6/20(水)

エスノグラフィックフィルムの問題

―エスノグラフィックフィルムは信頼に足る証拠として使うことができるか?―



素材
 Grass: A Nation's Battle For Life (Cooper and Shoedsack,1925)
 King Kong (Cooper and Shoedsack, 1933)
 Chang (Cooper and Shoedsack, 1926)
 Nanook of the North (Robert Flaherty, 1922)
 Man of Aran (Robert Flaherty, 1934)
 Louisiana Story (Robert Flaherty, 1948)

当日の記録
 人類学者にとって、エスノグラフィックフィルムはどのように使われるべきか、 また有用なのだろうか。
 このように出された問いは、エスノグラフィックフィルムとは何か?ということを 改めて考えさせるものとなった。それは、「真実」とは何かということであり、また、「フィクション」との差は何かという問題でもある。
 一見、映像は生き生きと対象を写し、またイノセントなものに思われるかもし れない。しかし、それは技術的な画像処理から編集までのさまざまな選択の結果である。 そしてまた、映像制作にはしばしば、商業的な側面が関わってくるのである。
 このように考えたとき、映像は、一体何を伝えるのか?映像は実際にイノセントなも のなのか?映像を見ることはどのようなことなのか?
 以下、各映像に対しての議論を簡単に紹介しておきたい。

Nanook of the North
 これは、非常に生き生きと、かつ自然に描かれ、人類学者にとって魅力的な映 像になっている。ただし、一方で、この映像には、音楽やスクリプトが大きな影 響を及ぼしており、ディレクターの関わり、商業的意図を感じざるを得ない。
 撮影の仕方や構成の仕方、そして音楽やスクリプトは慣習的なものであり、それ は前回の Sans Soleil とは対照的に、私たちの理解を助け、「居心地よく」感じさせ るものであった。しかし、それは既存概念や感覚や価値に何かを訴えたのだろうか?そして人類学的なものだと果たして言えるのだろうか?
Grass
 これは、Nanookに比べ、あたかも遠く離れたところからただ見ているような カメラワークであり、フォーカスがはっきりしないものとなっていた。 また偶発性が見られるという指摘もあった。
 これはエスノグラフィックフィルムなのだろうか。そしてそもそもエスノグラフィックフィルムとはどのようなものだろうか。
 カメラは、そこにいるかのように臨場感をもって撮るべきなのか、あるいは距 離をとって、客体化した形で撮るべきなのか、どちらが人類学者がとるべき姿勢 であるのか?
King Kong
 西欧諸国の他者へのまなざし――極端な他者の描き方、奇異なものとしての描 写――を感じさせる作品であった。そして、この作品自体が二重の構図――作品 全体が、他者へのまなざしを表していると同時に、またその中の人びとが、他者 を見ていくこと、撮っていくことそれ自体を描写してもいる――になっているこ とから、先の2作品を振り返ったとき、フィールドで他者を見るということを、そしてそれを記録することがいかなるものであるのかを再び考えさせるもの となった。
 私たちは一体どのように他者を見ているのか、見るとはどういうことか、カメ ラを向けるとはどのような行為なのだろうか?そしてまた映像を見る私たちはど のような位置にいるのだろうか?

 これらのディスカッションを経てのリチャードソン氏のコメントは次のようなものであった。
 「これは、エスノグラフィカルではないが、人類学的ではある」、と。
 エスノグラフィカルであることと人類学的であることにはどのような違いと どのような問題が関わっているのか。
 この問いは、映像制作、あるいは他者を描写すること、他者をまなざすこと全般に 関わる問いでもあるだろう。今後のディスカッションで改めて展開したい。
(文責:田辺)

お問合せは、ws-visual@mail.goo.ne.jp 田辺まで

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