Essay


第七回:『ゲーム音楽』の楽しみ方

今日は、僕流の『ゲーム音楽』の楽しみ方を紹介しようと思う。もちろんこれは僕の考えだから、軽く読み流してもらっても構わない。

まず、『ゲーム音楽』とは、CGやテキスト、ムービーなどのバックに流れることにより、その場を盛り上げる演出のひとつであると言うことを確認しておく。
つまり、演奏を聴かせるクラシックやジャズ、その他諸々の音楽とは根本的に違い、音楽として独立したものではないのである。
もちろん『ゲーム音楽』の中にもロックやブルースといったジャンルのものは多々あるが、先程から述べているように、それは曲自体、演奏自体を聴かせるためのものではなく、ゲームの雰囲気を演出する道具に過ぎない。
こう言うと、『ゲーム音楽』を低めているいるように聞こえるかもしれないが、それは違う。むしろ、『ゲーム音楽』が演出のための道具――いや、武器と言っても良いだろう――であるということ、それ自体が独立しているわけではないと言うことが逆に僕の興味をひきつけてやまないところなのである。

ところで、僕にはゲームをやることによって『ゲーム音楽』を聴くときに、絶対守るポリシーがある。
即ち、「ゲームをやるより先に『ゲーム音楽』を聴くことはしない」という事である。
厳密に言えば、一つのゲームを終わらせたから音楽をすべて聴いて良いというわけでもなくて、例えばそのゲーム内の一人のシナリオを終わらしたときでも、まだ聴いていない音楽があった場合、いくら聴きたくて、手元にサウンドトラックがあったとしても、僕の中の法律によって縛られ、僕はそれを聴くことができないのである。
こんな大袈裟なことをするのにはもちろん理由があって、それは音楽が時に、そのときの状況をインプットしてしまうことがあることに他ならない。
これは皆さんの中にも身に覚えがある方がいると思うのだけれど、ある曲が流れたときに、ふと頭をイメージがよぎることがあるだろうと思う。
僕のことについていえば、井上陽水の「少年時代」は僕に小学校、中学校辺りの時代の音楽の授業を思い出させるし、山下達郎の曲は、小学生の頃、車で十二時間かけて田舎に帰ったことを思い出させる。時には、その当時の空気の『匂い』さえ運んでくる。その手の例を挙げるならば、PCゲーム「Kanon」の日常曲がそれに当たる。
昔、自分の部屋にある時代遅れのデスクトップ(Windows 95)にイヤホンをつなげ、冬の夜に息を潜めてやっていた頃の、まさしく静謐な冬の、夜の空気の匂いを、いつ聴いても僕は思い出すのだ。

『音楽に対するイメージ』は、語ればきりがない。そして僕は、そのイメージを大事にしたい、と思っている。
これは大分大袈裟な例になるが、ゲームのクライマックス、涙を誘うような場面で、部屋にこぼした牛乳を拭いたまま放っておいたら臭くなった雑巾の匂いなどを思い出しては泣けるものも泣けない。いや、別の意味で泣けてはくるが、それは確実にゲームの製作者の意図とは違うものだろう。
説明が長いが、要は、僕はゲームの製作者(シナリオライター、ミュージックコンポーザー、原画、CG、プログラマー)といった方々が長い月日をかけて僕たちに伝えようとしたメッセージを、全く汚れのない、透明な状態で受け取りたいという、たったそれだけのことなのである。
映画やドラマを観る前に、ネタバレを含んだ文章を読みたいとは思わないだろうし、人によってはあらすじさえ知らないままで良いと思う人もいるかもしれない。それと同じである。これは全く僕の考えであるが、僕にとってその作品をやる前に音楽を聴いてしまうというのは、作品を楽しむ前に落ちを知ってしまうのと同じことなのである。

僕の友達に、FF、スクウェア、そして最近はもっと幅広く、片っ端からゲームのサントラを集めている人間がいる。ゲーム音楽のCDを全部で98枚所持しているという人間を、僕は彼しか知らない。
当初はそんな彼のスタイルに反対していたものだが、今は違う思いを抱いている。
僕と彼では、根本から違うのである。
僕は先ほどから主張している通り、あくまでゲームを楽しむために、『ゲーム音楽』を聴く楽しみを後に取っておく訳なのだが、彼の場合の関心は、その『ゲーム音楽』のみにある。だから彼のサントラの集め方はそのゲーム会社によったり、作曲家によったりした。それならば、僕には一言もないのである。世の中には、そういったゲーム音楽の聴き方をする人間も多いのだから。

しかし最後に、そういったゲーム音楽の聴き方をする方にも決して譲れないことがあるのだが、それは、「ゲーム自体をやっていないのに、曲だけを聴いてこの曲は良くない、とか言うな」という事である。
『ゲーム音楽』にはいろいろな楽しみ方があるのは理解しているが、僕はそれでもやはり、『ゲーム音楽』はゲームあってのものだと思っている。それだけでももちろん楽しめるが、その本質は場を盛り上げる強力な武器として使われたときにこそ、発揮されるのだと思っている。
であるから、曲だけを聴いて「良い」「悪い」と判断できるものではないのだ。その曲には、その曲が流れる場面が用意されているのだから、その場面を見、その効果を目の当たりにしてこその「良い」「悪い」なのである。
どこかで聞いたような例をあげることになるが、Kanonにおいて、「夢の跡」という曲はただのオープニングテーマのオルゴールアレンジである。
また、FFYにおいて、「蘇る緑」という曲は、やたらと長い、ただのキャラクターテーマ曲のメドレーである。
しかし、この両ゲームをやったことがある方はわかるだろうけれど、どちらの曲にも、「ただのオルゴールアレンジ」「ただのメドレー」である理由がちゃんとある。「夢の跡」はクライマックスで流れる曲だし、「蘇る緑」はエンディングで流れる曲で、そのキャラクターのテーマ曲に変わるごとに絵も代わると言う、ちゃんとした演出であり、さらにその効果が見込まれた上で成り立っている曲なのである。だが、ゲームをやっていなければ「やたらと長いただのメドレー」に過ぎない。そしてそれでは、その曲を真の意味で聴いたとはいえない、と僕は思う。

何度も言うが、ここに書かれていることは全て僕の考え、理想に過ぎない。
別に消費者が全員ゲーム製作者の伝えたいことを受け取ろうという真摯な姿勢でいるべき、というわけではないし、別にゲームをやる人間全員が音楽を律儀に気にする必要があるわけではない。簡単に言えば、金を払ったのであるからどんな楽しみ方をしようと勝手なのである。だから、この文章は、僕の『ゲーム音楽』の楽しみ方を紹介しているだけに過ぎない。であるので、僕のこの考えに意見されたり、苦情を言われたりしても困る。そのことだけは、是非理解していただきたい。
back