「当たり前だと思っていたこと」


世の中には常識というものがあります。
本人には当たり前で世の中でも当たり前のことが常識と呼ばれますが、本人に
とって当たり前のことが、必ずしも世の中の常識と一致するとは限りません。
ただ、当人にとっては当たり前すぎて、とりたてて自分の常識と世の中の常識
が一致しているかどうかを人に確かめたりはしないものです。
だからこそ気付かないできた、常識の盲点の話をしましょう。

当時大学生だった鈴成くんは、友達とファミリーレストランに入りました。
六人掛けのテーブルについた鈴成くんたちは、ウェイトレスから受け取った
メニューを眺めながら、全員が黙り込んでオーダーと睨めっこを始めました。
腹が減っては戦はできぬ……とは言うものの、学生の身の上故そうそう食費に
高額をかけるゆとりもありません。鈴成くんは、財布の中身と次のバイト代の
入金日までを思い浮かべながら、ぼんやりとメニューを眺めていました。

メニューを抱え込んだまま黙っていると、ウェイトレスがオーダーを取りに
やって来ました。
「ご注文はお決まりですか?」
鈴成くんは、最初に注文しました。
「カレー二つ。俺と……山口、おまえカレーって言ったよな?」
鈴成くんから離れた席に座っていた山口くんが、怪訝な顔をしました。
「何でわかるんだよ」
「だってカレーだろ?」
「そうだけど……まだ何も言ってない」
「え?いま、『よし、カレーにしよう』って言ったろ?」
「言ってねーよ!考えただけで!」
「えー?」

鈴成くんには確かに山口くんの声が聞こえました。
ですが、メニューを見つめている間、山口くんだけでなく誰も喋っていな
かったらしいのです。

どうやら鈴成くんは山口くんの「頭の中の声」を直接聞いていたようなのです。
このことは鈴成くんにとってショックでしたが、彼が驚いたことは「他人の
考えが聞こえてしまうこと」ではなく、他の人には「他人の考えは普通は聞こ
えない」ということでした。

鈴成くんは、子供の頃からずっと他人の頭の中の声を聞いて育ってきたため
に、これが当たり前だと思っていたらしいのです。

「へえ……でも、自分で常識だと思ってたことが崩れるのって、やっぱショ
ックだったでしょうね」
「そうですねぇ、ずっと当たり前だと思ってましたからねぇ。で、あんまり
ショックだったんで、実家の父親に話したんですよね」
「なんて言ってました?」
「いやぁ、それが……『他人の頭の中の声が聞こえるのって、当たり前のこと
じゃなかったのか』って……父親とは意志の疎通がスムーズにいくなぁと
思ってたら、どうも、親子二代で同じ能力を持ってたらしくて……」

鈴成くんと話している時に、ふと別のことに思い当たりました。私は、思い
切って尋ねてみました。
「ボールの軌道って普通は見えますよね……?」
これは最近気付いた私事です。
私は中学生の頃バレーボール部に在籍していました。球拾いから始まって、
とりあえずはレギュラーにもなり、試合も数多くこなしました。チームその
ものはたいして強くなかったので、公式大会はいつも負け試合ばかりでした
が、不思議とボールはよく見えました。

ボールが見えるというのは、実体としてのボールそのものが見えるということ
だけではありません。

ボールが通ったあとにボールの残像が灰色の軌道になって見えるのは、誰に
でも経験があるものだと思います。それと同様、ボールがこれから進む軌道が
灰色の筒のようにボールの前に延びているのが見えたのです。

例えば、相手チームのサーバーが打ったサーブが、自分のチームのコートの
どのあたりに、どういう軌道を描いて落ちるのかが、ボールがサーバーの手を
放れた瞬間に、灰色の軌道となって「見えた」のです。ボールは、その灰色の
軌道を外れることなく進み、軌道の終わりにいるチームメイトにぶつかって
次の軌道に進みます。練習中だけでなく、試合中もずっと見えていました。
また、屋内コートより屋外のオープンコートのほうがよく見えました。テレビ
中継の試合でも見えることがたまにありますが、やはり自分がコート内にいる
時が最もよく見えました。バレーボール以外では、サッカー、バスケットの
ボールの軌道がよく見えることも
ありました。ピンポン球のように小さくて往復するスピードの早いものだと、
軌道が入り交じってしまってよく見えませんでした。
試合中は、ボールの軌道が見えていても自分自身の身体がついていかないもの
ですから、何度も悔しい思いをしたものでした。

「そんなの聞いたことないですねぇ……」
それは誰にでも見える当たり前の現象なのだとずっと信じていたので、鈴成
くん同様、私もこれまで特に気にも止めていませんでした。
「こうなると、僕ら一種の超能力者みたいな感じがしますよね」
「えー、でも他人の考えが聞こえるんだったら何かの役に立ちそうだけど、
ボールの軌道が見えたって、何の得もないですよ。身体はなまりまくってる
から、中学生の頃以上にボールについていけないし……」

案外と、本人も気付かない特殊能力というものはありふれたものなのかもしれ
ません。ですが、それらの特殊能力が何かの役に立つとは限らないようです。


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