合戦の概要




 

対 本願寺戦

本願寺は、織田信長にとって武田信玄と並ぶ最大の敵であった。信長は、永禄 十一年(1568年)に入京してから天正十年(1582年)、本能寺の変で死ぬまでの 満十四年のうち、十年間を本願寺との戦いに費やしている。ガスパル・コェリュ という宣教師は、天正十年一月に「もし(本願寺の)坊主等がなかったならば、 彼(信長)は既に日本全国の王となっているであろう」と報告しているが、まっ たくその通りであった。 これほど信長を苦しめた本願寺とはどういう組織であったかというと、親鸞を 開祖とする浄土真宗(一向宗)本願寺派の本山である。本願寺そのものは軍隊を 持っていたわけではないが、近畿、北陸、東海などを中心として諸国に強力な 信徒の組織をつくりあげていたので、いつでも彼らを招集できたし、信徒に 指示して一揆(一向一揆)を起こすこともできた。こうしたことは、どんな戦国 大名にも真似のできないことであった。さらに摂津石山(大阪市)という要害の 地に本拠を構えていたことも、本願寺の立場をいっそう強力なものにした。 「天下布武」をスローガンにして、日本全土を武力で制覇しようとしていた 信長にしてみれば、このような組織を、いつまでもそのままの形で放置して おくわけにはいかなかったことは当然であろう。 その本願寺と信長の最初の衝突は、元亀元年(1570年)九月のことである。信長 が摂津の三好党を討伐するため出ていったところ、本願寺が突然兵を挙げて 信長の軍を攻撃したのである。この挙兵については、信長が石山の明け渡しを 要求したことが原因だという説が昔からあるが、確かな証拠はない。両者の間 ではそれ以前からトラブルが絶えなかったので、三好党の次はこちらの番では ないかという恐れをいだいた本願寺が先手を打ったというのが真相であろう。 このときは戦況が不利だったばかりでなく、反信長派の浅井、朝倉の軍勢が 京都に迫ってきたこともあって、信長は撤退せざるをえなくなった。本願寺は 追い打ちをかけるように、この年十一月、信長の本拠の岐阜に近い伊勢(三重県) 長島で一揆を起こしたため、信長はその対応にも苦しまなければならなかった。 元亀三年(1572年)十一月頃、信長と本願寺はいったん講和したが、この講和は 翌年には破れ、信長は天正二年(1574年)四月、石山を攻めて城下に放火し、 農作物を荒らして引き上げた。その後七月から九月にかけ、ようやく伊勢長島 の一揆を壊滅させることに成功したが、同じころ越前(福井県)の一向一揆が 一国を支配する勢いを示すようになった。 翌天正三年四月にも、信長は大軍を率いて石山に迫ったが、今回も直接攻撃を かけることはせず、河内(大阪府)に向かって、高屋城などこの地にあった三好党 の拠点を片っ端から潰してしまった。この年八月には、越前の一向一揆も完全に 壊滅させることに成功し、十月には再び本願寺との間に講和が成立した。 しかし、信長に追放された前将軍足利義昭をかつぐ中国の毛利氏が上洛を企てた こともあって、この講和も翌天正四年には破れた。信長は石山城の補給路を 絶とうと考え、五月にまず陸上から迫って、城下で激戦を交えたが成功をみる までにはいたらなかった。水軍による海上からの封鎖も、七月に毛利氏らの 水軍に完敗したため、不成功に終わった。 信長は方針を変えて、石山城を遠巻きにする一方で、本願寺側の主力部隊と なっていた紀伊(和歌山県)の雑賀衆を討つことにした。天正五年には、大軍を もって二回にわたる雑賀攻めが実行されているが、結局彼らを屈伏させること はできなかった。 翌天正六年になると、播磨(兵庫県)の別所氏や摂津(兵庫県)の荒木氏が新たに 敵側に回るなど信長の苦境は続いたが、信長は次々と手を打っていった。新鋭 の艦隊によって、あらためて石山を海上から封鎖するとともに、翌七年には 備前(岡山県)の宇喜多氏を寝返らせ、摂津の荒木を潰し、翌八年初めには播磨 の別所も潰すなどして、反信長派を次第に圧倒していったのである。その一方 では天皇家に働きかけ、勅命の形で本願寺に講和を説得させる工作も行っている。 こうした情勢を見た本願寺の法主顕如は、これ以上抵抗を続けるのは難しいと 考え、実質は降伏とあまり変わらない講和に応ずることとした。さすがの本願寺 がこうした形で屈伏したのは、信長の海上封鎖が成功したからだといわれて いるが、封鎖はそれほどの効果があったわけではない。事実は、諸国の反信長 派が次々と没落してしまい、残る毛利氏などの応援も期待できなくなったので、 少し早めに手を上げたということである。 顕如は、天正八年(1580年)四月、石山を去ったが、息子の教如は、開城に反対 して父親と衝突し、そのまま居座っていた。これは父子で共謀してのことだった という見方もあるが、真相は明らかではない。その教如も八月初めには退城 せざるをえなくなり、満十年におよんだ信長の対本願寺作戦もやっと終了した のである。
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