クラシックの聴き方
◆初級編:曲のかたち・構成を把握する(曲を聴く)

クラシック初心者の頃は、耳に残る断片的なフレーズ(サビ?)しか分からず、長い曲を全体通して聴けない。誰でもそうだと思う。最初は気楽に“ながら聴き”で聴き流して気になるメロディをつまみ食いする程度でもそれなりに楽しめるが、それだけではもったいない。集中して鑑賞すればそれだけ深く楽しめるというもの。

例えば「運命」の場合、何度も出て来る「ジャジャジャジャーン」が次々と変化・発展していく様子を、ストーリーを追うようなつもりで聴く。このフレーズも「ジャジャジャジャーン」の仲間なのか、このフレーズは違うかな、とか、集中して聴いていけば退屈しないはず。
第1楽章は、主題提示部→展開部→再現部からなるソナタ形式。「ジャジャジャジャーン」が第1主題、後で出て来る穏やかな旋律が第2主題。性格の異なる二つの主題が対立したり絡まり合ったりしながら展開していく。
第2楽章は変奏曲形式。一定のメロディに装飾が付いたりしながら様々に変化していく。
第3楽章では第1楽章で活躍した「ジャジャジャジャーン」が行進曲風に変形して再登場。低音部がせわしなく動き回る中間部を挟んだ三部形式。そこから切れ目なく第4楽章(ソナタ形式)に繋がっていき、高らかに勝利を宣言するように盛り上がっていく。

ある程度の“慣れ”も必要だが、ライナーノートに書かれている曲解説を参考にしながら集中して聴き取ることで曲全体の構成(流れ)が見え、曲のかたち(骨格)をつかめれば理解が深まり、ますますクラシックが面白く聴けるようになること間違いなし。


◆上級編:指揮者による違いを味わう(演奏を聴く)

クラシックでは、同じ楽譜を元にしていても演奏する人によって違いが出て来る。ポビュラー音楽では歌手・演奏者による違いがはっきり出るが、クラシックの場合は非常に微妙だ。声楽や楽器のソロの場合は歌手・演奏者の特徴が比較的わかりやすいものの、同じ曲を同じオーケストラで演奏しても指揮者によって、フレーズの歌わせ方、テンポとその揺らし方、楽器間のバランス・音量強弱、音色など、それぞれ微妙に違ってくる。その違いを楽しむのがクラシック通。(註:ここでは、熱気・迫真性があるとか、上手下手といった技術的な面は別として、管弦楽作品における“解釈”の違いについて取り上げる)

<例1>「ツァラトゥストラはかく語りき」冒頭部分
(1) ベーム/ベルリン・フィル(ターターター・タラー)
(2) ライナー/シカゴ響(ターターター・タッラー)
フレーズのタメというか音の切れ方がかなり違って聞こえる。
<例2>「ハンガリー狂詩曲第2番」冒頭部分
(1) 演奏者不明
(2) ストコフスキー指揮
ストコフスキーは、楽譜の勝手な改変、テンポの極端な揺れ、ステレオ音響の実験など派手な仕掛けが得意だったから、他の指揮者との違いがわかりやすいし聴いてて楽しい。

とは言うものの、ぼくは普段いちいち違いを気にせず聴いている。名演といわれるものを各種聴いてみてもそんなに違いが分からない、というのが正直なところ。とても上級者とは言えない。例えば「運命」を聴き比べても、全く正反対と言われるフルトヴェングラーとトスカニーニって、そんなに違うか?と。よく聴けば微妙に違うというのは頭ではわかっていても、受ける印象はそう変わらず、「だからどうした」「そんなに大したことか」と思ってしまう。


◆超上級編:微妙なニュアンスから意味を読み取る?(評論を読む)

演奏家による違いを聴き分けるヒントを学ぼうとして雑誌や書籍を紐解くと、作曲者や曲そのものの解説なら鑑賞する上で役に立つのだが、演奏について書かれた文章はあまりにも抽象的で、具体的にどこがどうだからそう言えるのか意味不明なことが多い。内面・精神性がどうとか、カラヤンは表面的だからダメとかいう(あちらを立ててこちらを落とす)文章に出くわす。

<例文1>「クラシックCDの名盤 演奏家篇」(文春新書)より
(ストコフスキーは)決して精神的に深いというタイプではなく、あくまで音楽の内容よりは華麗で官能的な外面的効果を最優先したのである。(宇野功芳)
わかったようでわからない。「内容」って何? 音楽って「外面的効果」を聴くものじゃないの? ストコフスキーを贔屓にしているぼくとしては反感を持ってしまう。この本は選盤の役には立つかもしれないが、演奏者に対する毀誉褒貶が激しいし、鼻持ちならないエリート意識(経験自慢・感性自慢)が端々から感じられ、読んでて不快になる。世の中のクラシック・マニア(いわゆるクラヲタ)の性格の悪さを象徴しているかのようだ。
<例文2>「レコード芸術 2003年3月号」より
(バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルのシューベルト「未完成」について)当時シューベルトが陥っていたコンプレックスに的確にふれ、フロイト流の心理分析で、これまで見過ごされていたこの曲の核心を抉出している。(喜多尾道冬)
はあ? 音だけ聴いてそんなことまでわかるの? あんた超能力者か? 実際この演奏を聴いたけど、ぼくにはそんなことさっぱり伝ってこなかった。まるでオカルトの世界。ついていけない…

細かいニュアンスが違うと言っても結局は同じ曲ではないか。そんな大して違わない微妙なニュアンスの部分に込められた指揮者の意図(文学的・哲学的・心理学的な意味合い?)を読み取れるものなのか? それで演奏の善し悪しが決められるのか?

「ツァラトゥストラ」の例では、(1) が刷り込まれていたためか、ぼくにとっては (2) に違和感があった。だからと言って、(1) の方が (2) より優れた演奏であるとは言い切れないし、そこに込められた意図など知るよしもない。最初に聴いた演奏が基本として刷り込まれて、ただ自分にしっくりこないものを良くない演奏と思い込むってこともあるのではないか。
「ハンガリー狂詩曲」の例では、(1) が標準的な演奏だとして、異様な (2) は駄演なのか? ぼくには (2) の方が面白いんだが。結局は好みの問題ではないのか。

評論を読んだ上でその演奏を聴いても書いてあることを実感できない、ニュアンスに込められた意味が読み取れない自分はクラシックの聴き方がなってないのではないか、感性が欠如しているのではないかと悩んだりした。


◆結論:聴き方に決まりはない(気楽に聴く)

でも、普通に音楽を楽しむのなら、そんなに難しく考えることもないと開き直ろう。ただ無心にその演奏に浸る、音響の複雑な絡まり具合を愛でる、オーディオ的快感を求める快楽的聴き方(外面的?)でいいじゃないか。逆に、演奏から音質まで様々な面で違って当たり前、そんなそれぞれの微妙なニュアンス(枝葉末節)より、曲そのもの(作曲者の意図した本質部分)を感じる、演奏を聴くというより曲を聴く、現世に姿を現す表層を通してその向こう側にあるイデアを追い求める、というプラトン的な聴き方(内面的?)もあっていい。音楽の聴き方なんてそれぞれ自由であり、正解なんてないのだ。

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