合戦の概要




 

足利義昭追放戦

天文六年(1537年)十一月三日、足利義昭は十二代将軍義晴の次男として生ま れた。 天文十一年、六歳の義昭は関白近衛稙家の猶子となり、興福寺一乗員問跡に 入室し、覚慶と号し修行に励んだ。永禄五年(1562年)、覚慶は一乗院門跡と なり、興福寺の別当職を期待されるほどの僧侶に成長したのであった。だが しかし、同八年五月、大和の大名松永久秀もよって十三代将軍、兄の義輝が 殺害されると、自らの立場も一転する。一時は覚慶も危険にさらされたが、 将軍に就任させる運動もあり、また越前の朝倉義景や近江の六角承禎らの斡旋 によって興福寺から脱出した。覚慶は、まずは近江国甲賀郡の和田惟政の城館 に迎えられた。そこで和田・一色藤長・細川藤孝ら幕臣に奉じられ、幕府復活 の宣言をし、朝倉・上杉謙信・武田信玄ら戦国大名に出兵を求めた。 永禄九年二月、覚慶は還俗して義秋を名乗った。近江から若狭(福井県)を 抜け、十一月、越前一乗谷に下って朝倉義景に出兵上洛を促したが、義景に それだけの英断はできなかった。同十一年四月、元服して義昭と改名した。 一方、信長は同十年には美濃を攻略して、斉藤龍興を滅ぼし岐阜城を居城と した。翌年には義昭方と上洛の交渉を始めている。 永禄十一年七月、義昭は上洛を決意した信長によって美濃国立政寺に迎えられ、 九月、義昭を奉じた信長は上洛の進攻を開始し、同二十六日、京都に入り、 翌十月、御所を本国寺と定め十五代将軍が誕生した。義昭は、ことのほか信長 の動功をほめ「武勇天下第一」と称え、信長のことを「御父」と尊敬した。 ところが、副将軍職を辞退した信長は、翌年の三好三人衆による本国寺の攻囲 を退けてから、幕府の条規を定めて義昭の行動を制限し、二条城の新御所の 建造を始めた。その後、義昭と信長との間には、幕政の実権掌握をめぐって 衝突が起きた。 永禄十三年(元亀元年=1570年)正月、信長は、独自の外交を展開していた義昭 に五ヶ条の不満書を送り、天下の実は信長が握り、義昭は朝廷に奉仕すれば よい、という内容を義昭に認めさせている。対して、義昭は武田・朝倉・ 浅井・本願寺・三好三人衆・毛利といった信長大包囲網を密かに形成して いった。 元亀元年、姉川の戦い、大坂本願寺攻め、翌二年、延暦寺焼き打ちと信長は 攻撃の手を緩めない。元亀三年、義昭は来るべき信長との対決に備えて、 山城淀城を構築しはじめている。外交上は上杉謙信と武田信玄を握手させ 信玄の上洛を推し進め、本願寺と信玄との間も調停している。その年の九月、 信長は十七ヶ条の意見書を義昭に差し出し、義昭の行状を責め立てた。とき すでに信長は義昭を成敗することを決めており、意見書も信長に正義ある ことを宣伝するものであった。 天正元年(元亀四年=1573年)二月、義昭は浅井・朝倉。武田などへ親書を送り、 挙兵を伝えた。二条城の堀を掘って、籠城戦の準備をしていた。そこで信長 は自分に与同する細川藤孝から義昭の覚悟のかたいことの連絡を受け、義昭 側近の切り崩しにかかった。そして、義昭に使者を遣わし、和議を申し込み、 京都焼き打ちの脅しもするが、はかどらなかった。三月、義昭は仇敵松永久秀 や三好義継らとも同盟して、信長と断交した。君臣の関係ではあるが将軍義昭 の行動は言語道断、と一喝、天下に公言し、上洛の決断を下した。入京した 信長は、京都奉行の村井貞勝の屋敷に先制攻撃をかけた義昭方の行動をみて、 講和を求めながらも、四月に入って上京を焼き打ち二条城を攻囲した。いったん は勅命講和がなされ、義昭は降伏するが、七月には山城槙島城に籠城して、 最後の戦いを挑んだ。信長軍団の総攻撃を受け、ついに義昭は無条件降伏し 追放されて、室町幕府はここに滅びる。 最後にその後の義昭の流浪をみておこう。槙島城を出た義昭は、本願寺の斡旋 で河内若江城の三好義継を頼った。義昭のあくなき抵抗は、毛利方への上洛 要請から知られる。若江から堺へ、また紀伊の由良へ移った義昭は、信長との 和睦もかなわず、翌天正二年にいたっても帰京することはできず、北条・武田・ 上杉に書状を送り、上洛の援助を依頼した。同四年二月、由良から備後の鞆 (広島県福山市)に下って、吉川元春を頼るが、毛利輝元に幕府再興を要請して いる。義昭の地位は実質はないとはいえいまだ将軍職にあった。信長との合戦 を決断した輝元は義昭を奉じることになる。同五年、秀吉を総大将とする中国 平定軍の出撃に対して、義昭は本願寺と毛利方との連携を強化させている。 天正十年六月二日、信長は本能寺の変にたおれた。信長の死を知った義昭は、 天命による自滅と述べている。同十二年、次ぎなる天下人、秀吉は将軍義昭の 猶子となり将軍職の継承を望み、義昭の帰京を認めた。これには義昭が拒否 している。のち秀吉とも和がなり、同十六年正月、入京し、出家して昌山と 号した。一万石の知行地を与えられ、大坂城下に住み、山城槙島に私邸を 構えた。 慶長二年(1597年)八月二十八日、足利昌山は腫れ物を病み死亡、享年六十一歳 であった。
元に戻る