Essay


特別版第二回:コーラの喉越しとお勉強のカンケイ

 今突然思い立ったことだけれど、あれだね、コーラはいつ飲んでも美味しいね。特に僕には炭酸の「じゅわ〜」という感覚がたまらないな。ちなみに似たようなものでよく見かけるサイダーもたまらなく好き。どっちがいいかといえば、甘すぎないという点でサイダーの方に軍配が上がるかもしれないけれど、炭酸の感覚が好きな僕に言わせれば特にサイダーでなければダメだというわけではないな。
この文を読んでるみんなにも、僕のこの好みを理解してくれる方は多いんじゃないかなと思うんだけど、ここであえてみんなに聞いてみたい。

一・そもそもコーラとはいつからこの世にあって、どんな変遷を遂げているの?
二・炭酸系飲料のペットボトルだけは他とは違う形をしているのはなぜ?
三・みんな成分表示や製造所までいちいち細かにチェックしてる?書いてあることの意味、分かる?

と、いうこと。
この偏屈者が、と思うかもしれないけど、大事なことかもしれないよ。僕はこれを通して、「学校のお勉強」の元あるべき本質を見た気がした。
コーラの変遷について答えられなくても、一応のこと、コーラを美味しく飲むことはできる。ペットボトルの形状が炭酸で破裂するのを防ぐためと知らなくても、炭酸は「じゅわ〜」だし、成分表示など読めなくてもコンビニで困るというわけでもない。そもそも問いを発した僕自身、完璧な答えを用意しているわけではない。
だから何だと思うかもしれない。
けど、ちょっと考えてみてくれ、こうするとどうだ。
 コーラの変遷というものは、言い換えればコーラの「歴史」で、ペットボトルの形状は「科学」や「物理」の知識だ。成分表示には文字が使われるから、これは「言語」の分野だし、コーラを飲むとか、炭酸が「じゅわ〜」だとか、コンビニで困るなんていうことは、「実際の生活」のこと。
 そう考えてみると、こういうことが判るんじゃないか。
 
 コーラの「歴史」や、形状の「科学」的、「物理」的な根拠を説明したり、成分表示に書かれている「言語」を読み取ることができなくても、コーラを飲むというような「実際の生活」には何の支障もない。

 つまり、「学校のお勉強」なんて、できなくても現実をただ単に生きることにはこと欠かない、ということになるな。
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「学校のお勉強」って、こんなものじゃないかな、と最近よく思う。
知りたい人だけ勉強していればいいはずのものなんじゃないの、これ。
なんでみんなして学校へ通って、お勉強なんだろうな。
いうまでもないことだけれど、学校教育というものを行っているのは国だ。私立、なんていうものもあるけれど、それだって、国が決めたことを、決められたとおりに教えている。なんでわざわざ国がやっているのかっていうと、やっぱり個人のお金の問題だろうな。勉強とか、趣味とか、あることを深めるには多額の出費がつきものだから、個人でお勉強というのは家庭にとって大変な負担になる。だから国が後ろから援助しているんだろう。
じゃあ、国はなんで援助までしてみんなに勉強させるんだろう。
これには、やっぱり国の「セイサク意図」なるものが絡んでいるんだろうと思うな。国としては、多くの人が勉強して、いろいろな人が専門分野を深めて、そこから立派な研究成果とかが出たら、誇らしいし、嬉しいだろう。だから、もっとみんなが専門的に、詳しく勉強できるようにさせたい、という意図を込めて、大人になってから勉強をはじめるのではなく、子供のうちに教えられることは教えてしまいましょうと、そういうことじゃないかな。
こうくると「学校のお勉強」って、国が「お金は出してあげるから、このぐらいのことを知って、これを足がかりにいろんな研究をして欲しい」というつもりで一般人に学ばせたものだ、ということになるのかな。つまり学校教育って、専門分野への導入なんだ。だから、教科書に書いてあることは、専門分野に深く食い込んだものにはなってないんだ。高校ともなると専門分野に入っていくための本格的な導入みたいな趣も出てくるから、科学や数学などは、僕なんかが教科書を一瞥したくらいではワカンナイことが多いけど、小中高の教育って、マチガイなく国のこんな意図があるんだろうなと思う。
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ところが、最近のオトナ達ときたら、なんか肝心なところで道をあやまったようだよ。
「学校のお勉強」は、大学へ行くためのものだけれど、社会人になるためのものではないんだと思うどなぁ。
う〜ん、この意味、わかる?
たくさん勉強して、大学でより専門的な分野でケンサンを積む。これが、「大学へ行くための勉強」だと思う。有名大学へ行くとか、そういう問題じゃなく、ね。
一方、「社会人になるための勉強」っていうのは、たくさん勉強して、有名大学に入って、有名企業や省庁に入る、っていうのが目的になる。
こっちだと、勉強の本当の意味が失われてくる、と思わない?
当人の興味に関わらず、試験に出る知識を暗記でもなんでもして、とりあえず知っていることだけが、素晴らしいということになってくるよな。
「ゆとり教育」というお題目が新聞で踊って、教えることをどんどん減らしているというけど、これがその風潮を象徴しているように見える。
もともとこれは、大学受験の勉強が「詰め込み式」になって、勉強苦で自殺したり、予備校へ通い詰めになる子供を救済するためにいわれはじめたことだけれど、だからといって教える内容を減らしたのはマチガイじゃなかったかな。だって、それじゃ学校で習っていることは「社会人になるためだ」と認めたようなものじゃないか。だって、専門分野の導入のはずの学校の授業で教える内容を減らしたら、大学でやる専門分野だって自然浅くなるよね?それってもともとの「セイサク意図」からすると矛盾してるよな? 勉強に追われているコドモたちに「自由な時間」を与えるというのは、自由な考えとか、自由な学習という面では正解かもしれないけど、その「自由な時間」に、受験のために予備校やら塾へやらに通ってるんじゃ、これは矛盾してるよな。予備校でやる勉強って、あいも変わらず「詰め込み式」だし。
どうせ変えるなら、入試問題の質を変えるべきじゃなかったかな、と思うんだけど、どうなんだろう。
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 悲しいことに、今、社会の潮流は「社会人になるための勉強」の方に傾いているようだね。僕ももう十八だから、イヤだと思いつつも受験勉強なるものをやった。そして一応、世の中で(ある意味微妙な位置の)難関とか呼ばれている大学に合格しても、やっぱり思うんだ。  なんだかな、これ、とね。
 孔子という人が、「学びて時に之を習う、亦説しからずや(一度学んだことをもう一度習って見直すと、新たな発見があってためになるなぁ)」なんて言っていた時から、勉強というものは自己啓発の手段だったに決まっているんだ。
 自己啓発の成果を、あんな「ア」だの「エ」だのと記号を書き込んだり、固有名詞や数字を並べさせて計るなんて、どだい無理な話じゃない。
 「大学受験である意味人生が決まるよ」なんて言ってた人がいたけど、あの試験で、「ある意味人生が決まる」って、よくいったもんだな。コーラの変遷や成分表示を知っているかどうかで人生決められちゃ、たまったもんじゃないよ。僕らの人生約百年、人生決まるの十八歳。
ちょっと待ってよって、そう思わない?
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 なんだか、大真面目な話になってきちゃったな。
 僕のいいたいことは、別に特別なことではないのだけれど。
 「学校のお勉強」は、受験のための暗記知識群をかき回しているというわけじゃやなくて、僕らに専門的な研究をしてもらうために国が作った勉強の道なんだということが、ここまでで述べてきたことの一つだ。多分間違ってないと思うんだけどな。

じゃぁ専門的にやりたくない人は無理にやらなくてもいいわけ?
だって、生きていくには支障がないんでしょ?あんたさっき言ったよね?

う〜ん、ナカナカ鋭いこというね。
僕なりの結論からいおうか。
専門的な研究をやりたくない人や、学校でお勉強する価値が見出せない人は、やらなくてもいいと思うよ、うん。
最低レベルで生きていくには全く支障がないだろうから、無理にやることはないと思う。やめちゃえ。
けど、学校に行かない時間を単純に遊び暮らすのは良くない気がする。遊んで多くの人と交わりを持つのは大事なことだと思うけどね。毎日毎日あちこちで楽しく騒いで過ごすだけじゃ、そのうち、アリとキリギリスになるよ。
だから、学校で勉強しない変わりに、何か別のことに興味を持って、その分野を思う存分やっていくようにすればいい。
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今、なんだか「反タイセイテキ」みたいなこと言ったかもだけど、僕自身は「学校のお勉強」が大好きだから、悪しからず。
専門的にやらないとしても、楽しくないかい?お勉強。
科学
歴史
英語
み〜んな、実社会を生きていくのに十分必要、とはいわないみたいだけど。
たとえば英語、高等学校で教わるほどの細かい文法を知らなくても会話には全然問題ないみたい。学校の勉強ができるからってすなわち英語が堪能というわけではないみたいだしね。しゃべりたいなら英会話の「NO○A」かなんかに通う方がよっぽど実用的らしい。どちらにしても日本にいる間は全く困らないだろうけどさ。
それでも僕が「学校のお勉強」が好きだ、というのは、知ってた方が「お得」だよなという単純な理由しかないな。多くの学問の場合、学会はアメリカが本場だから、論文を書くには学校で習う細かい文法が必要らしいけど、そういう必要意識に駆られてでは、ないな。
 最初に話したけど、コーラの変遷なんか、知らなくても全く生活には支障がない。ペットボトルの形状の根拠や成分表示にしても同じ。だから無理に知る必要もないんだけど、わかったほうが人間に幅が広がることも確かじゃないかな。なんかの話の枕に「コーラって最初はあんまり甘くなかったんだよ、知ってた?」とか、「コカ・コーラってペプシに飲み比べで負けたことがあるって知ってた?」とか「う〜ん、このカラメル色素の色合いがいいよね」なんてしゃべれたら、ちょっともの知りみたいで「お得」じゃない?いつこんな話をするのかは個人によりけりだけど、この個人によりける知識から、何か発見があったらすごいなとも、思わない?
「知識を吸収することが大事なんじゃなく、知ったことを手がかりに何を考えたかが重要だ」と言ったのは高校の倫理の先生だけど、これはもっともだと思うな。
興味を持ったことを詳しく追求していくことは、僕らの脳を刺激して、色々なことを考えさせる。そして発見した何かしらのことが、僕らの人間の幅を広げていくようになる。これはどう少なくみても、損にはならないはず。色々なことを見つけていくためには、もちろん、いろんな分野の知識や考え方を吸収していった方がいいに決まってるんだ。
国の意図や社会の流れはともかく、一個の個人たる僕が、「学校のお勉強」で、コーラの変遷みたいな細かい知識を勉強しているという根本の部分には、それがあるんじゃないかな。
 いや、それがあってしかるべきなんじゃないかな、と思うんだ。

ところで、コーラの変遷の話、誰か語れる人いない?


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