『インドの暝想ヴァイオリン/D.K.ダタール』

演奏楽器について

 

弓で弦を擦る楽器は世界中に広く分布していますが、元来、ペルシアのケマンチェがその祖と言われています。ケマンチェはヨーロッパへ伝わり、ヴィオール、レベックなどの中世フィーデルを経て、今日のようにヴァイオリンになりました。現在では、古典音楽や現代音楽にかかわらず最も重要な楽器になっています。
 アジアの擦弦楽器は、インドのサーランギ、エスラージ、ディルルバ、中国の二胡、胡弓、モンゴルの馬頭琴、インドネシアのルバーブなどなどいたるところで演奏されています。
 さて、インドでは、古典音楽や宗教音楽、民俗音楽の主要伴奏楽器としてサーランギが用いられてきましたが、イギリス植民地時代にもたらされたヴァイオリンも次第に重要な楽器としての地位をもってきました。最近では、南北インドとも主奏楽器として認められつつありますが、演奏者はそれほど多くはありません。 
 インド音楽には、独特のポルタメント奏法(音をスライドさせる方法)があり、この奏法が可能であれば楽器を選ばない特質があります。ヴァイオリンは、フレットがないためこのような奏法には適していたために比較的古い時代に使用されたようです。
 わたしたちはヴァイオリンというとほとんど西洋音楽で聴き親しんでいるわけですが、今回の演奏会で、同じ楽器がインドではまったく異なった雰囲気をもっていることを発見するに違いありません。また、演奏者であるパンディト・ダタール氏の深い音楽性と表現力によって伝えられる、国や民族を越えた普遍的な音楽メッセージは、楽器の面白さもあいまって興味の尽きないものになるでしょう。

演奏曲について

インド古典音楽は、ラーガと呼ばれる旋法に基づいて即興的に演奏される。インドの音楽は、和音(ハーモニー)による楽曲展開を基礎とする西洋音楽と異なり、ある特定の音階型の制約の中で、いかに変化に富んだ旋律を創造するか、を目指した音楽である。その多様な旋律創造の基礎となるものがラーガだ。何百とあるラーガには、それぞれ固有の音階、主要音、アクセント、特徴的な旋律単位、演奏すべき時間帯、季節、要求される感情表現などがある。


1 ラーガ・ビハーグ

「もはや戻ってこれないことを知らずに、恋する青年を待ち続ける乙女がいる。こんな彼女の深刻で切ない想い、感情をもっているのがビハーグだ」。あるシタール奏者の言葉である。このラーガのもつ感情は、静かな夜に抱く悲しみ、歓喜への渇き。
 ビハーグの音階は、基音をCとすれば、

上行 C E F G B C
   Sa Ga Ma Pa Ni Sa

下行 C B A G F# G E F E D C
   Sa Ni DhaPa ma Pa Ga Ma Ga Ri Sa

 このラーガは、バトカンデによる10タート分類のなかのビラーワルタートに属する。演奏時間は深夜。 

2 バイラヴィ・ドゥン

 バイラヴィは、朝のラーガ。早朝の清新さを表す。北インド古典音楽では最もポピュラーなラーガで、民謡などもによく使われている。夜を徹して行なわれるインドの演奏会では、最後の曲として、明け方によく演奏される。ドゥーンは、民謡などのメロディーを基本とした一つの演奏形式。リズムサイクルは、12拍子のエクタール。

演奏者プロフィール

【パンデット D.K.ダタール】

 今日のインド音楽界の中では有数のヴァイオリン奏者。インド音楽史に偉大な足跡を残したなパンディット.V.D.パルスカールの忠実な伝承者として自他ともに認めている。また彼は、V.D.パルスカールの末子で声楽家として名高かった故D.V.パルスカールの甥にあたる。
 ヴァイオリンをパンデット・ヴィグネーシュワル・シャストリに師事し、後に故D.V.パルスカールから音楽的ガイダンスを受けた。彼の演奏は、ガヤキ(声楽的)スタイルで、独特の表現力には評価が高い。彼の独特なボーイング(弓)テクニックは、声楽的旋律の自然な流れの明瞭さを表現するのによくマッチしている。伝統的なラーガの卓越した表現者として、またトゥムリ、ドゥン、舞踊音楽などの準古典的なスタイルの演奏者としてもよく知られている。
 主奏者としては、国家レベルの音楽プログラムを始め、テレビ、ラジオ出演、インド国内の主要な演奏会で演奏している他、ヨーロッパ、ネパール、シンガポールなどでも公演している。また、故パンディット・D.V.パルスカールの伴奏者として多数の公演を経験している。公演活動の他に、インド各地の音楽大学の試験官や、映画音楽の監督としても活躍している。
 レコードはこれまで、リズム・ハウス(インド国内レーベル)とマグナ・サウンドからカセットテープで数種発売されている。ボンベイ在住。


新聞、雑誌の評の一部

・・・安らかでしなやかな旋律の動きと、まるで精神安定剤のようなスムーズな音色は、この悲しみの夜のラーガの深い心理的表情を、美しく表現している。 -サンデー・ステーツマン
・・・それは、素晴らしい演奏であった。洗練されたヴァイオリン芸術は、旋律やラーガの色をあますところなく現出して見せる。よく練られた、適切な表現、そして楽器の芸術的な特性は、この芸術家の豊な感受性と何ものかを伝達するパワーの存在を実証してみせた。  -サンデイ・ステーツマン
・・・気鋭ヴァイオリニスト、D.K.ダータールは、日曜日にサイオンで行なわれた演奏会で実に素晴らしい演奏を提供してくれた。彼は、ヴァイオリンを、ゆるぎない自信をもって演奏し、ヴァイオリンの演奏でよくありがちなギー音をまったく出さず、流れるようにスムーズであった。彼のスタイルは、正統音楽の創造者であったD.V.パルスカールの流れをみせてくれる。 -タイムズ・オブ・インディア


【ラグベンドラ・クルカルニ】

 ラグベンドラ(1964年生れ)は、著名なバーンスリー(竹の横笛)奏者、パンディット・マルハール・クルカリニの長男である。4歳から父にタブラーを習う。また、父に師事するかたわら、パンディット・バイ・ガイトンデに演奏技術の訓練を受けた。インド政府のタブラー部門給費奨学生となり、インド各地のタブラーコンクールではさまざまな賞を受け、新進タブラー奏者として注目を集めた。彼は、通常は父や弟、ルーパク(現在最も注目されているバーンスリー奏者)の伴奏者として活動している。これまで、インド各地はもとより、ドイツ、フランス、スイスに公演旅行をしている。
 職業的タブラー奏者として活躍しているが、公認会計士の資格ももち、その方面の仕事にも従事している。ボンベイ在住。

OD-NETレーベルについて

 OD-NETは、オリエンタル・ディスク・ネットワークの略で、非西洋の音楽を中心にレコード制作出版を目的として1990年に設立されました。
 今日の日本の音楽状況は、クラシック(古典)と言うと即、西洋古典音楽を指すように、相変らず西洋音楽偏重であると言えます。巷に溢れる情報誌でも、インド古典音楽などのいわゆる民族音楽は、「ポピュラー」のジャンルに一括して押込まれています。我々の足元である日本やアジアのパフォーミングアーツが、普遍的な音楽表現や芸術表現の一つとして、未だに広く認知されていないことの証左です。
 OD-NETは、非西洋の優れた音楽を広く人々に紹介することで、こうした状況に対してささやかな抵抗としたいと考えています。
 また神戸は、中国人、朝鮮人、インド人などのアジアの人々が混在して住んでいると言う意味で、日本の都市の中でも独特の香りをもっています。ところが、国際都市神戸と自称しているものの、音楽文化に限定してみると、こうした都市の独自性が反映していないばかりか、アジアの音楽を、未だに「変ったもの」「珍しいもの」としてしか捉えられていないのが現状です。国際交流が、異なる国々の人々との、経済的のみならず文化的な交流を示すものであるならば、神戸は決して「アジアに開かれた国際都市」とは言い難い。OD-NETが、非西洋音楽のレコードをこの神戸から出版しようと考えたのは、こうした現状に変化を与えたかったからです。
 同時に、レコード制作を含む「音楽産業」は、圧倒的に東京を中心としている。交通通信手段がこれだけ高度に発達している今日、音楽文化が東京に集中することの必然性はなくなりつつあります。こうしたことも、神戸発CDを制作しようとした動機です。今後、ゆっくりとレコード製作を続けていくつもりですので、皆様の暖かいご支援をお願いします。

(中川博志/天楽企画ディレクター)

録音について

 

このレコードは、ヘッド・レコーディング・システムを使い録音されています。この録音で使用されたマイクは、人体頭部模型の両耳の部分に埋め込まれています。ちょうど、演奏者の正面に座ってライブ演奏を聴いているような効果を出すために、このシステムを使用しています。インド古典音楽は、元来、室内音楽です。宮廷や寺院のような、よく反響する小空間で演奏されていた音の質を再現しよう、というのがそのねらいです。


Recorded on September 23,1991 at XEBEC FOYER,KOBE PORTISLAND,JAPAN
Producer/Hisao TENDO
Director/Hiroshi NAKAGAWA
Engineers/Kohji MII + Nobuhisa SHIMODA
Mastered and manufactured by OD-NET,Inc.
Fuyo Bldg.,7th floor,2-3-11,Yahata-Dori,Chuo-Ku,KOBE 650,JAPAN
Copyright is reserved by OD-NET,Inc.