たまたま目にして中古で買ってきた"TOUCH ME"を、繰り返し聞いている。すごくイイ曲じゃないか。3種類のアレンジが楽しめるのだが、いちばんダサイかなとも思いつつ、河野伸アレンジの#4がいちばんお気に入りかな。 しかし、この歌詞のストレートさはどうだ。エッチとかスケベとかの安直な語感から隔絶した、大人の性が、恋が歌われている。こう面と向かって突きつけられると、何が後ろめたいのか顔を背けたくなる、しかし、まさに厳然としてそのままの欲望、現実を、むしろ軽やかに歌い上げている。はっきり言ってキモチイイぞ。 と同時に、この歌詞の行間からは、透徹した寂しさというか、適当な比喩ではないかもしれないが、一種近代西欧的な孤独感、孤高感がかいまみえる。つんく作詞に共通して漂う、この涙を隠した孤独の叫びが、この曲ではそうとう前面に押し出されている。やはり自身がソロで歌っているからか。あるいはそんな曲に仕上がったためにソロの決心をしたのか。 正確な数字は知らないが、この曲はそんなに売れなかったろう。内容以前にJ-POPの流れから完全に外れているのだから、売れるはずもないと思える。けれども、敢えて私は逆の見方をしてみたい。こういう大人の曲、病的に肥大した自我の妄想などではない、成熟した近代自我が必然的に引き受けざるを得ない現実を、孤独を歌う、そんな歌がどこにもない現状とはなんなのか。 思いっきり情に流れてはいたが、かつての日本歌謡にはそれでも演歌という大人の歌があった。それも今はない。流行歌を見るだけでも日本人の幼児化はどうしようもなく進行してしまっていると確信できる。大人はどこに行ってしまったのだろうか。
話題にすること自体がアホらしいのかもしれない。が、こういう雑誌があるという事実は事実なので、やっぱ書いてしまおう。Jポップ批評9が書店にあったのでついつい買ってしまった。後悔先にたたずだが、こんなもんに838円+税を払ってしまった悔しさと言ったらない。 日本という文化に批評は存在しないのかもしれない。このサイトで私は「批評」なる言葉を冠してはいるが、私も日本人である以上、ちっとも「批評」などしていないのかもしれない。そんな暗澹たる気分を味わわせてくれた、この執筆者達のレベルの低さを何とかしろ! あれもこれも全部罵倒したい、あるいは投げ出したいところだが、娘。に話を絞ってこの雑誌の記事を「批評」しよう。まずは93ページ、「ダンシング ラブ サイト 2000」の批評だ。「学芸会」という言葉をキーに「日本人のメンタリティ」まで話がバブルってるのだが、この批評者、分かる人には分かるの、かの「ビューティフル・ドリーマー」すら見ていないらしい。いや、見ているのだとしたら、理解できていないらしい。そもそも「学芸会」という文化は、それ自体は素晴らしいものなのだという認識がない。 それ以前に、この批評者には「ダンシング ラブ サイト 2000」で娘。が成し遂げたことがまったく見えていない。かつてこんなアイドルグループがあったか?アーティストがあったか?いかにも日本的なお約束的演出などどーでも良い、この楽しさを実現できたエンターテイナーがあったか? 私にとっては典型的と思うのだが、例えば「原宿6:00集合」など、もう鳥肌ものである。アイドルポップがここまで、いわば「アーティスト」なるものを粉砕するパフォーマンスを実現すると誰が思い描き得たか。錆び付いた価値観をひっくり返す、ロック魂とはいわばそういうものなのではないか。 怒りを抑えつつ、娘。を扱ったもう一つの記事、142ページの「娘たちの「物語」が終局に近づいているこれだけの理由?」を見てみよう。この文章には特に悪意というか下劣さはないのだが、どうしょうもない幼児性は拭うべくもない。娘。を仮面ライダーのショッカーに仮託するという、いわばオタクの思いこみの世界観が語られている。 筆者も述べている通り「終わりは誰にだってある」。娘。がいつか終わる、そしてそれがそんな先のことではないことなど、ファンの多くは知っている。けれども断言しよう、それはショッカーとは何の関係もない。仮面ライダーの怪人達ともまったく関係はない。娘。は娘。として、独立した存在として終わるに違いない。そんな当然の事実、現実というものを直視できないひ弱な人格は、「批評」するべきではない。 終わりがあるからこそ、人は、娘。は輝ける、そんな人として当然感知すべき現実感覚が欠けているというのは、少なくとも私には信じがたいことだ。古くさく聞こえるかもしれない、そして大きく誤解されているに違いないが、「教養」という言葉を私は改めて提示せざるを得ない。この雑誌を通しての印象は、まさにその「教養」のなさである。知的でない以前、シニカルにすらなれない、その知性としての悲しみを、しかし、恐らくこの雑誌の関係者は理解すらできないのだろう。 ついで。同誌に載っている「「茅ヶ崎ライブ」と日本人の宗教観」なる記事のアホさ加減を指摘しておく。この筆者はなまじの「知恵」があるためだろう、墓穴の掘り方も念が入っている。「労働という日常」とか「キリスト教徒の祝祭日がクリスマス」とか「祖先霊に失礼を働くとタタルというのは日本独特の発想」とか、もうあげだしたら切りがない、生半可の連続である。読んでて笑いが引きつってしまった。
音楽関連サイトと思われてるかもしれないので、いちおうT&Cボンバー"2nd STAGE"を聞きながら、と書いておこう、小林よしのり著「新ゴーマニズム宣言 第9巻」を読んだ。私はこの著者が好きである。内容云々以前に記述に情を、そして何よりも愛を感じるからだ。特に、政治経済関連を扱ったもので、愛を伝えようとする著作はほとんど存在しないと思う。それだけで素晴らしいと思える。 さて、実は実は私、いわゆる「南京大虐殺」関連の著作を、ほとんど読んでいたりする。学生の頃、神田の書店街に潜って読みあさっていたりした、そんな経験を持っていたりする。実に刺激的な体験だった。暴虐の限りの記述、残酷極まりない写真の数々・・・、はっきり言って、日本軍の蛮行を糾弾するというよりは、多分に変態チックな感覚が優先していたかもしれないと告白してしまおう。 ただ、その時既に「南京大虐殺」というものの一種虚構性に、暗黙的に気づいていたようにも思う。というか、そうでなければホラーの如く、スプラッタの如く、隠れるように読みふけるなんていかにもオタク的な態度はとらなかったんじゃないかな。とま、単に私がリアリティを喪失しているんだよと言われればそれまでだけどね。 さらに実は、「戦争論」への反論というのもあらかた読んでみたりしているのだけれど、内容はともかく、反論を書かれる方々に、「南京大虐殺」関連の著者同様、「愛」が感じられないという共通点が印象的だった。 オウム真理教事件の時など、仏教徒の如く(本当の仏教徒なのかな?)語る小林よしのり氏の姿があったが、この人が描く「愛」はとてもキリスト教的だと思う。もっとも、例えば浄土真宗などはほとんどキリスト教なんで、それでもいいんだろうけどね(かな?)。 あんまり内容にふれないのも何なので、ちょっとだけオピニオンサイトぶりっこしてしまおう。ゴーマニズム宣言の既刊のどこかにあったのだけれども、小林氏はどうやら岡田英弘氏の史観を理解できていないし、今回の9巻では、小林氏ではないけれども対談の中で西尾幹二氏が網野義彦氏に対して的はずれのような批判している。同氏著の「国民の歴史」も、岡田史観の不完全な流用のようでいて、いささかナショナリスティックに屈折している。 そこに天皇制が絡むからというのは分からないではないが、もう日本はここまで来てしまっている、その現状認識が甘いのではないか?確かに「つくる会」の教科書は、現行の歴史教育の異常さを多少とも修正するかもしれないけれど、できた途端に過去のものとなってしまいはしないか? 小林氏自身の史観に、その後変化があったのかどうかは知らないけれど、歴史に逆行する行為は、それが良かれ悪しかれ、常に誤りであるというのが鉄則であろう。既に事実上解体してしまっている「日本国(大日本帝国ではない!)」を、もう一度構築し直そうとする試みは空しいもの、いやもっと踏み込んで誤りなのではないか。世界は、そしてかつて日本だったものは、既に遙か先の闇の中を疾走している。
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