合戦の概要




 

本能寺の変

天正十年(1582年)に入り、信長の全国制覇の野望は、三月に宿敵の甲斐武田氏を 滅ぼしたことによって大きく前進した。この時点で、信長政権の支配地は、 すでに手に入れていた尾張、美濃から畿内を含め東海、北陸、東山道へと 拡大したのである。信長の有力家臣の中で、この甲斐遠征に出陣した河尻秀隆、 滝川一益、森長可らの武将たちは、平定後の三月二十九日の論功行賞の際の 新しい知行割り当てにおいて、河尻秀隆には主家を見限って本領安堵となった 穴山(丸山)梅雪の知行分を除く甲斐一国が与えられ、また、滝川一益には 上野国、森長可には信濃四郡(高井・水内・更科・埴科)、そして徳川家康には 駿河国がそれぞれあてがわれ、その後、新領国の経営に着手することになった。 一方、甲斐遠征に参加しなかった武将たちのこの時期の働きとしては、まず 四国攻略において、信長は三好康長を利用し、その遠征部隊の先発隊として 送り込んだ。四国政略の当初から、明智光秀は長宗我部氏との間に立ってその 調略を進めてきたので、当然、四国征討の総司令官には自分が任命されるもの と思っていたようだ。しかし、二月、康長の手によって一宮、夷山の二城の 攻略に成功すると、光秀の思いに反して信長は、五月七日には、自らの三男 織田(神戸)信孝に朱印状を与え、四国遠征軍の最高司令官に任命した。 丹羽長秀もこの時、副司令官となり、五月十一日には信孝の号令の下、長秀 以下、津田信澄、蜂屋頼隆らの諸将が近江、伊勢、若狭の兵を従えて大坂、 堺方面へ結集に向かった。また、織田家臣団にあって筆頭の家老であった 柴田勝家は、北陸方面の統監として天正三年より越前北の庄を居城として 領国経営に当たるとともに、佐久間盛政、佐々成政、前田利家らを従えて 越中において敵対する上杉景勝の属城である魚津城の攻略に務めていた。 そして、信長の信頼厚い羽柴秀吉は、中国遠征部隊の司令官として、四月、 自軍の調略の誘いに応じなかった毛利方の部将清水宗治を討伐するために、 姫路より宇喜多勢を味方に加え、備前岡山から備中に兵を進め、竜王山に 本陣を構えていた。この方面の秀吉の活躍は、五月、清水宗治の属城である 冠山、宮地山、加茂の三城の攻略を次々に成功させ、七日には竜王山より 蛙ヶ鼻に本陣を移し、宗治の居城である高松城の包囲網を築いた。秀吉の 参謀である黒田孝高は、難攻不落の要塞である高松城を攻めるにあたって、 水攻め作戦を決行。高松城は城外との連絡を遮断され、孤立化した。 そこで、対する毛利陣営は全軍をあげて高松城の救援に回り、五、六町の 周囲に二万の秀吉軍を包囲した。 この毛利軍の動きによって、秀吉は甲斐遠征から安土に帰城していた信長の もとに援軍を依頼することになったのである。ちょうどこの時、安土には 先の武田攻略の恩賞に謝意を表す徳川家康と穴山梅雪が、信長のもとに 来訪中で、明智光秀はその接待役を務めていた。そして、家康は信長の勧め もあり、この後、上洛したのち、大坂、奈良、堺と見物に回った。政変が 起こったのはこの時であった。そのため、わずかの同行者とともに上方見物中 の家康は、その後、なす術もなく帰国してしまったのである。一方、秀吉の 援軍要請に応える信長は、まず、堀秀政を秀吉のもとに送り、作戦の指示を 与えた上、細川忠興や池田恒興、高山右近、中川清秀らとともに光秀にも 先陣を命じた。信長自身も二十九日、中国遠征に向けて西上するため、 安土本城の留守居衆に織田信益ほか賀藤兵庫頭、野々村又右衛門、遠山新九郎、 世木弥左衛門らを残し、また、二の丸番衆には蒲生賢秀以下、木村次郎左衛門、 雲林院出羽守らを残留させ、小姓衆二、三十人を召し連れただけで上洛し、 常宿である本能寺に入った。そして、もう一方のこの政変の主役である光秀も 信長出陣の三日前に主君の命に従い、本拠の亀山において軍備を整え、秀吉 救援に向かうことになっていた。 要するに、本能寺の変が勃発する直前の状況としては、長い年月を要していた 甲斐武田氏政策において、天正十年段階に入り、信長の予想以上の早さで 調略が調った結果、功績のあった部将が旧武田領国に入部し、北陸遠征軍、 中国遠征軍、あるいは四国遠征軍とあいまって、信長の周囲を手薄にしていた ことが挙げられよう。そうした状況の中で、備中高松城で毛利方と交戦中の 秀吉を救援する部隊が編成され、先陣の一人に任命された光秀に謀反を企てる 一つの契機を与えられたものと思われる。 本来、光秀は、その武将としての能力よりも智略家としての能力を買われて 信長に抜擢された人物であった。だが、戦国の常として光秀も例にもれず、 天下への野心を当然兼ね備えていたであろう。その謀反の真意は計り知れず、 四国征討の総司令官を織田信孝に奪われたことを含め、信長に対する怨恨から くるものや、甲斐武田氏征討後の知行割り当てにおいて、当時五十八歳の 滝川一益が、その意に添わぬにもかかわらず、上野国厭橋に赴任させられた ことなどからくる信長に対する不信感からであったともされている。だが、 戦国武将として天下に対しその本来の性をここに証明した光秀は、政変後 十一日目にして秀吉の前に屈することになったのであった。
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