合戦の概要




 

対朝倉・浅井、対比叡山戦

永禄十一年(1568)九月、亡命将軍足利義昭を奉じて上洛した信長は、時を おかず畿内を平定し、義昭を将軍職につけたが、早くも彼は将軍を名目ばかり の傀儡にしておいて、自分が天下を握る野心に駆られていた。将軍義昭の方 でも、名ばかりの不当な地位に置かれている身を不満とし、次第に諸国の大名 に密書を送り、将軍の名において信長討伐の命令を出そうとした。 越前の朝倉義景も義昭からの密書をうけた一人であった。義景は京都を追わ れて亡命中の義昭を一乗谷(福井市)にかくまったものの、義昭の求める京都 帰還と将軍職復位の希望をかなえさせることはできず、朝倉を見限った義昭は、 信長を頼って京都へ帰り将軍の位に復することができた。 そんなこともあって義景は、とんびが油揚げをさらうように、義昭を横から 取ってしまった形の信長には快からぬものを持っていたし、もともと信長は 斯波氏の被官だった織田家の陪臣であるのに、朝倉の方は斯波氏の直臣の被官 で、守護代にも補せられた名家で、のと斯波氏に代わって越前の領主として、 三代を経て来ているという自負もあったから、信長が京に入って天下取りの 野望に燃えて動き出したのを見ても、成り上がり者の小僧がというような気持ち でそれを眺めていた。 朝倉家は室町幕府へ勤仕していたこともあって、京の文化の移入にも力を入れ、 その本拠一乗谷は小京都といわれる華やかな城下町を形成していたし、義景 には文人趣味も横溢していた。そんな義景であったから、信長からの上洛の 求めにも応じなかったので、信長は義景の敵意を認め、これを討伐しようと 決心した。 永禄十三年(元亀元年)、信長は大軍を率いて越前敦賀に攻め入り、天筒山城 (敦賀市)、金ヶ崎城(敦賀市)をおとし一乗谷へ攻め入ろうとするところで、 江北浅井長政の裏切りの報に接した。浅井長政には妹お市を嫁がせ、浅井とは 同盟関係を結んでいた仲である。義昭を奉じて入洛した時にも、浅井は信長の 自領通過を援け、観音寺城(滋賀県安土町)に拠って信長上洛の前に立ち塞がった 六角義賢攻めには、浅井勢も加わっていた。その浅井が朝倉を援けるために 出陣したという情報が伝えられたのである。 江北の浅井家はもとは近江北半分を領した近江佐々木の系譜を継ぐ京極氏の 被官であったが、次第に力を蓄え亮政の代に、京極氏にとって代わって江北の 支配者となったものであり、その間、もと京極氏の被官だった地侍たちや、 京極と同族の観音寺城の六角義賢らとの戦いを繰り返して来たが、その苦しい 時に浅井氏は越前朝倉の救援を受けていて、朝倉に対しては累代の恩義があった。 そのため信長の妹お市と長政の縁談が起こった時にも、今後もし信長が朝倉と 事をかまえるようなことがあれば、浅井は信長に与することができないことを 口約束していたといわれる。 そんなことで、信長が越前に侵入、朝倉を攻めると知った時、浅井家中では 朝倉を援けるべきか、信長を援けないまでも中立を守るべきか、激しい議論が 重ねられたが、結局朝倉の恩義に報いるべきだと主張する、長政の父久政の 意見が通り、浅井としては朝倉を救援することに決したといういきさつがある。 金ヶ崎城を落とした信長は、浅井が朝倉への救援軍を向けたと聞いた時、すぐ さま撤退を決意した。腹背に敵をうけてはたまったものではない。彼は秀吉に 殿を命ずると、慌てるように軍を撤して京都に戻った。 しかし朝倉と、自分を裏切った浅井長政に対して信長は、激しい憤りを抱くと 同時にこれを誅伐する決心をかためた。だが敵が他にもまだ多いこの時期、 彼は慎重に行動し、無駄な兵力の損耗は避けなければならなかった。撤兵した 信長はやがて慎重に作戦を練り直し、同年六月には岐阜から大軍を率いて近江 に入り、浅井・朝倉連合軍と姉川を挟んで野戦で大激戦を戦った。このとき 信長は徳川家康の援軍も得て、兵力としては朝倉・浅井連合軍を上回り、勝ち戦 となったが兵力損耗を考え深追いせず、朝倉勢は越前へ逃げ帰るにまかせ、 浅井勢は近江の小谷城(東浅井郡湖北町)に逃げこもらせると、これを封鎖する ように横山城(長浜市)に秀吉を入れ、佐和山城(彦根市)の浅井方武将磯野員昌 を丹羽長秀に押さえさせて、決戦の時を待つ作戦に出た。 その後志賀の陣で浅井・朝倉軍と対戦し、観音寺城六角義賢の残党を制圧して 和睦させ、浅井・朝倉軍に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちしたあと、佐和山 城を攻略して降し、浅井の勢力を小谷城に押し詰めたうえ、天正元年(1573)に なって大軍を率いて小谷城攻略に向かい、援軍として駆けつけた朝倉軍を追い つめて一乗谷にまで攻め込み、朝倉義景を討ち滅ぼしたあと、とって返して 一気に小谷城を猛攻して、浅井長政を討ち滅ぼしたのであった。 この間畿内における三好一党、本願寺顕如の呼びかけに呼応した各地の一向 一揆、武田信玄の挙兵西下の動きにも対応しなければならず、信長にとっては 大変苦しい時であったが、浅井・朝倉誅伐で反信長戦線網の一角を崩すことが できた。
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