ストーカー 狼に誘われた羊の話




羊は柵に囲われて、その中に暮らしている。なぜ自分がそこにいるのか知らない。自分がここにいたいと決めたわけでもない。 柵を越えようとしたら、羊飼いのこん棒で殴られる。善悪に対する自分の区別もなく、誰からも教えられることもなく、ただそこに閉じ込められているだけ。一体何が柵の外と内を分かっているのか、全く目に見えてこない。柵の外にも、柵の内にも、外と内を分かっているその「決まり」と同じもの、つまり同じように2つに分かたれているものを一切見出すことはない。


世界にひとつだけの柵。他の生き物は、あるものは同じ柵の中の地を這い、柵の隙間を抜けていったり、抜けてきたりする。あるものは柵の外にいて柵の隙間からその顔を半分のぞかせて中を覗き込んだりする。あるものはヒラヒラと風の中を舞って柵の中の草の上にとまったりし、またあるものは遥か大空から羽を広げて漂い、その影を柵の中の草むらの上に落としたりする。自分の内といえる世界は、柵があって動き回ることが制限されているが、他の生き物たちにとっては、柵とは自分の外にしかない、自分の外にあるもののひとつでしかない。どうやらそういうものらしいと思えるのであった。


ある日、柵の外から狼がやって来て、柵の外に出てこないかと誘われた。羊は、柵の外に出てみたかった。しかし、一度でも柵の外に出てしまったら、自分はその時々の行く先で今いる「ここ」を一体誰が自分のいる場所、いても許される場所として、決めてくれるのかと不安になった。言ったら行ったきりで、糸の切れた凧のように、風に飛ばされどこまでもどこまでも流されていくことが、予感された。もしそうなってしまったら、自分はどうやって一つの場所にとどまっていられるのだろう。どうやって自分の居場所が自分に与えられて、その中に落ち着くことができるというのだろう。羊は、この狼は、自分にはそんな目に合うことしかないのが分かっていないのかと思った。それなのに外の世界に連れ出そうなんて、「無責任」過ぎる。この狼は「わるい」生き物なんだ。自分が一番恐れている「危険」の中に連れて行ってしまおうとしている、「わるい」生き物なんだ。


羊は狼の声を無視した。そして、狼はその日は諦めて帰ったが、その日からくる日も来る日も狼は柵の外からやって来て、柵の隙間から半分顔をのぞかせて、羊に初めての時と同じ言葉を繰り返し、柵の外に一緒に行こうと誘うのだった。羊はノイローゼ気味になった。ときどき狼が外の世界から柵の外にしか見たことの無い、珍しい、おいしそうな草の束を投げ込んでくることがあった。もしそれを受け入れて食べてしまったら、自分の中で外の世界への誘惑は膨れ上がって、自分の手に負えなくなってしまうだろうことがすぐわかって、その草の束を警戒し、そのそばにも近寄ろうとしなかった。


そうしたある日、羊飼いが柵の入り口を開けて中に入ろうとしたその一瞬の隙をついて狼ははやてのように飛び込んできて、いつになっても返事をしない、贈り物を受け取ってもくれない羊に業を煮やして半ばやけになってかみついた。羊飼いは慌ててこん棒で狼を殴打するわ、これでもかというほどに殴りつけて、狼を柵の外に追い出した。羊は体にはっきりした牙の痕を受け、そこのところの毛皮が失われてしまった。羊飼いは、いい毛皮が一つとれなくなったことで激怒し、羊は自分の美しい毛皮が損なわれてしまったことを思い、悲しみ、狼を激しく恨んだ。そして、あの狼がこの柵の外に今でも生きている限り、この自分は依然と同じ暮らしはもう二度とできない、一生この傷を背負っていくんだ、もう元には戻れないんだ、と嘆き訴えた。


その誰に言うでもない独り言の訴えをいつも風に運ばれるままに聴いていた芋虫がある日羊に言った。

「君は、何をそんなに嘆いているの。失ったものは、もう返らないんだよ。」

「芋虫さんもそんな風に言うのね。だって、私は何も悪くない。一方的に誘惑され、付きまとわれ、一方的に傷つけられ、一生また同じ目にあわされるのではないかと、嫌きっと今度は殺されるかもしれないそういう恐怖の中で生きている。あなたにこの私の痛みがわかるというの?」

「もちろん、僕は傷を受けたんじゃないから、その痛みは分からないのは君の言う通りだ。でもなんで君は傷を受ける前に狼にはっきり言ってやらなかったんだい。狼に諦めさせて帰らせておけば、狼はいなくなって、君が傷を受けることもなかったかもしれない。傷を受けた後で、それから狼がいなくなっても、傷は残るじゃない。順序が逆じゃないかい?」

「面白いことを言うわね。そうよ、あいつは私に一生消えない傷を負わせたのよ。あいつがこれからいなくなっても、消えることの無い傷を。私はあいつが許せない。あいつはきっと同じことをまた繰り返すわ。私や、私以外の誰かに。そんなチャンスがあいつに許されている限り、私は、この事件のことを忘れることができないわ。あいつは、『わるい』生き物なのよ。もし次のチャンスを与えたりしたら、今度はきっと私を殺すに違いないわ。そうなったら一体だれが責任を取ってくれるの?」

「君は狼がいなくなれば、少しは幸せになれるというんだね。もし、はじめから狼と出会うことがなければ、君は幸せだった?」

「ええ、幸せだったに違いないわよ!・・・・少なくとも、今のような私じゃなかったわ。そうよ。幸せだったわよ。すべてあの狼に人生が狂わされてしまったのよ。」

「狼は君に何をしたんだろうか。」

「私から私のすべてを奪ったの!分からないの?」

「いや、君が傷を受ける前のことさ。狼は、君に何をしようとしたの?」

「私を柵の外へ出て行くように誘ったわ。」

「それはしたくなかったんだね。」

「したくないというか、だってそれは危険なことですから。」

「何が危険なの」

「それは・・・この柵の中が私の居場所なの。その外に出ようとしたら人間にこん棒で打たれるわ。実際、打たれたことがあるわ。とっても怖かったのよ。あなたに分かる?」

「柵の外に出て、人間のいないところへ行けば、もう打たれることも怖いこともなくなるんじゃないのかい?」

「それは…、人間が打たなくても、狼が私を傷つけるわ。」

「狼は君を傷つけるために、外の世界からやってきたの?そう言ったの?」

「そうは言ってないわ。でも現に狼は私を傷つけたじゃない!一生消えることの無い傷を!」

「それじゃあ、少なくとも、初めの時点で狼は君を傷つけるつもりはなかったんじゃない?」

「それは分からないわ。私は狼じゃないもの!」

「なら、狼が君を傷つけようとしているかも、分からないんじゃない?きみはどうやってそれが分かったの?さっき、きっと次は私を殺しに来ると言ったよね。それもどうやって分かったの?」

「分からないけど、きっとそうするに違いないって私には分かるのよ!それが狼の考えることなの。『わるい』生き物がすることなの!」

「君の言っていることは矛盾してるね。分からないけど分かるなんて。で、君は狼に誘われたとき、何と返事したんだい。」

「返事は・・・しなかったわ。怖くて、自分の身を守るのに精いっぱいだった・・・。」

「狼が君を傷つけるから?」

「・・・」

「・・・君は狼と行きたくなかったんだね?」

「ええ、そうよ。なんであんな奴と一緒に私が行きたいって言うの?まっぴらごめんよ。それに、外の世界は怖い所なのよ。やっぱり囲いは必要なのよ!」

「行ったことはある?」

「ないわよ。柵の中にいるのに、どうして外の世界に行けるというの?」

「行ってみたくはなかった?」

「柵を越えようとしたら、人間にこん棒で打たれるって、さっき言ったじゃない。人の話を聞いてなかったのね!」

「人間のことを聞いているんじゃない。君は、行ってみたくはなかったの、って聞いているんだよ」

「そりゃ、行ってみたいわよ!何で私ばかり、こんな小さな狭い柵の内側に囲われて、そこに大人しくとどまっていなければならないの?あなたたち芋虫や、蝶や兎や鷹たちは、みんな外の世界を知っているわ。私はいつも他の生き物たちが自由に生きているのをやっと見ているだけだったわ。私もいつ皮、広い外の世界の中へ出て行きたいと思った。それの何がいけないの?それがここで暮らしている私の、ただ一つの夢だったのよ!その夢を、私を傷つけてもう表も歩けない姿にして、あいつが、狼が、すべてを奪っていってしまったのよ。だから、許せないのよ!」

「狼は君を外の世界へ誘ってくれたんだったら、夢を助けてくれようとしたことにならないかい?」

「そんな馬鹿な、私から夢を奪った張本人が、私を助けるだなんて!あなたの方こそよっぽど矛盾してるわ!」

「矛盾はしてないよ。君が外に出たいんだったら、外に誘ってくれれば、それは君を助けることになるじゃない。」

「でもあいつは違うじゃない!私を傷つけたのよ。誰かを傷つけるような『わるい』生き物なのよ。」

「むしろ君が外に出るのを認めなかったという意味では、人間の方がよっぽど『わるい』生き物だと思うけど。」

「話をごまかさないで。それにそもそも人間に勝てるとでもいうの!?あのこん棒を操る力を知らないの?私たち羊に勝ち目なんてはじめからないのよ。あなたは人間に相手にもされてないから、分からないでしょうけど!」

「いや、ぼくらだって畑の葉っぱで食事をとるのに、いつも人間に『駆除』されたり、そうゆう奴らもいるよ。で、人間が強いとしても、もし勝てたら、君は幸せだった?」

「ええ、もし勝てたら、自由になって幸せだし、逆に今度は私が人間にされたように、人間を囲ってやるわ。それが強いものの特権でしょう?みんなきっとそうするわ。」

「そしたら、人間は以前の君と同じように幸せではなくなるよね。そこへ囲いの外から狼がやって来て、一方的に傷つけられて、一方的に狼を恨むんだ。」

「何が言いたいの?」

「まずは事実の部分を言って、その後で僕の思いを言おう。君はもう元に戻せない傷を負ったから、そうなるようにした相手のしたことは悪いことだと訴えているけど、もう二度と元に戻せないからこそ、それを自分の一部、体だけでなく、その命の歴史の一部として、それとひとつに、それを自分から区別せず、切り離さず、切り捨てず、生きていかなくちゃならない。傷を負っても、ひとかどの仕事を残した人たちは、みんな例外なくそれをやった人だ。君はそれをやっていない。」

「・・・」

「僕が思うことを率直に言えば、僕の知ってる神さまは、生き物を囲ったりしない。そして、何がしていいことで、何がしちゃいけない『わるい』ことか、ちゃんと教えてくれる。だから、神さまの話を聞いてちゃんと理解していれば、これはいいことだ、これはいいことではないことだって、一つ一つに対して自分で言える。昔人間は神様が食べちゃいけないっていう木の実を食べたそうだけど、その木の周りに柵の囲いなんてなかった。もし柵の中が『わるいもの』で、柵に囲まれているだけでそう自動的に決まるんだったら、柵の中の木にとまっているカラスは、『わるいもの』なんだろうか。その柵の外に飛び立って出たら、そのカラスはもう『わるくないもの』なんだろうか。何より、そもそもその柵の中にずっとある木は、『わるいもの』なんだろうか。 くだらないよね。こういう話の持って行き方。大事なのは神さまは食べちゃいけない果実の木に、柵なんかしてなくて、ただ事前にちゃんといけないって教えてくれていると言うことだ。柵がなくても、自分の側で、その話を思い出して、これはしてもいい、これはしてはいけない、と自分がどうするか決められるように、必要なものはすべて与えられているということだ。柵の中にいて、君は、自分がどうするか、決められただろうか。もし決められないんだとしたら、柵がなくなっても、柵の外に出たとしても、自分がどうするか、やっぱり決められないんじゃないだろうか。自分より強い生き物である人間が決めてくれるのを待ったり、はたまた狼が君の前に現れないことを自分で決めてくれるのを待ったり、相手が君にとって正しいことを、君の夢を叶えてくれるように、決めてくれなかったら恨んだり、恐れたり、間違ったことを決めてくれるようなその相手がいなくなってくれるように要求したり、全部、自分の責任を人に追わせ、人の負うているはずの責任を自分が代わりに行使しようとし、全くあべこべになっていないかい?『自分のことは自分で決めるんだ』と人に決めてもらう前に、‘自分が自分から自分の立場、目標で、神さまの言葉を思い出しながら、自分のことを決めよう’としたことが、一度でもあったのかな?」

「・・・」

「君が一番恐れていたものは、自分が一番どうしたいか、それを知ってしまうと、だれも責任を取ってくれなくなること、もう子供扱いしてくれなくなること、自分の決めたとおりの『夢』つまり他人を受け付けない囲いの中の自分だけ存在が許されているという『夢』をもう誰も君に生きさせてくれないこと、他人が存在していることに、注意を払わなくてはいけなくなること、そこで改めて自分の理想が問われること、その時の準備が何ひとつなされないままに、‘大人になるとき’を迎えてしまった、そういう生き方をしてきたこと、それを許した周囲のものたち、その一切から逃げていたかった、そういう自分の‘甘え’、弱さ、のために生じていたものだったんじゃないのかな」


羊は何も言葉にできませんでした。何かを言おうとしても、言葉にできませんでした。今の感じを言葉にする方法を、誰からも教わったことがありませんでした。でも、その方法は確かにあって、今できないのはまだ自分が気付いてないだけなんだと言うこと、遠くに輝いている星が、一瞬の慰めではなくちゃんとそこに合って、求めればいつかは誰もがそこに着けるんだという、夢にしか見たことの無いような、力強い希望をデジャヴのように覚えたのでした。

芋虫はそんな羊を、風にさやさや揺れる葉っぱの上から、そっと見守り続けていました。


この物語は、問題提起ではありません。問題に対する答えです。もう問いが出ているからそれに応えて、問いを返す、つまり問いに対して問いを立て直して、どうなるというのでしょうか。この物語が問いに思えたとしたら、あなたもこの物語の中の「羊」に過ぎません。

2017年3月5日



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