合戦の概要




 

対 武田戦

武田信玄と織田信長の年齢差は十三歳あり、時代的には同時代の人とはいえ、 この年齢差は激動の戦国期においては大変大きな意味を持っている。信長が 十八歳で織田家家督を嗣いだ天文二十年(1551年)三月、信玄は三十一歳であり、 家督後十年を経ており、信濃侵攻作戦の最中であった。信長は家督を継承した ものの、尾張半島の統一すらままならず、その後約十年を要して尾張の統一を 果たした。永禄三年(1560年)五月の桶狭間の戦いで今川義元を打ち破ったこと が大きな契機になっている。 その翌年に領国を接する三河の徳川家康と和議を結び、やがて同盟関係を 結んでいる。しかしこの時期、信玄は信濃占領作戦がほぼ完了しかかった局面 を迎えており、永禄四年九月の第四回川中島の戦いで越後勢を破り、その目標 がほぼ達成された。ついで信玄が上洛志向を前面に出せば、三河・信濃と西進 する途はあったが、一つには甲駿相の三国同盟にもとづく関東の政治情勢から 逃れられなかったことと、もう一つには地理的地形的な制約もあって、北関東 (西上野)への侵攻策が優先された。西上野の占領は、永禄九年九月の箕輪城の 攻略をもって一段落するが、その頃、信長の方は、念願の美濃攻略が最終段階 を迎えており、双方のそうした背景があって、永禄八年の十一月に、信玄の 四男で、当時信濃伊那郡の高遠城主であった勝頼と、信長の養女である美濃 苗木城主遠山友勝の娘との婚姻策が実現した。 この時期、信長は美濃攻略のために遠交近攻策を進めており、近江浅井氏や 三河徳川氏とも婚姻策を進め、武田氏との婚姻もそうした外交策の一環で あった。この信長養女と勝頼との間に二年後の永禄十年十一月に長男信勝が 生まれ、通説によるとこの娘はその時の難産のために死去したと言われている が、その死は元亀二年(1571年)九月十六日とする説の方が良いようである。 ついで両者は永禄十年十一月に、信長の嫡男信忠と信玄五女の松姫との婚約 を成立させ、その同盟関係がいっそう強化された。その背景として、美濃を 攻略した信長の室町将軍足利義昭を擁しての入京上洛策があり、信玄の方には 従来の甲駿相の三国同盟を破棄して、駿河侵攻の計画があった。ともに当面 の外交策に迫られて同盟策を強化したと思われる。 その関係は元亀二年三月の信玄の遠江高天神城攻囲によって破綻を迎える。 その間に信玄は、同盟者の今川氏真を攻め、駿河占領を果たすとともに、 今川氏を援助した北条氏康・氏政との対戦でも有利な展開をみせていた。 信長も入洛を果たし、将軍義昭を奉じて機内の平定に専念していた。 ところが元亀元年八月、信長の摂津出兵によって石山本願寺との対立が表面化 し、本願寺と同盟して近江浅井氏・越前朝倉氏も再び連合して信長包囲に 立ち上がった。伊勢長島や紀伊雑賀の一向門徒勢もこの信長包囲網に加わり、 信長は窮地を迎えた。本願寺は信玄とも連絡をとり出兵を要請した。 翌二年二月、信玄は遠江に出陣し、高天神城を包囲し、さらに四月には三河 足助城を攻略した。この軍事行動の直接的な要因は信玄の駿河侵攻後における 徳川家康との対立であったが、家康との同盟関係によって上洛作戦を展開 させていた信長にとって、家康からの救援要請は無視できないものであった。 加えて元亀三年に入ると信玄は北条氏政との和議を整え、西上作戦の具体化 に踏み出した。信長は信玄のもとに使者を送って従来からの同盟維持に努めた が、同年十月に信玄が出陣するに及んで、両者の同盟は決裂した。武田軍は 順調に進軍し、十二月二十二日の遠江三方々原の戦いで徳川家康を破った。 この時、家康は信長に援軍を要請し、佐久間信盛らが参戦したが破れた。 信玄は三河に進み野田城を包囲したが、そこで発病し長篠城へ後退した。 信長はこの時期、将軍義昭の策謀により京都で窮地にあり、信玄の大軍を 迎え撃つために岐阜城へ戻った。しかし元亀四年四月、信玄は病死し、信長 は九死に一生を得た。 信玄没後、四男勝頼が跡を嗣ぎ、武田領国の維持に努めた。しかし、家康の 反攻が激しく、天正元(元亀四)年九月には長篠城を奪還し、ついで天正三年 (1575年)五月に長篠へ出陣してきた武田の大軍に壊滅的な打撃を与えた。 この長篠の戦いには信長自身も出陣した。この時期には畿内平定が一段落し、 全力を東方に注ぐことができた。その後、勝頼は越後の上杉景勝と同盟し、 北条氏政と敵対することになり、家康からは遠江を攻められ、駿河の維持が 困難になっていった。 信長はこの間に安土城を居城に定め、全国平定に向かって中国の毛利攻めを 始めた。東国へも関心を示し、北条氏や伊達氏との交渉が始まっている。 武田領国との接点は美濃にあり、信濃木曽領の木曽氏に勝頼からの離反を働き かけ、同盟者の家康は武田氏の駿河支配の中心にあった穴山信君に働きかけて 投降の交渉を始めている。 天正九年三月に、家康は遠江の高天神城を陥落させた。翌十年正月、木曽義昌 が信長に内通し、ついで穴山信君も家康に内通し、信長の甲州征伐戦が開始 された。二ヶ月後の三月初旬に武田氏は滅亡し、信長の東国進出が実現した。
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