Essay


初回:僕にとってのエッセイ

みなさんはどんな本を読まれるだろうか?
本は小説、評論、随筆など大きな枠組みの中で細かく分かれていて、例えば小説はフィクションや、ノン・フィクションに分かれている。
しかもその中にも区切りがあって、例えばミステリーだったりファンタジーだったり、歴史小説だったり冒険記だったりする。
僕が昔から好んだのは主に小説で、フィクションである。
僕のこの読書好きの始まりはマーク=トゥウェインの『トムソーヤの冒険』である。
この本を僕はもう二十回は読んだだろう。「好きな本」というのはたくさんあるけれど、こんなに何度も読んだ本はこの『トムソーヤの冒険』をおいて他にない。
この、読書に嵌まるという経験を味わってから、僕はよく本を読むようになった。
それから僕は児童文学→ライト・ノベル→純文学という道筋を(非常に大まかだけど)通ることになる。ライト・ノベルとの出会いは水野良の『ロードス島伝説』(角川スニーカー文庫)だったと思う。
僕はこの辺りから、小説家への漠然とした夢を持つようになった。家の古いパソコンで使っていたフロッピー・ディスクには、この『ロードス島伝説』や『ラグナロク』(同上)に大きな影響を受けたのがわかる作品が、未完ではあるけれどいくつか残されている。
そのときの主人公の名前が『ウィル』で、僕はそれ以来この名前に理想の自分の形を求めることになる。だから、題名も出すのが恥ずかしいこれらの作品は、ある意味で僕の基礎を作ったともいえる。
これらのライト・ノベルは今でもよく読むが、自前の小説を一作書いてからその量は減った。もちろん僕はライト・ノベルをこよなく愛する人間であるし、その文学的な価値を主張するような人間でもあるから、自分がある程度のレベルに来たことによって、もっと高尚なものを求めたのだ、などとは言わない。そもそも文学に高いも低いもないと思っている。
しかしこの後、僕が所謂純文学に嵌まったのは確かなことだった。これは説明のしようがない。自然に、僕は夏目漱石や武者小路実篤の本に手を伸ばしていたのである。
さて、今回の題であるところの『僕にとってのエッセイ』についての話をしよう。
僕が好きな作家に村上春樹がいるのだけど(あるいはもう気付いている人がいるかもしれない)、僕は明らかにこの作家の影響を受けている。
村上春樹が『純文学』であるかにという問題についてはここでは触れないが、僕は作家、村上春樹とその作品が好きだ。
これは珍しいことで、本に好きな作品が人はわかるかもしれないけれど、作品が好き=作家が好きになるとは一概には言えない。
前述した通り僕は『ロードス島』シリーズが好きだけれど、別に水野良が好きというわけでもない(嫌いというわけでもない。もちろん)。
しかし、村上春樹は好きなのである。僕は彼のエッセイをよく読むのだけど、僕がエッセイを好んで読むような作家はこの村上春樹しかいない。
これを読んでいる人の中に村上春樹のファンがいるとしたら、この僕のエッセイを不快に感じるかもしれない。あるいは、面白がって読んでくれるかもしれない。なぜなら、自分で言うのもなんだけれど、明らかにこの書き方が村上春樹のそれに似ているからだ。とはいっても、僕の文章力など、村上春樹には到底及ばない。似ているのは、ちょっとした雰囲気だけである。
村上春樹はエッセイに『僕』を使う。まあ『俺』を使う人など滅多にいないし、『私』という柄ではなかった、というだけなんだろうけど、このせいで僕にとってのエッセイは『僕』でしかなくなった。全く、影響を受けやすいたちである。
というわけで、僕のエッセイを読んで不愉快な思いがする、という方には是非ご理解を頂きたい。別にまねをしているというわけではなく、受けた影響が大きすぎるのだ。

さて、エッセイの第一回はどうだっただろうか? 一応文章サイトだということで、頻繁に話題を見つけたら書こうと思っている。
もしなにか書いて欲しいような話題があったら、メールでも掲示板でも一言書いていただければ、それには出来るだけ答えようと思う。


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