Essay
第六回:『本を読む』と言うことと現代文
僕が好きなことはたくさんあるけれど、その中で一番他人に勧めたいものは何か、ときかれたら、僕は間違いなく『本を読むこと』と言うだろう。
今の僕は、昔からの読書の積み重ねによってできたと言っていい。
『ゲームは週二日、土日に一時間だけ』と親に決められていた僕は、正直楽しみがなかった。昔はサッカーボールなんかを蹴っていればよかったんだろうけど、中学生に上がった辺りからは、学区が広くなったせいで友達の家が遠かったりしてなかなか近くの公園に集合なんてわけにいかなかったし、そもそも友達はゲームばかりやっていた気がする。
第一回に書いた「ロードス島伝説」に嵌まったのはこの辺りからである。
が、しかし、僕の家から本屋は遠かった。自転車で三十分はかかったのである。後に分かる話だが、隣の市に住んでいたTACさん(隣といっても神奈川で一、二の広さがある川崎市と横浜市である)と同じ本屋に僕は通っていたのだった。
おまけに金がなかったからあまり何度もいけない。月の小遣いが二千円で、文庫が一冊五百円はするのだ。今思うと、なかなか健全で苦しい中学生生活をおくっていたのだなと感心する。
周りの人間が本を全然読んでいないことに気付いたのもこの頃である。だが、別に僕は本を読むことが偉いとは全く思っていなかった。何故なら僕にとって読書とは、漫画を読むのや映画の見るのと同じ、只一つのエンターテイメントに過ぎなかったからである。これは今も同じ思いで、漫画より本の方がもつ(時間がかかる)から、本の方がお徳だと思う。
読書の恩恵を身に染みて感じるようになったのは中三の受験期からだが、本当にありがたいと思ったのは大学受験を控えた高校生活でであった。
こういう経験をしている方は結構多いのではないかと思うのだけれど、定期試験、模擬試験を問わず、特に勉強をしなくても現代文の点が取れるのである。
ここで言っておくと、現代文を解く要素と言うのは僕にいわせれば二つあって、それは即ち勘(感)と技術だ。
なにが勘じゃあ! と怒る人もいるかもしれないが、技術はともかく勘は簡単には養えない。
僕は前まで予備校に通っていて、現代文の授業も取っていたのだけど、さすがは予備校と言うべきか、解りやすいし、為になる授業だった。そこで僕は、勘と技術を初めて理解したのである。
僕の優秀なクラスメイトの友達にこの話をしたら一笑に付されたけれど、その後僕に話したところによると、彼は評論文は出来るけど、小説がなかなかできないと言うのだ。「このときの主人公の感情なんて知るか。どこ読めば答えが分かるんだよ!!」とのことである。
全く彼の言うとおりで、評論文は技術を使い、答えを文章の中から導き出すことが多いのだけれど、小説に技術で解ける問題は少ない。「主人公のそのときの感情」が、そのまま文章の中に書いてあるはずがないのだ。もちろんその前後の文の中にヒントはちりばめられているけれど、どの選択肢が答えになるのかという最終判断は、やはり勘に頼るしかない。これまでにどれだけ問題をこなしてきたか、と言うことである。
しかし、もちろんこの『勘』は、主観に傾いてしまうことが少なくない、が、勘に頼る、心情理解などの問題はいわば登場人物の『主観』を訊いているわけだから、完全な客観視では問題がある。
僕が理想とする読解法は、『勘』と『技術』をうまく混ぜ合わせたものなのである。
長くなったが、つまり、本を読んでおいて悪いことはない、と言うことだ。
どうせ大学に行ったり社会人になったら嫌でも書物にあたらなければいけないときはあるのだから、せめてスムーズに読めるよう、どんなジャンルでも良いから本を読んでおくと、そのときが来たとき辛い思いをせずに済むだろう。
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