HOW THEY CAME THE "東京中低域"

 

 

 

私、水谷紹が初めてバリトンサックスを見たのは1992年、劇団「時々自動」に客演した際のこと。その3年後、たまたま立ち寄った質屋で吹けもしないバリトンサックスを衝動買いしたことからこの東京中低域は始まります。やがて、その「吹けもしない」状態のまま、自分の演奏会に楽器を抱えて出るようになりました。当時サポートをしてくれていたベーシストの渡辺等氏はこの試みを快く受け入れてくれて「チェロとバリトンサックス」という「美女と野獣」というか「中尾彬夫妻」のような演奏形態がここに誕生しました。名前こそ無かったものの、これが『東京中低域』の原形であったと言って異論は無いでしょう。 そして月日が流れ、サックス・プレイヤーの矢口博康氏が渡辺等氏に代わって私のサポートをしてくれておりました。舞台の進行の中で「バリトンサックスとバリトンサックス」という編成の楽曲が次第に多くなり、互いに口には出さずもその独特な世界に徐々に没入して行くようになりました。98年夏の終わり頃だったと記憶しています。矢口氏と伊豆赤沢の海に遊びに行く途中、彼が「今度ス○パラの○×くん呼んで、バリトンばっかでやってみない?」と言い出しました。「いいですねえ、じゃあ○ィポグラフィカの×○くんも呼んでカルテットでやってみましょう」と私も話に乗りました。結局その二人からは参加を断られ、宙に浮いたまま更に2年の月日が流れました。

 2000年1月15日、吉祥寺マンダラに『渋さ知らず』を見に行った夜、急展開が始まりました。十数年前『風煉ダンス』という劇団を見に行ったりしていた頃から、その音楽を担当している『渋さ』の演奏会を一度聞いてみたいと思っていました。そしてその日、そこでバリトンサックスを吹いていたノッポが吉田隆一氏でした。人を介して彼に「バリサク集団構想」を伝えてもらったところ、彼はその月の末の私の演奏会に現れ、終演後挨拶を交わすや否や「やりましょう」ということになりました。数週間後、水谷・矢口・吉田の3人は楽器を持ってスタジオに集まり、『東京中低域』が産声をあげた、というわけです。その後

は堰をきったように…デートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデンの後関好宏、アーヴァンサックスに参加したりオリジナルラブ等のサポートをしている松本健一、スカパラのメンバーとバンド活動を展開する田中邦和、謎々商会の最終メンバーである鬼頭哲、メトロファルスや栗コーダーカルテットで活躍する川口義之、数々のスタジオセッションをこなす小田島亨、異色のキャリアをもつ上幸一郎、そして現役東京芸術大学生の鈴木広志が立て続けに参加、11人に膨れ上がりエレベーターは勿論、舞台にも全員一度に入りきらないほどの大所帯になりました。

 ところで『東京中低域』という名前はどこからやってきたのか?2000年1月29日にその発足を宣言した段階では『東京中低域会』でした。その前は『東京中低音域会』だったと思います。おおまかな命名は私に任されていたのですが、チラシやロゴの図案を考えていたところ『中』という文字が中心に来た方が座りが良い、というのが実のところ一番直接的な決定要因でした。そのあと付けで「我々は会ではなく域である」「決して集合したわけではなく、我々の散在する時間や空間こそが域なのだ」と主張するようになりました。この『域』という考え方は美術家粟野ユミト氏の『閾』(シキ)という作品のコンセプトに影響を受けている面もありましょう。

 そして英語表記『TOKYO MID/LOW FREQUENCY BAND LIMITS』もネイティブ・スピーカーに確認を求めたところ「リミッツは要らない」との事でしたが、私の「我々はバンドではない、域なのだ」という強い主張で、英語圏では有限会社と間違われる危険を冒して『BAND LIMITS』としてしまいました。この『BAND』は「帯」という意味で使用しており、決して楽隊の「隊」ではありません。『BANDLIMITS』で「帯域」のつもりで使っています。「隊」をこれほど拒絶したのは、ただ私がバンド活動が大嫌いだったからです。些細なこと(?)ですが、名前をそうするだけで私の気分が違いますから。

[2000年7月12日・東京中低域代表・水谷紹](デビューライヴの挨拶文より)

 

 

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