金山銅山(因島田熊町)

ここでの内容は個人的な感想であり、効果・効能を示すものでありません。

 

金山銅山は、因島島四国八十八ヶ所霊場の67番 大興寺の裏手の山にあった。

 

50年ほど前には2つの坑道入り口があったが、その後崩れて入り口はなくなっている。

 

田熊港の沖に愛媛県の亀島という南北100m、東西50mくらいの小さな島があり、地元の言い伝え?によると、金山銅山の坑道は海の底で亀島までつながっていた、という話が残っている。

直線距離で約700mほど。

50年ほど前、亀島には石風呂(波打ち際に横穴を掘り、藻などを燃やして入るサウナのようなもの)の跡が幾つか残っており、その横穴と金山銅山とを関連付けての想像ではないかと思う。

 

あるいは、太平洋戦争時には因島もいたるところに防空壕が掘られたので、戦後、金山銅山とそれらの周囲の防空壕とを関連付けた話もあったかもしれない。

 

67番 大興寺から田熊港側に50mほどのところにも防空壕跡があるが、これも金山銅山とは関わりがない。

 

 

昔あった坑道入り口(赤丸)と、50年ほど前に確認した主要な坑道3本(青線)

 

坑道内部の様子

赤線は、持ち込んだタコ糸(50m巻き3つ)を張った場所。入り口Bからラセンを下りたあたりで150mが終わってしまった。

坑道マップ

 

今はない坑道入り口は標高80mほどの小高い山の中腹、標高40m 30mあたりに2つ並んであった。

2つの距離は15mあるかないかくらいだったかと思う。

入り口や主要な坑道は人が二人並んで歩けるくらいの幅で、天井高さも手を伸ばして届かないくらいに高かった。

 

坑道に入ってすぐのところに幅50cmほどのクレバスがあり、深く裂けていた。50cmほどなので飛び越えて先に進んだ。

 

坑道をそのまま進むと先は完全に崩れていた。

戻って、人が少しかがんで入るくらいの細いラセン状の坑道があり、そこを3回ほど回って下ると、また大きな坑道に出た。

 

ラセンを下りた近くには直径で2mほどの竪坑道があり、石を落としてみると2秒くらいで着地音がしたので、深さは20mくらいあったのではと思われる。

 

そばにまたラセン状の細い坑道の入り口があったが、半周ほど回った先で竪穴側に崩れていて、先に進めなかった。

 

その大きな坑道の西側には2mほどのクレバスがあり、到底先に進めなかった。

 

坑道に入るときに、懐中電灯と、空気(酸素)があるかどうかの確認の為にロウソクに火をつけたものを持ち込んでいたが、ラセンを下りたあたりで、ロウソクの炎が少しゆれており、周囲をあれこれ探したところ、別の大きな坑道との接続する横穴があり、そこから風が吹いていると分かった。

 

接続の横穴はほとんど崩れており、わずかに人が腹ばいになって通れるくらいの穴になっていた。

横穴を抜けるとまた大きな坑道に出て、東に進んだ先がまた崩れて先に進めなかったが、その崩れ残った天井付近から風が入ってきているとわかった。

そこが崩れる前は、おそらく山の反対側にも坑道口があり、そこから吹き込んできているのではと思う。

 

どのくらい昔に銅を採掘していたのか、どれくらい採掘量があったのかは知らない。

 

坑内の何ヶ所かで、昔、水がしみだしていたと思われるところに青銅色の少し結晶化したシミ跡が残っていたので、銅はあるにはあったのかと思う。

 

坑内は花崗岩の風化が進んでいて、場所によっては表面から2cmくらいが粉が固まっただけのようなところもあり、手で押すと周囲数十センチがポロッと剥がれ落ちるような状態だった。

 

坑道をつなぐ横穴であるが、中に入った最後の者が出るときに天井が崩れ落ち、その者の腰から下が埋まり、あわててみんなで引っ張り出したということがあった。

 

67番 大興寺の登り坂のすぐ右には、坑道口らしい雰囲気の横穴がある。

写真はGoogleMapのStreetViewから。赤で書いているのが昔の溝の様子。

 

2017年6月21日 追記。

下記の取り消し線の書き込みを取り消し、追記する。

実際には、ちいさな小川というか、溝の跡である。

67番 大興寺の大師堂の裏手には、量は少ないが冷たい水が湧き出しているところがあり、今の大師堂に建て替える時に、周囲の崖をコンクリートで固め、溝の上にもフタをしてトンネルになっている。

そのままにしているとゴミを投げ捨てる者がいたりして、今は扉を付けている。

 

今から50年くらい前までは、当時は古い大師堂であったが、夏になると納涼で人が集まっていたらしい。大師堂の裏手はヒンヤリと涼しく、冷たい湧き水でスイカを冷やして食べていたと聞く。

 

Googleストリートビューの赤丸の場所が坑道入り口

 

2017年6月20日撮影。木の格子の扉

 

中は真っ暗であり、フラッシュで撮影して、家に帰って写真ファイルを開いて見ると、その奥10mくらいに鉄パイプの格子があり、拡大するとさらにその奥が岩盤の坑道のようになってい た。

 

格子の先の地面は水溜りのようにも見える。竪坑か?

 

平成元年(1989)発行の『因島八十八ヶ所 遍路の旅』にも、ここが「銅採掘鉱洞跡」と記されている。

 

私の記憶は50年くらい前の古い大師堂があった頃の話で、大師堂を建て替える時の土木工事で再発見されたのかもしれない。

 

私たちが探検した坑道マップだと2つの坑道入り口は標高30mとして、横坑道は恐らく標高20m少々、竪坑道の底が標高0mくらいになる。これは再発見?された坑道とほぼ同じ標高であり、坑道が向いている方向も竪坑道の方角である。

もしかしたらこの坑道入り口の50〜70m先には竪坑道があるかもしれない。

 

◆◆2017年6月21日、さらに探索したので、追記する。

 

バス通りからの眺めは変わっていない。

 

外側の木製の格子戸の手前は、足元が水藻でヌメヌメして滑りやすかったが、中はセメントは乾いているところもあり、足元が滑ることはなかった。曇りであったがちょうと太陽が差し込む方向にあり、中は割りと明る く、用意したヘッドライトは不要であった。

 

鉄パイプで柵をしている。

 

坑道の様子。奥行きは20mくらい。

 

 

先端部。さすがに奥は暗いのでズームの撮影ではピントがうまく合わない。

 

先端部は陥没によって埋まっているようである。

 

入り口に近い側の洞壁。

 

 

 

 

この場所のご近所に方の話を聞くことができた。

昔の大師堂は今の場所より下の方にあり、その横には涼しい風と冷たい水が湧き出すところがあったとのこと。

ここに防空壕などの洞窟状のものという記憶はないが、ここから西に回ったところにも銅山の入り口があったとのこと。そちらは埋められて今は見れないとの 話。

 

さらに、今の大師堂の山側に一軒の家があるが、その家の山手側の部分が、これまでに3回ほど坑道の陥没で地面が落ちたとのこと。

 

私が50年前に探索したのは標高で30m付近にあった鉱山入り口からであるが、標高が低いところにも鉱山入り口が何ヶ所かあったようである。

 

私が50年前に入った坑道は風化が激しく、すでに立ち入るのが危険な場所であったが、坑道の大きさとか雰囲気は今回のものとよく似ているが、地肌はそれほど古いものではないように見える。埋まっていたの が新しく大師堂を建てるための土木工事で坑道跡が見つかり、それを整備したものではないだろうか。

 

いずれにしても、金山鉱山の坑道の一部として一般公開するといいかもしれない。

 

金山鉱山跡の説明

『田熊の文化財 第18巻/平成12年(2003)3月』
貞観12年(870)、清和天皇は備中・備後の2国に対して銭貨鋳造用の銅の採掘を命じている。
10世紀前半頃、生口島に金剛十郎という者がいて、因島、生口島、岩城島の鉱山を経営し、東生口の原で粗鋼を造って長門に、後周防に送って銅貨(皇朝12銭)を鋳造していた。当時の銅の採掘を示す地名として、田熊・中庄・洲江・岩城島に「金山」という地名で残っている。また、原に「福部」、「高屋」等の地名も残っている。
田熊の金山は明治の初頃に、再度鋼鉱石の採掘が試みられたが、量産できなかった。
伝説によれば、掘りつくされた坑道は、富山を中心に放射状に縦横に数十本をかぞえ、海底をくぐり、竹島や生口島に通ずるものもあるといわれる。
宝暦5年(1755)の田熊村立リの実録帳に「一金山掘跡穴数7つ、但銅山と申伝。」とあるように、今でも富山周辺のあちこちには、旧銅山の坑口跡がみられる。

 

田熊村 鉱区採掘 大正11年