7/4(水)

歴史、記憶、人類学的まなざし

―歴史的記憶はフィルムや写真を通してどのように保存されたりあらわにされたりされるのか?

またその記憶は、撮影者や鑑賞者がイメージを見る際のまなざしによってどのように影響されるのか?―


素材
 Night and Fog (Alain Resnais, 1955)
 The Spirit of the Beehive (Victor Erice, 1975)

当日記録(1)直接参加者による

当日記録(2)間接参加者による


当日の記録 (1)<直接参加者による>
記憶
  皆さんは、これまでの人生で経験した全てを「記憶」していますか?まぁそんなことは無理ですよね。
 日々のことは思いがけず、また意図的に忘れてしまいます。でも覚えておきたいものは、日記に書いたりして記録しておきますよね。ただ、文字に起こしてしまうと「何か違うな」と思うことも多々あります。
 自分自身がそこで感じた情動などを上手く表現しきれていないと。そして、ここにこそ実は重要な問題が隠されているのです。
 こうした点はひとまず置いておいてMichael Richardson先生が選んでくれた映像と人類学WS第5回目のテーマは「記憶」。
 「記憶」には二つありますね。一つは、個人の「記憶」。そしてもう一つは集団の「記憶」。 前者は、言うまでもなく個々人の中に残された「記憶」で、人はこの「記憶」を頼りに次の行動を起こします。
 即ち、自分の「記憶」を上手くつなぎ合せて「物語」を作ってそれを基に未来へと自らを投げ込んでいくということを人々はしているとここでは仮定しておきましょう。
 集団の「記憶」にも同様のことが言えて、集団としての「記憶」を作りそれを基に社会全体が向かうべき道を探っていくのです。 
 さてさて、こうした「記憶」とセットになるのが「忘却」です。そう、忘れること。人々は都合の悪いことは忘れて、自分にとって有用なものは 残していくようです。これは、個人ならまだ良いのですが、集団の「記憶」となるとそう簡単にはいきません。何を「記憶」しておくべきで何を「忘却」するべきかは人によって違うのですぐに論争になってしまうのです。
 リチャードソン先生は、「歴史というものは常に勝者によって描かれる」という有名な文句を紹介してくださいましたがまさに、歴史は勝者によって「記憶」されるべきものと「忘却」すべきものが選定されてしまうものなのです。
 そこで、「真理」を追究すべきものとしての学問としてこの「記憶」にどう立ち向かっていけるか。
 そしてそこで「記憶の機械」(クリス・マーカー)である映像はどのような役割を果たすことができるのか。
 そんな問題意識を基に二つの映像を見ました。ここでは、その中の一つ1955年にフランスで作られたナチスの強制収容所の記録映画として名高い"NUIT ET BROUILLARD"(Night and Fog)を紹介します。
 ナチの問題は、西欧近代の負の側面の代表として現在になっても世界中で語られる歴史です。即ち、残されるべき「記憶」として人々の承認を得た重大な事件だと言えます。
 ナチスの強制収容所の記録映画としては、もう一つ"SHOAH"(ショアー)がありますが、そっちが生き残った人々のインタビューを中心に構成されているのに対してこの『ナイト・アンド・フォッグ』は当時のニュースフィルムや写真と映像が制作された1955年の風景を交錯させながらアウシュヴィッツの強制収容所を再現したドキュメンタリーフィルムとなっており、当時の状況が生々しく描かれています。
 例えば、遺体の山が穴の中にゴロゴロと入れられてしまうシーン。確かにその事実自体はもの凄く悲惨なものでした。
 何百体の遺体がシャベルカーによってテキトーに穴にぶち込まれるわけですからね。
 ただ、私自身の率直な感想としてはそうした遺体の山はどうしても「人間」には見えなかったのです。
 確かに、それは「人間」の身体ではありましたが、「人間」の痛みや叫び、苦悩や怒りといったものが感じられない「物体」のようなものとして私には映ったのです。
 参加者の一人からも同じように「確かに悲惨だけど、前にJean Caryolの本(本映画の原作本)を読んだときの方が強いメッセージを受けた」といったような旨のコメントがありました。こうした指摘は「記録」という重要な問題に発展していくものだと思います。
 社会学者のジグムンド・バウマンという人が『近代とホロコースト』という本で、ホロコーストが近代の失敗といったような形で描かれるそれまでのホロコースト論に対して新しい視点を提示しました。
 それは、「ホロコーストというのは近代の失敗なんてものではなくて、むしろ近代そのものの象徴だ」といったような主張です。即ち、近代合理主義によってシステム化された体制がホロコーストといった悲惨な事件を可能にしたということです。人は通常であれば、大量に人を殺戮するといった非情なことはできない。
 そんなことをしたらやる側の精神がもたない。でも、みんなやってる。やらなければ上司に怒られる。
 行為の責任は自分個人にあるのではなく、制度にあると考えれば残虐な行為ができてしまう。
 そうした近代合理主義がホロコーストを可能にしたのだとバウマンは訴えるのです。
 若干、遠回りしてしまいましたが、私が映像を見て感じた印象はこの近代合理主義そのものです。
 冷たく、システム化された殺戮という作業からは(全てではないですが)悲しみ、怒り、悲惨さといったものが抜け落ちてしまっていました。そうした私の印象は、バウマンの指摘を基にすると整合性を持ちます。即ち、そうした情動を持たないようなシステムがあったからこそホロコーストが可能になり、それを忠実に再現したからこそ悲惨さが抜け落ちてしまっていたと。
 映像は、文字以上に情報量を提供できますから、より「リアル」に描くことが可能かもしれません。
 しかしながら、それを忠実に再現してしまうと、ホロコーストのような場合ではむしろその悲惨さが抜け落ちてしまうことも実はありえるのです。
 どのような、そしてどのように「記憶」するかというのには、必ず「イデオロギー」が介入してきます。
 ホロコーストであれば、やはりそうしたことを人類が二度と起こさぬように「記憶」するという「イデオロギー」が背景にあるものと思われます。即ち、平和なり人権を希求する「意志」ですね。
 こうしたことを考えると、今回の映画"NUIT ET BROUILLARD"は、ホロコーストという近代合理主義による無機質性を上手く再現することが可能だった故にそうした「意志」を上手く反映することができなかったという逆説があったと思います。即ち、映像という文字以上にある側面では「リアル」に描くことができるツール故に生じた「無意識」の「忘却」がそこにはあったのです。
 冒頭で「歴史というものは常に勝者によって描かれる」だから、「記憶」も「忘却」も勝者によって選定されるということを書きましたが、こうしたことを考えると「記憶」と「忘却」の問題はそう簡単には判断できないものだと考えることができます。もちろん、大枠では勝者によって選別されることは大いにありえることでしょう。しかしながら、ある側面を再現しようとしたら、ある別の側面は「忘却」してしまうということは必ず何かを記録するという行為にはつきまとってしまう問題であるということも忘れてはならないと思います。
 だからといって、記録が重要ではないと言いたいのではないことはもちろんお分かりですよね。
 そうではなく、できるだけ「忘却」を防ぐためにも記録は様々な方法でおこなわれるべきだということです。
 文字で記録しきれないものを映像で補足し、映像では表現しきれないものは文字で残しておく。
 「メディアミックス」なんていう手法がもてはやされる昨今、学問の世界でもこうした様々な手法を用いながら「記録」していくことが今後益々重要になってくるのではないでしょうか。
(中川 圭)


当日の記録 (2)<間接参加者による>
 5週目のワークショップ(WS)では、「歴史と記憶、人類学のまなざし」というテーマで二本の映画「Night and Fog(邦題:『夜と霧』)(フランス、1955年アラン・ルネ監督)と「The Spirit of The Beehive(邦題:『ミツバチのささやき』)」(スペイン、1973年ビクトル・エリセ監督)を材料にディスカッションをした。なお、今回わたしはあえてWSには参加せず、WSの風景を記録した映像と、映画の本編を鑑賞し、この記録を作成した。


 さて、一見何の接点もなさそうな二つの作品だが、それぞれに「ホロコースト」「スペイン内戦」という戦争と暴力の、集合的でトロウマティックな経験に関係がある(らしい)。だがそれぞれのテーマを扱う手法はずいぶんと異なっている。
 「夜と霧」の特徴を一言で言えば「直截性、無媒介性(immediacy)」だろう。淡々としたナレーションやドラマチックじゃないBGMなどの抑制された演出と、直截的なメッセージ性は、この作品が、1950年代当時初めてホロコーストを正面から取り上げた映画だったことを思い出せば、意図的かつ必然的なものだったと思われる。WS参加者の一人の感想にもあったとおり、「(記録映像の部分以外に)登場人物がいないため、見る者はカメラマンあるいは当の目撃者のような目線になれる」。現在(映画作成当時)の荒涼とした草むらに廃墟が残るばかりの強制収容所跡地のカラー映像から、モノクロで無音声のホロコースト記録映像への切り替えが、現在から過去へのやや唐突な導入になっている。このモノクロで無音声な記録映像が、記録されたことが過去の出来事であることを印象付けるが、ところどころに挟み込まれた収容所跡地のカラー映像が、その「過去」が実はほんの十年ほど前に「その場所で本当におこったこと」であるということを思い出させる。
 ホロコーストの記録フィルムが伝えることは直截的だ。パワーショベルで無造作に穴に放り込まれる大量の囚人たちの死体や、髪の毛の山、切り取られた首が満杯になったバケツは、確かに胸がむかむかする感じを起こさせる。しかしわたしは(WSの参加者からも同様の意見があったが)それらの映像にどこか既視感を覚えたし、すぐに「慣れて」しまったことも告白しよう。わたしの場合、この「慣れ」は、一方では、日ごろ食事をしていてつけっぱなしのテレビから、戦争、テロ、殺人等のニュースが流れると一瞬箸を止め、「ひどいわね」といった次の瞬間には普通に食事を続けているのと同じ感覚だ。つまりメディアをとおして伝えられる、過去から現在までの世界のどこかしらでいつも起こっている戦争や災禍の映像にわたしは文字通り「慣れて」いて、そこに多少新しい情報が加わったとしても、「人間が繰り返す残虐行為映像集」の引き出しのどれかに分類し収めることで、現実の生活と折り合いをつけている、そんな感覚だ。しかし他方でこの「慣れ」はひょっとすると、ホロコーストの当事者たちが経験していった「慣れ」と同種のものなのかもしれない。つまりこの直截的な映像は、人間が人格とか尊厳を奪われ、身体からは髪の毛から脂の一滴まで吸い尽くされた後で消されていくことに、当のホロコースト関係者自身がいかに慣れていったかさえも、見ている者に忠実に追体験させるのだ。

 『ミツバチのささやき』は、リチャードソン氏の解説によるとその基層のテーマには「スペイン内戦」があるらしい。だがそのことは映画の中では必ずしも明示的ではない。この映画が作成された1970年代のスペインは、映像作品に対する政府当局の検閲が厳しかったらしい。そのことが背景にあるのだろう、テーマやメッセージ性は慎重に別の物語りの中にくるみこまれているような、だからこそイマジネーションをかきたて、解釈の多くを観る者に投げ出しているような作品だ。わたしはこの作品を、主人公の少女の、子ども時代にありがちな虚構と現実が錯綜した現実理解の仕方についての物語として観た。しかし物語が単なる「本当のテーマ」の隠れ蓑やメッセージの乗り物に矮小化されず、ちゃんと成立しているのは、細部が妙な現実味を持っているからのような気がする。例えば、終盤の、主人公の少女が、脱走兵――これが彼女にとっては映画でみた“フランケンシュタイン”そのもの――のためにこっそりもちだした父親の上着が、父親の手元に戻っていることを、ポケットにはいっていた懐中時計のオルゴールの音で知るシーンは秀逸だ。あの緊張感とリアリティは映像と音で大部分が構成されていて、あれを言語化することは可能かしら?といったこともふと思った。映画が喚起するイメージは多様であったこともあり、WS参加者からは、「『夜と霧』と比較して、「ミツバチ」の方ではイマジネーションを働かせる余地があった。」「我々の記憶の仕方は断片から物語を形成するが、主人公の少女の記憶の仕方は散漫で、夢に似ている。」「少女は虚構の世界と現実の世界を分けることなく一つの物語を形成している」「主人公の少女の中にシャーマン的な要素を見た」など、さまざまな意見がいもづる式に出された。
(山口裕子)
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