Diary -December 2003-


バックナンバーはこちら / 冬メイル
31 Dec 2003
Wednesday

 曙はほぼ1ラウンド立っていられただけでも大したものだと思いました。大晦日の格闘技大会も終わり、静かに新年を迎えるところです。2004年はこれまで以上に正念場になる場面がたくさん訪れる予定。できるだけ自然体で気を楽に迎えたいのだけれど、歳を取るごとに多忙になり、事態が複雑化する現象には歯止めがかからない模様です。

***

★「BAD BOYS」(@少し前のTV地上波、1995年作品)
 ウィル・スミスがその昔 DJ Jazzy Jeff & The Fresh Prince というラップチームを組んで "I Think I Can Beat Mike Tyson" なんてシングルヒットを飛ばしていたことを覚えている人が少なくなってきた今日この頃、「インディペンデンス・デイ」直前のウィル・スミスの勇姿が観られる映画というのも乙なもの。今年第2作の「BAD BOYS 2 BAD」も公開されて大ヒットしたシリーズの1作目、犯罪都市マイアミでの麻薬窃盗事件に黒人刑事のコンビが立ち向かう…というストーリィ。ストーリィが云々というよりは、ウィル・スミス&マーティン・ローレンスによる凸凹コンビの掛け合いや激しいアクション、多少クサい友情物語みたいなものを楽しむべき映画なのでしょう。ウィル・スミスは日本でもよく知られるようになりましたが、相棒役のマーティン・ローレンスも米国では非常に人気のある黒人俳優で、コミカルな演技が受けています。ナインティナインの岡村に似た存在と言えば分かりやすい?

***

 それではみなさんよいお年をお迎えください。
 来年もどうぞよろしくお願いします。


30 Dec 2003
Tuesday

 何とか年賀状も出し終わり、穏やかな年の瀬を迎えつつあります。振り返れば今年もいくつかの「生まれて初めて」を体験することができました。歳をとるごとに「初物」に出会う確率は減っていきます。自分のスタイルを築いてその範囲内で堅実な人生を送るのも楽しいものですが、時々は羽目を外したハプニングがあってもいい。何も大げさなものでなくても構わない。例えばそれは自転車で知らない町に遊びに行くことだったり、映画館で映画を観る楽しさを知ることだったり、新しい人を好きになることだったりします。

 さて先日の「初めて」をお話ししましょう。それは「ふぐ」。実は自分の生活スタイルの中にふぐなる魚類が登場することはほとんどありませんでした。飲み会のコースにふぐ鍋もどきみたいなやつが入っていて少しだけ食べたことはありましたが、その程度。これがそんなに美味しいといわれてるふぐなの?って感じで。なのに先日ちょっとした食事をする機会があり、先方と話してる中でふぐの話題になったのですね。この際まあいいかなって気になってついふぐを食べる約束をしてしまったのでした。といっても自分の財力では安価なチェーン店どまり。4,980円でひと通り食べられることで大人気の「とらふぐ亭」に行ってみたのでした。

 ひと通りというのは、皮さし・泳ぎてっちり・泳ぎてっさ・とらふぐ唐揚げ・雑炊・香物・デザートの「泳ぎとらふぐ」コース。単品でも頼めますが、もちろん4,980円ではこんなに食べられません。はっきり言ってかなりお得。あちこちにお店を出していますが出かけたのは銀座店、でも12月はどこも混んでいて、銀座店も開店直後の17時〜19時に予約を取るので精一杯でした。すごい人気。やっぱりふぐって美味しいね、というのが感想。皮さしのコリコリした食感といい、しゃぶしゃぶ感覚のてっちりといい、さっぱりとお腹いっぱい食べられる。気に入ったのはとらふぐの唐揚げで、骨の周りについている身が特に美味しかったな。雑炊まで食べると存分にふぐを味わった気分になれます。会計を済ませると、次の予約客たちがお店入り口にたくさん並んでいるのが見えました。本物のうまいふぐの味はこんなもんじゃないのでしょうし、値段もびっくりする位なのでしょうが、ふぐ初心者にはこれで十分だと思いますよ。

***

★「エヴァとステファンとすてきな家族」(@銀座テアトルシネマ)
 2000年のスウェーデン映画で、同国では3人に1人が観た計算になる大ヒット作だという。単館公開だが銀座近辺のOLらを中心にかなりの口コミ人気があるようで、この日もずいぶん入りが良かった。1975年のストックホルム、当時流行ったコミューンでの共同生活が舞台。まあマンガみたいな設定で、住んでる人々もヘンテコキャラということになっている。酒を飲んで暴れるDVパパから逃れてきたママ+エヴァ&ステファンだけれど、子供たちは深い孤独とパパへの想いに揺れる至って複雑な心境。そこにコミューンの住人がフリーセックス主義者だったり革命的共産主義者だったりレズビアンだったりして、日々是騒動の連続なのだった。そうこうするうちにエヴァは同じ眼鏡をかけた孤独な小太り少年と恋に落ち、ステファンはアパートの少年と仲良くなって少し元気を取り戻す。そしてある冬の夜、改心したパパがママを迎えに来て…

 前半はやや冗長だと思ったが、後半でストーリィが動き出すとなかなか楽しませる。あちこちに吹き出さずにいられない巧みなユーモアが盛り込まれているし、特にラストで雪の庭にコミューンの住人全員が飛び出してサッカーに興じるシーンは秀逸だ。この場面が感じさせる将来への明るい展望といったらない。もちろん無垢で純粋な70年代的展望には何の補強材もないわけで、この後パパとママが本当にうまくいくという保障などどこにもないのだけれど、全編を通してバックに流れるABBAの音楽やどこか懐かしい70年代ファッションが「あの頃の未来」を強烈に思い起こさせてくれる。「あの頃の未来」なんて70年代を生きてきた貴方や僕の心の中にしかないのだから、それを思い起こした瞬間にこの映画の目的は達成される。暗く展望のない現実の21世紀とは何の関係もないことだが、「あの頃の未来」の明るい展望が何よりもまず「家族」というユニットに基礎を置いて描かれていたのはいかにもスウェーデン的で面白いと思った。

 僕自身はこういう共同体生活も面白いなあと思う。僕はしばらく独りで暮らしていくと思うのだけれど、いつかは健康に不安が生じるだろう。それ以前に寂しさに耐えられなくなる日が来るかもしれない。耐えられないというのは大げさにしても、仲間と一緒に過ごす時間をより大切にしたいと思う日が来る可能性はある。そんな時、自分と同じように洋楽や映画や読書が好きな仲間で、かつ相手のプライヴァシーを十分に尊重できるような連中と複数人で大きめの住宅を借りて(あるいは買って)共同生活をするというスタイルはありうる。独りで住むよりは広大なスペースを享受でき、共用のリビングには誰かが買ってきた新譜CDや新しい本がいつも置いてあって、貸し借りは自由。基本的に自分の面倒は自分で見るけれど、例えばときどきそこにいる連中で一緒に料理して食べたりするのもあり。話したければ話し相手には困らず、かといって邪魔してほしくなければ自分の部屋にこもって読書するのも自由。風邪やその他体調を崩した仲間の看護は行うが、本格的な介護が必要になったと判断されれば基本的に養護施設に移る。シングル&シンプルな生き方を志向する仲間たちとそんな共同生活を送ることはできないかな、と考えてみたりもするんだよね。


27 Dec 2003
Saturday

 起きたら初雪が積もっていた。この程度の雪は好きだ。空気が引き締まってキンキン音がするような朝は気持ちがいい。

★「グリーンマイル」(@TV地上波、しばらく前)
 トム・ハンクスが「いい人」を演じるだけで妙な胡散臭さを感じてしまう自分にとっては鬼門。原作に一定の思い入れがあるだけに難しい。結論から言えばオリジナルにかなり忠実で丁寧な作り、スティーヴン・キングファンの一人としても「許してあげようかな?」という気持ち。もっとも僕はキングが「文字メディア」であることに意義を感じているので、原作を超える映画化などという概念は持ち合わせていない。特に本作は6ヶ月に渡って6分冊を毎月1冊ずつ発行するという出版史上稀に見る新刊発売方法で僕らを大いに楽しませてくれた本であるから、たっぷり半年間(余韻も含めれば1年以上)に渡ってドキドキしたあの気持ちを3時間やそこらに圧縮することには無理がある。
 その議論を忘れるとするならば、安心して見られるハリウッド・エンターテインメントだろう。「奇蹟」シーンの映像処理の安っぽさも、類型的すぎるキャスティングもこの際割り切って楽しまねばならない。トム・ハンクスの放尿シーンはすごい演技だった。あの汗は半端じゃないが、これでオスカーとか獲ったら激怒ものだったろう。むしろよく調教された本物のネズミで撮影されたミスター・ジングルスに賞をあげたかったくらいで、最優秀助演動物賞なんてのも作っておいた方がよいのではないかと。

★「地図の遊び方」(今尾 恵介著、新潮OH!文庫)
 地図が好きだ、という人はひそかに多い。タモリもそうで、タモリ倶楽部を見ていると数カ月おきに思い出したように地図ネタが出てくる。彼の場合は加えて鉄道マニアだから、双方連関しあった実用的な趣味といえるだろう。この作者もそんな一人で、地図の楽しみ方をいろいろな角度から教えてくれる。地図記号にお国柄があって、日本には「茶畑」の記号があるが欧州には「ホップ畑」の記号があるなんて話はビール好きにはちょっと嬉しい。
 本当の地図好きは古いものを愛好する。いわゆる古地図ってやつだ。そんなもの何の役に立つのだろうと思っていたのだが、現在あの建物が建っていたあたりはかつてこうなっていたのか、という驚きはかなり新鮮だ。一足飛びに変化するのではなく、時の流れに合わせて少しずつ様相を変えていく過程が、その時々の地図に反映されているわけだ。僕らの生活空間を2次元に落とし込んだ図面はかくもいろいろなことを語ってくれるツールになる。
 少し前に「話を聞かない男、地図を読めない女」というベストセラーがあったが、くだらないと思った僕は手に取ろうとも思わなかった。何故ならばかつて僕が好きだった相手は僕なんかより圧倒的に地図が読める地図好きの女の子だったから。男は話を聞かないもの、女は地図を読めないものと決めつける思想的ファシズムなんかより、僕は自分自身の経験則の方をずっと信用する。


25 Dec 2003
Thursday

 クリスマスだ。昨日はお休みをとって午前中は図書館にこもり、午後はジムで汗を流した。誰かさんの誕生日だか何だか知らないが、ユダヤ教徒である僕には一向に関係がない。過ぎ越しの祭りやハヌカは楽しみにしてるけど。

***

 はい、嘘です。ごめんなさい。罪のない嘘なので許してください。だがこのタイトルには罪がある。その名も「罪深き誘惑のマンボ」、ジョー・R・ランズデール著(角川文庫)。ランズデールは多ジャンルを書き分ける器用な作家で、例えばモダンホラー分野においてはブラム・ストーカー賞の常連だったりもするのだが、最近はもっぱらサスペンスフルなミステリータッチの作品をよく書いているようだ。僕らが通常読むミステリーと決定的に異なるのはその場面設定。米国南部、それもディープ・サウスと呼ばれるエリアが舞台なのだ。

 実際に住んだことはないが、僕が米国近代史をかじった限りでは米国南部はひどく保守的な地域だ。奴隷制の名残でブラックが多い一方で、KKKに代表される急進的なホワイト集団による人種差別の根深い歴史を持っている。ランズデールはこうした人種間の複雑にもつれた関係を丹念に描きながら、連続殺人事件の謎を解き明かしていく。人種間対立だけでなく、うっそうとした湿地帯の森やさまざまな不快な虫など、空気自体が濃密で「重い」感覚を、よくもこれほど文章だけで伝えることが出来るものだと思う。正直に言うと「罪深き誘惑のマンボ」は翻訳があまりこなれておらず、読みながら日本語の出来の悪さにいらいらさせられる場面が何度もあるのだが、主人公であるホワイトとブラックの相棒コンビの下品な会話のやり取りが軽妙で、辛うじて救われる。彼ら(ハップとレナード)は本作で人気キャラとなり、このあとの作品にも何度か登場している。

 ランズデールでもう1冊、「ボトムズ」というハードカヴァーも読んだ。ディープサウスの狭い田舎で展開される、「マンボ」を凌ぐ濃密なストーリィだが、少年時代を回想する作りになっているのでキングの「スタンド・バイ・ミー」的なタッチで読むことも可能だ。ここでも無実のブラックがリンチされて殺され、女性たちが全裸意で身体を切り裂かれて殺されていくのだが、主人公とその父親の行動にはそうした差別意識を超えたある種崇高な気高さが感じられる。暗い話ばかりの世の中で、多少なりとも「救い」を感じさせる語り手としてランズデールはもっと評価されてよいのではないか。


22 Dec 2003
Monday

 一年で一番昼間が短い日だった。冬至 (winter solstice) のすぐそばに信仰対象者の誕生日を巧みに配置した古い宗教の創始者たちの知恵については以前も書いたことがある。昼間が短いということは夜が一番長いということでもある。かつては陽が落ちれば屋外での作業はできなくなったわけだから、何しろ家の中で考え事をする時間はいくらでもあった。そんな日に救世主への思いを新たにするイベントをぶつけるというのは、庶民の心を掌握する上で実に効果的だったと思うのだ。

 自分はといえば、クリスマス・キャロルが流れる街角を散歩しても信仰心を刺激されることもなく、冬至だからといってゆず湯に入らねばなんて迷信にも無縁なので、至って普段どおりの日々を送る。一年で一番長い夜を一人静かに過ごすのは何ものにも代え難い自由に溢れている。もちろん気の合った仲間と楽しく過ごすのも素晴らしい時間だ。でも他者と楽しい時間を過ごすためには、まずもって自分自身が一人の時間をじっくり楽しむ術を身につけている必要があるように思うのだ。自分自身をエンターテインできない人がどうして他者をエンターテインできようか。

 そんな自戒の念に駆られつつ静かに音楽を聴くクリスマスシーズンがあってもいい。


21 Dec 2003
Sunday

 昨日はサイトのオフ会でまたまた多くの方々にお越しいただきました。皆さんいつもどうもありがとうございます。

***

 電車に乗っていたら、風呂敷に荷物を包んでいる中年男性がいた。風呂敷、という言葉自体僕らの世代には死語になりつつあるが、子供の頃までは普通に見かけたものだ。大学生になってもなお、講義の度に必ず書籍等を風呂敷に包んで持ってくる有名な教授がいたのだが、それが最後の記憶かもしれない。

 風呂敷という言葉の由来を調べてみると室町時代に遡るようだ。当時風呂に入浴する際に湯具を包み、また広げた上で湯上りの身づくろいをするために用いたことから風呂敷と呼ばれるようになったらしい。現代では廃れかけているとはいっても、1枚の布でどんな物でも包んでしまう様はちょっと芸術的な美しさがある。持ち運ぶのにも便利だし、「包む」という行為自体に何か優しいものを感じずにはいられない。何かを入れるために新しいバッグを買うなんてのは本末転倒で、そもそも1枚の大きな布があれば何を包んでもバッグに早変わりしてしまうものなのだ。似て非なるものだとは思いつつ、僕はときどきバンダナで身近にあるものを包んでみたりする。何でも古いものを崇め奉るのはいかがなものかと思うが、風呂敷のような文化はもう少し大切にされてもよいと思う。


19 Dec 2003
Friday

 毎朝新宿西口の地下街を歩いて出勤するのだけれど、僕の前を歩く女の人たちの靴を眺めていて気がついたことがある。パンプスやハイヒールなどを履いてる女性たちの多くは、靴の裏にシールを貼ったままであるということだ。靴のサイズとかの白いシールあるじゃないすか。あれを貼ったまま。いや別にだからどうってことはないのですが、買って帰ったら普通剥がしてから履かないかなあ。それとも買ってしまったらもう靴の裏なんかには注意を払わないのだろうか。それともこれは新手の「チラ見せ」テクなのか。有り得ない。

***

 今週は5日間のウィークデイのうち3日飲み会+1日ライヴでかなりハードだった。昨晩も終電近くまで飲んでいて、電車で座れたのは良かったが軽く調布まで乗り過ごしてしまい、甲州街道をタクシーで逆走して1,700円も払う羽目になってしまった。実は先週も布田まで乗り過ごしたので2週連続。かなり疲れが溜まってるんだろうな。調布駅前でタクシー待ちの長い列に並んでいたら、僕の前にいた男性がタクシーの運転手に「千歳烏山までいくらぐらいかかりますか?」と尋ねていた。しばらくやりとりした挙句タクシーに乗るのを諦めた彼の表情は暗かった。お金が足りなかったんだね。彼はこの寒空の下で明け方を待つのだろうか。今にして思えば「仙川まで一緒に乗りませんか」と声を掛けてあげればよかったような気もするけれど、深夜に素性が分からない人と相乗りする気にはなれなかった。申し訳ない。飲みに行くなら有り金全部飲み尽くさず、必ず数千円は残しておけ。今夜の話はこんな教訓でいいのだろうか。なんか少し違う気がする。


18 Dec 2003
Thursday

★「ドクター・ドリトル」(@TV地上波、かなり前)
 ドリトル先生ものをエディ・マーフィ主演でアレンジし直した1998年映画。Aaliyah の "Are You That Somebody?" がエアプレイ大ヒットしたこともあってサントラをよく聴いたものだが、映画はかなりトホホな作品。動物と話せる特殊能力を持った医師エディ・マーフィ。本人もびっくりしてるうちに動物界に噂が広まり、あちこちから病気の動物が集まってくる。動物相手に話しているのを見た同僚らは彼を精神病院送りに。奥さんや子供たちの信用もガタ落ち。やっとのことで社会復帰したエディだが、諸般の事情によりかつて助け損ねた動物園のトラを手術することを決意、ついにトラの命を救った彼に人々は拍手を送る。家族の信用も取り戻し、医者としての生きがいも取り戻す…というもの。動物ものはいつだって子供に人気、つまり同伴者たる親と合わせてまとまった観客動員が見込めるわけで、映画産業にとってはなくてはならない存在だ。動物たちの方がえらく強気で、人間のエディ・マーフィの方が弱さ丸出しに描かれているところがミソなんだろうね。

★「エリン・ブロコビッチ」(@TV地上波、数週間前)
 2度の離婚を経験し、3人の子持ち。しかもお金もなくきちんとした教育も受けていない一人の女性が、資産300億ドルの大企業への訴訟をまとめあげたという実話。主人公のエリン・ブロコビッチを演じるのがジュリア・ロバーツとあってこれまで近寄らないようにしてきた(僕は彼女が苦手)のだが、TV地上波放映の冒頭でなぜか矢野顕子が出てきて、アッコちゃんスマイル全開でこの映画を褒めちぎるものだから、ついつい見る羽目になってしまった。最悪の状態でも常にパワフルに突き進むエリン・ブロコビッチのキャラクターは確かにジュリアにぴったりだし、ミニスカートからこぼれる素晴らしい脚線美にも文句のつけようがない。でも個人的にはどうしても感情移入できないキャラだったし、全面的に応援する気にもなれなかった。僕はどうやら実話をわざわざ映画化して俳優たちが演じるというしちめんどくさい在り様そのものが受け入れられないようだ。実写記録のドキュメンタリー映画か、さもなくば潔く完全な創作を見せられる方がまだ許せる天の邪鬼。正直、矢野顕子はいくら貰ったのだろうと訝ったのだった。ただしプログレッシヴ・ロックのファンなら本作を観ておけば話のネタにはなる。監督のスティーヴン・ソダーバーグはYESのライヴビデオ "9012LIVE" も製作していたからだ。もっとも同作の如何ともし難い80年代的な視覚エフェクトの多用ぶりは決して万人に薦められるものではないけれど。

★「パーフェクト・ストーム」(@TV地上波、けっこう前)
 もはや何も期待せずに観たのだが、それすらも下回る凄い出来の映画なのだった。カジキマグロ船の船長がジョージ・クルーニーというあたりで完全に破綻しているのだが、脇を固めるのがマーク・ウォルバーグ、ダイアン・レインら、特に船員に「海の男たち」から最も遠そうなキャラが揃ってるところが念入りだ。緊迫感も盛り上がりもないまま無駄に史上最悪の嵐に突っ込んで全く無駄に全員が死ぬ。ならば「ツイスター」における竜巻の如く、自然現象(=嵐)が主人公たりうるかというと、これも微妙だ。コンピュータ・グラフィックスを駆使して巨大な波やうねりを演出してみたのはよく分かるのだが、ふと気づくと「こんな位置からカメラで撮れるはずがない」というアングルばかりで興醒め。要するに、見るからにスタジオのプールで波にもまれる船から落っこちたり、必死につかまったりするマーキー・マークらが虚しくてたまらない。結果として作品は「パーフェクト」から程遠い仕上がりになり、もはやシャレとしか思えないエンディングを迎える。あとは初デートでこれをチョイスしてしまったカップルたちが、映画館からの帰り道にどれほど会話が弾まなかったかを想像するくらいしか残されていないのだった。そういう映画はたくさんあるし、僕もたくさん観ている(非デート)。今更ながら、デートコースのメインに映画を据えることの難しさを知らせ、身震いさせてくれる点でとても役に立つ映画。


14 Dec 2003
Sunday

 最近買ったもうひとつの腕時計になかなかたどり着きませんが、しばらく寝かせておきましょう。個人的にどうも文章を寝かせておくことが多すぎる。こうしている今も、ずっと昔から書きたかったネタが何十個もあって、一日が300時間くらいあったらいいのになと思ってるところ。300時間あったらあったで他にすることがたくさん出てきて、結局書けないのかもしれませんけど。

***

 初めての食べ物飲み物ガイド。最初は食べ物、というより食べ物につけるもので、9月の英国出張時に現地駐在中の友人からもらったもの。大きく "PATUM PEPERIUM" と社名が書いてある下に、"The Gentleman's Relish" と付記されている。正直言って、これだけでは全く分からない。よく見るとさらに In Mare Internum とか、The Original 1828 Recipe とあるほか何やらお魚の(とても上手とはいえない)イラストが添えてあったりもするのだが、依然として正体不明。最後に "Delicious on hot toast" というフレーズを見つけてやっとパンに塗って食べるものらしいと理解する。厚く焼いたトーストの上に塗り広げてみる。鮮度の落ちたわさびのようなくすんだ色は決して食欲をそそらないが、ひと口かじってみると香辛料のきいたしょっぱい不思議な味わい。アンチョビーなどの魚のうまみ成分を抽出して薬味を加えた練り物って感じなのだろう。ネットで検索してみるとこうあった。

「1828年の誕生以来、同じ製法を維持。欧州では有名な珍味、トーストに塗って魚と香辛料の風味の辛い味わい、料理の隠し味にも最適です。1828年にフランス在住のイギリス人が作って以来、その材料の調合は極秘。決して紙に記されること無く口頭伝承で現在まで伝えられてきました。甘い物の嫌いな方、魚風味のお好きな方にぴったり。パン・クラッカー等に薄く塗って、また肉料理のトッピングに、ソースの隠し味に使い方は様々です」。

 これぞ珍味、オススメ。パッケージはこんな感じのシンプルなもの。

 もう一品は飲み物で、例によってビールの新作なり。サントリーの冬季限定、ハーフ&ハーフ。同社からは先に麦芽100%の「黒生」が発表されており、個人的に非常に気に入ったことは既に書いたとおり。モルツも良いビールなので、両者をブレンドしたハーフ&ハーフが美味しいであろうことは容易に想像がつく。事実、この商品のラベルにも「黒ビールとピルスナービールのブレンド比率・工程にこだわった、テーブルビアでしか味わえない深い味わいのハーフ&ハーフです」とある。もちろん原材料は「麦芽、ホップ」のみ。黒ビールのふくよかさを超えるものではないが、黒はちょっと、という初心者の女の子にはとっつきやすい入門編となるだろう。冬季限定商品なのが残念なところだ。

***

 "Ladies and gentlemen, we got him."
 イラク暫定行政当局ブレマー行政官の第一声だ。21時過ぎ現在、バグダッドからサダム・フセイン元大統領拘束の記者会見が行われている。ひげに覆われ、無残な姿に身をやつしたフセイン氏の映像が痛々しい。同事件への論評は避けるとして、僕は自分の身に起こった話をしよう。今日うちを訪れた成城警察署の刑事は、僕にトレーナーを突き出しながら「あんたはシロだったよ」と語った。半ば人権を無視したその言葉に思わず耳を疑ったが、一方でホッとしたのも事実だった。

 何のことだか分かりませんね。もう少し説明しましょう。未解決の世田谷一家四人殺人事件は極めて異常かつ残酷な事件で、発生から間もなく3年が過ぎようとしていますが、僕の住む家は現場から程近いところにあります。大量の遺留品を残したにもかかわらず犯人はいまだ拘束されておらず、うちを含め近隣のすべての家庭で1軒1軒聞き込み作業が行われています。それだけならいくらでも協力するのですが、犯人の体格が僕に近いとされていること、僕が事件発生の年の4月にここに引っ越してきたことなどから、どうも僕に疑いがかけられているようなのです。少なくとも成城署のうちへの聞き込みの態度からはそう感じずにいられなかった。特に11月下旬には次のような触れ込みでやってきました。犯人は現場で被害者(父)のトレーナーを盗み、それに着替えて去った。そのトレーナーをこの家の付近で見かけたという情報が寄せられているんですよ、と。あなたこのトレーナー持ってませんよね、と。手を見せてくれないか。犯人は手に大怪我をしてるんだ。あなた怪我の跡はありませんか、と。これはもう完全に犯人扱いだ。間の悪いことに、僕は問題のトレーナーに遠目では似ていなくもないスウェットシャツを所有していました。冷静に考えれば、それを着て近所に買い物などに出かけた僕を見かけた他の住民が「犯人らしい男が近所にいる」とタレこんだのでしょう。話しても埒があきそうになかったし、まったく身に覚えのないことだったので、僕は刑事に言われるままに指紋をとってもらいました。屈辱的でしたが、これで疑いが晴れるのならやむを得ないと。もっとも犯人の血液型はA型で、僕のそれはAB型なので、最終的には何の疑いも残らないのですけれど。

 そんなこんなで、気持ち悪くなった僕は「こんなトレーナーもう要りません。どうせ捨てますけど、何か参考になるなら持って行ってください」と刑事さんに渡したのでした。「いやいやそれじゃ確かにいただいていきますね」と持って行った彼でしたが、今日になって「成城署です。このトレーナーまだ着られるじゃん。着なよ。あんたはシロだったからさ」と言いながら突き返しに来たというわけです。「シロ」だなんて、完全にホシ扱いだったことを自ら認めるような物言いですが、いずれにせよ疑いが晴れてホッとしました。まったく身に覚えのないことであっても、誤認逮捕や拷問による自白の強要はなくなりません。松本サリン事件やグリコ・森永事件でも似たようなことがありましたよね。強制力を持つ権力行政の恐ろしさをあらためて身にしみて感じた一件であったと同時に、自分の身近でこれほど凶悪な事件が未解決のまま何年も経とうとしていることを思い出し、背筋が凍るような不気味さを感じたのでした。

***

★「デブラ・ウィンガーを探して」(@下高井戸シネマ)
 ロザンナ・アークウェットは「マドンナのスーザンを探して」以来気になり続けて早20年近い女優だが、同作も含めて多分1本も観たことがない。観てないうちに妹のパトリシアの人気が出て、ニコラス・ケイジと結婚したり離婚したりと派手にやっている。ちなみにパトリシア出演作としては「ヒューマン・ネイチュア」を東京国際映画祭のコンペティションで観たことがあるが、これは余談。

 ロザンナ初めての映画が彼女が監督したこのドキュメンタリーというのもどうかと思うが、詰まるところこれは40代以上の膨大な数のハリウッド女優に主婦業と女優業の両立は可能か?と尋ねて回るだけの代物だ。本当に「それだけ」であって、ほとんど結論らしい結論も導かずに数々のコメントを投げ出して終わる。もっとも、デブラ・ウィンガーやジェーン・フォンダのある程度まとまったインタビューや、シャロン・ストーンやウーピー・ゴールドバーグらの「いかにも」といったコメントは観る者にとってある程度の方向付けを与えてはくれるものの、結局のところ人生の基本方針なんてものは人から教えてもらうものではなく自分で見つけ出さなくちゃならないものだし、この映画に出てくるハリウッド女優たちは一般の主婦/OLたちとはあまりにも次元が違う生活をしているので、はっきり言ってほとんど実生活の参考にはならないのだった。

 ではあるけれども、カメラが回るとそれなりに「魅せて」くれる彼女たちの言葉を聞きながらその姿を眺めているだけでも楽しめるのも事実だ。逆に言うとそれ以外の楽しみ方はほとんどありえない。全員が本音をしゃべっているとも思えないが、それは僕のこのDiaryにすべて本音を書いているわけでもないのと差異はない。個人的にはエマニュエル・ベアールがタバコをふかしながらたどたどしい英語でしゃべりまくるシーンと、トレイシー・ウルマンが英米の高齢女優の差について語ったシーンが印象に残った。トレイシーのコメントは2004年5月に日本公開される「カレンダー・ガールズ」を観れば多くの人が納得するだろう。僕は東京国際映画祭で先月観ることができたのだが、ここにはたくさんの40代〜50代英国女優が出演している。彼女らには舞台や映画などで活躍の場が多く用意されている一方で、ハリウッドでは若くて可愛い女の子だけがもてはやされ、年配の女優は引退するのが当然と思われている。そういう構造的な問題を抉り出すためにはトレイシー・ウルマンの出番がやや短すぎたのが残念だが、これこそがハリウッド的な価値観による時間配分というものだろう。


13 Dec 2003
Saturday

 最近急激に普及しつつあるもののひとつに「電波時計」があります。日本標準時を乗せて発信されている電波を受信して自動的に正確な時刻に合わせてくれるというもの。置き時計では以前からありましたが、受信機部分を小型化することによって、腕時計にも続々搭載されるようになってきました。国内のメーカーでいうとCITIZEN、CASIOあたりが熱心に取り組んでいます。SEIKOは電波なんて色物と考えたのか当初出遅れていましたが、ここへ来てようやくチープなモデルから発売し始めました。

 今年6月に発売されて特に大ヒットしたのがCITIZENのATTESA ATD-2611というモデル。これまでの電波時計は電波の受信感度の問題で、ケース全体を金属で覆うことが困難でした。側面などに一部プラスティック樹脂のパーツがあって、大いに高級感を損ねていたのです。そこにブレイクスルーをもたらしたこの2611は、フルメタル電波時計という触れ込みで新聞に全面広告を打ちまくるなど、一気に攻勢に出ました。都内量販店では一時品切れ状態が続いたほどです。フル充電時約2年駆動のエコ・ドライブもついて実売4万円弱、という絶妙のコストも買い手を刺激しました。この他、今年の後半以降発売されたCASIOのG-SHOCKは大半が電波時計&ソーラー電池モデルで、「止まらない壊れない狂わない」が宣伝文句になっています。大量生産に伴う受信モジュールの低価格化により、これから電波時計のシェアはますます伸びることでしょう。

 ところが個人的には電波時計ってやつの必要性をほとんど感じないのです。

 もちろん時計好きなので試しにいじってみたい、という気持ちは強くあります。電波受信ボタンを押して、針がくるくる動きながら時刻修正する様子を眺めるのは、メカ好きならずとも面白いものです。しかし日常生活に電波時計の精度が必要か?といえば答えはNOでしょう。「10万年に1秒」の精度が売り文句になっていますが、個人的には腕時計の時刻が少々ずれていようとあんまり気にしない。むしろ僕の時計はどれも少しずつずれています。もっとはっきり言うと、すべて1〜2分ほど進めてあるのです。

 これは個々人の時計との付き合い方とか、時間感覚とか、ライフスタイルそのものと言ってもいいかもしれない。僕はできるだけ時間に余裕が欲しいタイプので、例えば出勤時間とかミーティングの開始時間とか、気づかないうちに少しだけ早めに準備をするような時間設定にしてあるのです。これがぴったり正確な時計だとついぎりぎりになってしまい、結果として余裕がなくてバタバタしてしまうのですね。数分早めの時計が生活スタイルに合っているわけです。

 そこへいくと電波時計は数分早めに合わせておくということができない。勝手にずれを修正して正確な時刻に強制的に合わせてしまうわけです。これは困る。少なくとも僕にとっては1〜2分の余裕が欲しいのです。というわけで僕にとっては月差15秒程度のクォーツ時計で何ら問題なし。10万年に1秒なんて精度は不要なのです。ちなみに最近、置き時計型の電波もので「標準時から○分進める/遅らせる」という表示ができるモデルが発売されているのですが、これも僕のようなニーズがあってのことでしょう。といっても、正しい時間より遅らせて表示したい人なんているのかな?

***

★「シティ・オブ・ゴッド」(@下高井戸シネマ)
 ラテンアメリカが物凄いことになっている。最近の僕の口ぐせだが、この映画も本当に物凄いことになっている。メキシコもの数作で激しい衝撃を受けてきた自分だが、このブラジル映画のインパクトはそれらに勝るとも劣らない強烈さだ。セピア色の写真の上に原色の絵の具を思い切りぶちまけて、絵筆でぐちゃぐちゃにかき混ぜてみたら、妙にくっきりした絵面が浮かび上がってしまったような。天国と地獄は背中合わせなんかじゃなくて、実は同じ場所の昼と夜に過ぎないんじゃないか。映画中で一体何発の銃弾が飛び交ったのか。最初の数発こそ身を強張らせていた自分だが、約2時間のストーリィの終盤に至る頃には銃声や飛び散る血に対する感覚が全く麻痺してしまう。暴力と麻薬とセックスと殺人。雨あられの如く飛び交う弾丸の中に身をさらけ出して駆け抜ける2時間の濃密なことといったら。

 2時間と書いたが実際には1960年代後半から70年代後半にかけての実話に基づく一大ギャング抗争記だ。いくつものパートが絡み合い、信じられないほど洗練された編集によって、息をつく間もないほどぐいぐい引っ張られていく。子供たちが当たり前のように銃を持ち、ドラッグを売り買いし、人を殺して金を奪う。殺した子供たちがより幼い子供たちに殺されていく。サンバのリズムが織り成す暴力の連鎖。わずかな救いは女を愛することを通してラヴ&ピースに目覚めるベネと、本ストーリィの語り部にしてギャングも銃も苦手な写真家志望のブスカペの存在。特に後者をめぐるラストのカタルシスに相当救われる。

 本来はもっと生々しいはずだ、という批判は十分にありうるだろう。ブラジル作品とはいえハリウッドの手法に全く無縁な映画ではない。それを「毒された」と判断するか、「よく踏みとどまった」と評価するか。自分は圧倒的に後者。マトリックスなどはっきり言ってどうでもよい。映画好きを自認する人なら2003年、必ず見ておくべき映画のひとつだ。間違いない。


9 Dec 2003
Tuesday

  そもそも最近の若者は腕時計なんてしないのだろう。何故ならば彼らは猛烈な頻度でポケットから携帯電話を取り出してはディスプレイを眺め、着信の有無と同時に時間を確認しているからだ。つまり携帯電話=時計なのである。時計を忘れて出かけることはあっても携帯を忘れることは絶対にない。そんなライフスタイルになってしまっている。これは善し悪しの問題ではなく厳然たる事実だ。

 冷静に考えてみるとこれは不思議な現象だ。携帯電話を時計代わりにすることによって腕時計を身につけなくなったわけだが、腕時計が普及した歴史はちょうどこれと逆の流れだったからだ。かつて時計は極めて高級な精密機械だった。誰にでも買えるものではなかった上に、大きくてかさばるものだった。それをやっとのことでポケットに入るサイズまで小型化することによって誕生したのが「懐中時計」だ。今でも懐中時計のファンは存在する。ポケットからそっと取り出して時間を確認し、また元に戻す姿には奥床しさを感じるが、実はこの動作こそ、現代の携帯電話による時間確認作業と全く同じなのだった。

 つまり、携帯電話の普及は単に腕時計を廃れさせたのみならず、古式ゆかしい懐中時計スタイルをも復活させてしまったのである。この点はなかなか興味深い。かつて懐中時計は技術革新に伴って更にムーヴメントを小型化させ、ついに手首に取り付けられるサイズに達し、腕時計というスタイルに進化して爆発的にヒットした。手首に時計があると相当に便利である。わざわざポケットに手を突っ込まなくてもすぐに時間が分かる。作業をしていても常に視野の隅で時間を確認できる。それに加えて、腕時計は手首に付けるアクセサリーとして機能したのである。実用性重視のものからさまざまなデザインで自己を主張するものまで、好きな人は何十本も持つようになった。そんな腕時計が、今や道具としての役目を終えようとしている。

 携帯電話による懐中時計の復権(=腕時計の廃退)は、物事が常にリニアに進化するというわけではないということを教えてくれる。一旦廃れたものが形を変えて復活したり、明らかに便利な道具があえなく消え去ったりする様を、僕らに見せつけてくれたのだ。

 それでも僕は腕時計を愛することを止めないだろう。堅めの職場に勤める男性にとっては、ピアスはおろかリングすらも身につけることは難しい。茶髪もタトゥーもほぼ不可だ。となれば、腕時計は僕らが合法的に身につけることができるほぼ唯一のアクセサリーだ。高価なものでなくていい。手頃な価格で、自分の気に入ったデザインのものをじっくり探すこと。そうやって少しずつ集めた腕時計を、その日の気分やファッションに合わせてこまめに取り替えながら身につけること。そんな一見どうでもよいような自己選択の積み上げこそが「ライフスタイル」なのであり「その人らしさ」なのではないか。僕は話をしている時、相手の腕時計を眺めながら時々そんなことを考える。人が身につける(あるいはつけない)ものは、時として本人以上に雄弁に身の上を語りかけてくるから。

 …もちろん、相手が女の子の場合には時計より先に左手の薬指を確認することは言うまでもないけれど。

***

 最近買ったもう1本の時計の話は、また今度だね。

***

 小説自体は全く読む気がしないのだけれど、阿部和重の「シンセミア」への書評が暴走している。叩き文句はこうだ。「誰も止めることができない圧倒的なストーリー」「ついに小説は、ここまで来てしまった」。朝日新聞社の本に対する朝日新聞の書評だから当てになるかどうかはともかくとして、高橋源一郎の書評はそれ自体が極めて高橋源一郎的な文章でカッコよかった。だって、こうだぜ。「すげえぜ、阿部和重。とんでもない傑作書きやがってよ、ほんと、おれ、まいっちゃったぜ。あんまり興奮したので、ぶっ倒れそうになっちゃったぜ、くそ。今度会ったら、なんか、おごれ。」

 でも、本当にガツンと来たときの感覚ってこんなもんだよな。いいレビュー書きやがって。くそ、高橋、今度会ったら、なんか、おごれ。

***

★「ぼくんち」(@JAL欧州線機内)
 西原理恵子の漫画には、なんともいえない味がある。少ないコマ数の中に、上っ面だけの人生を生きてきたやつには描けない深みがある。無理に映画化する必要なんてあるのかな?と思わなくもないのだが、観月ありさを見るとすべて許せてしまうから不思議だ。ピンサロ嬢の彼女と、二人の弟。これにだめな母親がくっついて、世間的に言えばダメダメな家庭なのかもしれない。観月ありさの正体が明らかになるとその度合いはさらに増す。だがここでの彼女はまさしく母性に満ち溢れた深い慈愛を感じさせるもので、それだけで映画全体の弱点を補って余りある魅力がある。体当たり的な演技の割にわざとらしさは少ない。「ナースのお仕事」なんて観たことないので、個人的にはとんねるずにいじられてた頃の彼女しか知らなかったりするのだが、こんなに演技できる女優になってたのか、と驚くことしきり。「家がなくなった」というテーマ部分の掘り下げが甘いような気はするが、観月を見るための映画と割り切るのが正解。

★「アンガー・マネジメント」(@JAL欧州線機内)
 日本公開されたっけ? 未公開のまま終わるとしても何ら文句は言いません、アダム・サンドラー&ジャック・ニコルソン主演の莫迦コメディ。アダム・サンドラーは米国では爆発的な人気を誇る俳優/コメディアンですが、ここ日本ではなかなか火がつきませんね。確かにユダヤ人ネタなど我々には分かりにくい笑いを得意としてますし、派手にぶっとばすというよりはダメダメな役で笑わせてくれるタイプなので、ある程度はしょうがないかも。しかしこの映画に関して言えばニコルソンの暴走ぶりが…。簡単に言うと、気弱なのにひょんなことからアンガー・マネジメント(怒りを鎮めるセラピー)を強制的に受けさせられる羽目になったサンドラーと、その治療に当たる超ぶっ飛びオヤジのニコルソンが繰り広げるドタバタコメディ。しかしこれが、やりすぎなのです。ニコルソンが。確かに彼はかつて「バットマン」でジョーカー役を演じて僕らを唖然とさせてくれましたが、今度はいくらなんでもやり過ぎだ。ラストの寒さなんて、ファンの僕でも辛かった。彼の場合そろそろ映画を選んで出演しておかないと、「晩年は駄作ばかりだった」とか「最後の作品が『アンガー・マネジメント』だったなんて…」とかずっと語り継がれることにもなりかねない(縁起でもないけどさ)。真面目な話、作品はよくよく選んでくれ。もう小銭は要らんでしょ? 要るとしても踏み倒していいよ。ジャック・ニコルソンに踏み倒される金貸しなら本望だ。


7 Dec 2003
Sunday

 日曜日の朝。昨日、どら焼きの三笠山など和菓子をいろいろもらう機会があったので、それをずらりと並べてミルクたっぷりのカフェオレでいただく朝食。朝から甘いもの?と思うかもしれませんが、甘いものであればこそ朝から。カロリーを消費する時間はたっぷりある。むしろ危険なのは眠る前にちょっと食べてしまうこと。和菓子、とくにあんもののソフトな糖分はスムーズに脳を活性化させてくれるような気がする。朝刊を流し読みするのだって多少のエネルギーは必要なのだ、と自分を納得させながら温かいカフェオレを飲むブランチタイム、今日は久しぶりに快晴の朝なので洗濯物や布団もとっくに干してあるのです。

 日曜の朝の個人的定番になってきたのが Eagle 810 Sunday Brunch。在日米軍向けのAM810kHz「Eagle 810」が好きで、時間があればたいてい部屋のラジカセから流しているのだけれど、日曜09:00〜12:00のこの番組は格別。普段はFM番組のBGMや時間調整用にちょろっと流れるだけの Smooth Jazz を3時間たっぷりかけてくれる番組なのです。今でこそ「スムーズ・ジャズ」という名称で定着しつつあるけれど、その昔はフュージョンとかクロスオーヴァーとか言われていたようなサウンド。例えばデヴィッド・サンボーンとかクルセイダーズとかキャンディ・ダルファーとかボブ・ジェームズとか。コアなジャズファンからは軟弱だと批判されそうな小洒落た音楽ですが、僕はとても好きなのです。番組中のフレーズを借りれば contemporary jazz and smooth vocals ということなので、ヴォーカルものもかかります。例えばアル・ジャロウやスティング、ルーサー・ヴァンドロス、あるいはマイケル・マクドナルドあたりの落ち着いた曲調のものなら守備範囲。スティーリー・ダンもよく流れてますね。肩肘張らずに聴ける気楽な Smooth Jazz が好きになってきたなんて、自分も少し歳をとったのかな、なんて思う時間でもあります。

***

 先日、初めて東京都現代美術館に行ってきました。現代美術にはほとんど関心がない上に、ここは交通アクセスが非常によろしくない(最寄り駅から徒歩9分、駅によっては15分!)こともあって、なかなか出向く機会がなかったのですが、たまたま招待券をいただいたので見に行ったのが「ガウディ かたちの探求」展。ご存知スペインの建築家アントニオ・ガウディに関する展示会なので、これが非常な人気を呼んでいます。10月に仕事で東京のスペイン大使館を訪れて大使と話をする機会があったのですが、その時に彼も「ぜひご覧になってください」と強く勧めてくれたものでした。僕は建築のことはさっぱり分からないのですが、それでもサグラダ・ファミリアに代表されるガウディの造形には非常に心を動かされます。世の中には完全な直線などない、という前提の下に美しい曲線を集めて造り上げた「かたち」の数々が、どこか遠い記憶や深い感情に訴えかけてくるような気がするのです。バルセロナで実物を見たら恐らく圧倒されてしまうことでしょう。展示会そのものの掘り下げ方はそれほど素晴らしいものだとは思いませんでしたが、アクセスの悪い会場にしては驚異的な動員になっており、興味を持っている人が多いのだなあと感じました。美術館自体の設備はなかなか整っているだけに、企画次第でいくらでも人は呼べること、またこの美術館の存在を強くアピールする施策が欠けていることを痛感しました。

 しかし、ガウディ73歳11ヵ月半の生涯の最後が「路面電車にはねられて死亡」ってのはいかがなものか。

***

 昨夜はテレビでK-1を見てました。これまで武蔵に良い印象を持ったことはなかったのだけれど、昨日の試合に関しては良く頑張ったと思う。確かに派手なKO勝ちは取れないタイプかもしれませんが、この種の競技においてはルールに則ってポイントを重ねるのが大原則。ディフェンスもうまかったし、最後まで倒れずに粘っただけでも賞賛されるべきでしょう。その他の選手はそこそこだったかな。ピーター・アーツについては参加し続けてくれること自体に意義があると思うが、今回はボクシングの切れが素晴らしく、キックのとのコンビネーションも非常に良くて、見ていて気持ちのいい試合だった。

 それにしてもレミー・ボンヤスキーは強くなった。どこから飛んでくるか分からないあの跳躍力は相手にとっては脅威だろう。やはり前回ボブ・サップに勝ったことでひと回り大きくなった気がする。精悍なルックスもさることながら、「元エリート銀行員」という紹介文句は何とかならないものかな。ビジネス書を愛読する様子とかわざわざポーズつけて撮らせちゃうのは失笑ものだが、とにかく今いちばんスピードとエネルギーを感じる人なのは確か。何だか全盛期のリッキー・スティムボートvsジミー・スヌーカの試合を見てるような空中戦のスリルを思い出させてくれる。

***

 時計の話の続きはまた今度。


5 Dec 2003
Friday

 水道局に異動して1週間が過ぎました。上司や同僚にはすっかり馴染んできましたが、仕事の中身については多少勉強中。個人的にはKDDで働いていた頃の感じにかなり近いものを感じています。各家庭まで引き込まれた「管」で提供されるサービス。お客様から利用料金をいただいて経営するという公営企業感覚。技術屋さんが多くて彼らの発言力が強いところなんかまで良く似ている。技術部門と経営部門の橋渡しをしながら局全体の計画・調査をするのが役どころなのですが、知れば知るほど難問山積なのでした。

***

 さてそんな話はおいといて、今日は時計の話でも。僕は腕時計が好きで、最近また2本ほど増やして合計9本になってしまいました。安いものばかりだし、世の中にはいくらでも上がいるので、例えば数十本を所有するなおさんなんかには到底かないません。とはいえ今回の2本は個人的には自転車や餃子作りに続く最近の「初めて」ものなのでした。そのうちのひとつを紹介しましょう。それはエコ・ドライブの腕時計。具体的にはATH53-2541。前の部署で殺人的な残業をこなして乗り切った自分へのご褒美のつもりでした。

 エコ・ドライブというのはCITIZENの商標で、平たく言うと太陽電池駆動のシステムのことです。ついでに言えばCITIZENの腕時計を買ったのも初めてのことになります。腕時計をよく買うようになったのはここ2年ばかりのことです。それまでは1つの腕時計を5年ほど大切に使っていました。その前の時計も確か5年ほど使ったはず。確かSEIKOのAvenueというブランドで、何の変哲もない、だが文字盤が見やすくて飽きのこないデザインのものでした。高校生の頃、初めて自分で選んで買った腕時計でした。革バンドを何度か取り替え、電池を一度取り替えて大切に使った記憶があります。今はどこかに行ってしまったなあ。SEIKOもこのブランドは生産を中止してしまったようなので、再び見つけることは難しいでしょう。

 こうしてみると僕はSEIKOの腕時計を買うことが多かったらしい。手持ちの9本の内訳は、5本がSEIKO、1本がTIMEX、1本がCASIO(G-SHOCK)、1本がSWATCHでもう1本が新しいCITIZENということになります。CITIZENに関する僕の印象は、機能的には非常に堅実だがデザインで損をしているというもの。逆にSEIKOはデザイン力こそ優れているが、機能的なコストパフォーマンスは決して良いとは思いません。換言すればやや割高な価格設定で、その多くはデザイン的な魅力によるものであるようです。いずれにせよ両社は良きライバル関係にあり、それぞれ熱心なファンを抱えているわけです。

 エコ・ドライブの話に戻りましょう。太陽電池駆動そのものは何ら珍しくありませんが、CITIZENのそれはやはり開発に一日の長があってよく出来ています。例えば自分の購入したモデルはフル充電から4年間駆動する能力があります。逆にいえば、4年間机の引出しに入れっぱなしにしておいても大丈夫ということ。これだけの長時間駆動を可能にするためには様々な工夫がされています。例えば、しばらく文字盤に光が当たらない状態になると、エネルギーを節約するために秒針が12時の位置で停止してしまいます。時針・分針は動き続けており、次に光が当たると秒針が現在の秒(例えば43秒)の位置まですーっと回転して追いつく仕組みになっています。さらに長時間光を当てないままにしておくと、時針・分針やカレンダーの日付まで停止してしまうが、これも光を当てた瞬間に現在の時刻・日付まで追いつくのです。この仕掛けはギミックとしても相当面白い。

 加えて、カレンダーは2100年まで大の月・小の月・閏年を自動判別するパーペチュアル・カレンダーなので月末に日付を調整する必要がありません。フェイスのサファイアガラスは両面無反射コーティングがされているので光をほとんど反射せず、どんな状態でも非常に透明度の高い状態で文字盤を見せてくれます。さらに、本体とバンドには非常に軽いチタンが用いられているのですが、CITIZEN独自のデュラテクト加工がしてあって、ぶつけたり落としたりしても傷がほとんどつかないようになっています。クオーツは年差10秒以内の高精度で、一度時刻合わせをすると以後ずれることはほとんどありません。

 そんなわけでとてもお気に入りの時計になっているわけですが、やっぱりエコ・ドライブってのが嬉しいな。クオーツ時計の唯一の不安は「電池が切れて突然止まるかもしれない」というものですが、光ある限り動き続けるエコ・ドライブならそんな心配は無用。蛍光灯でも十分ですが、天気の良い週末などはベッドの上で太陽の光を浴びさせたりしています。なんだか可愛いペットに餌をあげてる気分。また来週から元気に頑張ってくれよって感じで。実はもう1本買った時計も電池切れとは無縁のタイプだったのですが、こちらについてはまた後日お話しすることにしましょう。


バックナンバーはこちら

MUSIC / BBS / HOME / E-mail to winter