視線

それは、小桜祐司さんが大学二年生の頃の話です。
小桜さんは、大学の夏休みを利用して、生まれ故郷の札幌へ旅行に行きました。
中学に入学するのと同時に埼玉県に引っ越した小桜さんは、友人から小学校の
クラス会があるという誘いを受けて、八年ぶりに札幌に戻ったのです。
札幌には、小桜さんの母方の祖母がいます。祖父が死んでから二十五年間、
一軒家に独りで住んでいた祖母は、風邪で体調を崩したため入院していました。
懐かしい札幌の観光とクラス会、さらに祖母の見舞いを兼ねた、一石三鳥の
旅行計画でした。しかも、祖母の家を宿泊に使えば宿代は全くいりません。
学生の小桜さんにとっては、願ったり叶ったりの旅行になるはずでした。

クラス会の前日、小桜さんは「北斗星」で札幌に到着すると祖母の家に向かい
ました。祖母の家は、札幌の中心から少し外れた閉静な住宅街の一角にあります。
築五十年というこの家は、住宅街の中でもっとも古い建物です。
小桜さんは、母親から借りた合い鍵を使って、家の中に入りました。
さほど広くない座敷には、日本人形やフランス人形など二十体ほどの人形が
食器棚の上や本棚の一角に整然と飾られています。小桜さんの祖母は、祖父が
死んだ後、この人形たちを大切にしながら暮らしていました。
どの人形も、祖母にとっては思い出が詰まった品らしく、多少破損していても
決して捨てようとはしませんでした。

居間に荷物を置いた小桜さんは、そのまま久しぶりの札幌見物に繰り出しました。
「おばあちゃんが入院している病院には、観光のついでに寄ればいいだろう」
八十歳という高齢のために入院することになってしまいましたが、単なる風邪
なのでそう心配することもありません。祖母の様子を見に札幌を何度も訪れて
いる母親からそう聞いていたので、祖母へのお見舞いについて気楽に考えて
いたのです。
ところが、札幌市街など夢中になって見物しているうちに、病院の面会時間が
終わってしまいました。時間を見てそのことに気づいた小桜さんでしたが、
「クラス会は夕方からだし、明日の午前中にでもお見舞いに行こう」と考え、
午後八時を少し回った頃、外で食事を済ませて祖母の家に戻ったのです。

再び座敷に入った小桜さんは、昼間は感じなかった奇妙な違和感を覚えました。
部屋全体の雰囲気がやや冷たく、まるで小桜さんを部屋に入れまいとしている
ような感じがするのです。
しかし、それは直感のようなものだったので、「夜、慣れていない家にいる
せいだろう」と思って、それほど気にしていませんでした。

しばらく座敷でテレビを見ていた小桜さんは、不意に背筋に寒気を覚えました。
寒気というよりは”気配”といったほうが正しいでしょうか。誰かが自分を
見ているような気がして、小桜さんはあたりを見回しました。
ですが、誰もいるはずがありません。「気のせいかな?」とテレビに視線を
戻そうとした小桜さんは、そのまま凍りついたように動けなくなりました。
偶然、ソファの後ろの棚に置いてある日本人形と、視線が合ってしまったのです。

その時、彼は気づきました。
日本人形だけでなく、食器棚の上に置かれてあるフランス人形や武者人形など
部屋中のすべての人形が、まるで生きているかのように、小桜さんに対して
冷たい視線を向けていたのです。
気のせいだと思いたかった。友人が側にいて「バカだなあ、思い過ごしだよ」
と言ってくれたら、どんなにか嬉しかったでしょう。
しかし、座敷にいるのは人形と小桜さんだけです。
小桜さんは、人形たちの視線をはっきりと感じていました。しかも、それが
好意的なものではないことは、部屋全体を包む雰囲気でわかります。心なしか
部屋の温度が下がっているようにも感じられました。
「な、なんだよ?」
小桜さんは、震えながら日本人形に向かって問いかけました。もちろん、人形が
返事をするなどとは思っていません。ほとんど反射的な行動でした。

ややあって、不気味な光景に呆然としていた小桜さんは、部屋中から何かが
細かく震えるような音が聞こえていることにも気づきました。
カタカタ、カタカタ・・・。
小桜さんは不意に、子供の頃に祖母から聞いた話を思い出しました。
「人形も、子供のように大切にしてやると、やがて魂が入るんだよ」
彼女はそう言って、一つ一つの人形を丁寧に手入れしていたものです。
小桜さんは、祖母の見舞いを軽視していた自分に、魂を持った人形たちが
無言の抗議をしているような気がして仕方がありませんでした。

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