宗教

宗教がヒトを救えるとは思っていない。

論理性の根拠は、根は何なのか?絶対的な神の力による奇跡−が根拠になっているなら、もう、初めから非論理的なわけだから。まず、信じることが先にあるわけだから。


個人の幻想においては、どんなに非論理的なことでも限りなく自由であってよいが、それを他者に伝達し啓蒙するに至っては、共同的な幻想と化し、本来の姿にとどまらず、論理的矛盾が必ず表出する。三大宗教であれ、その初期においてはまさしく荒唐無稽な神がかりであり、凡百の新興宗教と同次元である。たまたま三大宗教は、時世の価値観と共存し偶然の積み重ねで今日まできている。

神とは?−そこまで書いて、頭の中ではすでに擬人化していることに気づく。神とは、その人間にとって(生きていく上での心のよりどころとして)幻想を築くための方便にすぎない。


唐代絹絵「道を導く菩薩」釈迦の涅槃の境地。観念としては確かに理想と思う。

しかし宗教のダメなところは、そのまま哲学としておけばよいものを、神(仏)として祭り上げてしまった−こと。

シッダールタ(仏陀の出家前の名 )は哲人のひとりで良いではないか。

人は右視たら左、左視たら上、上視たら下、下視たら後ろ……気がつけば極私的な自己本位の路があった、生き様があった−ように思える。されど真に気づかない、気づけない、でも気づけたら。そんな自己を信じたい祈りのようなモノ−これは宗教とは言えないかもしれないが、《論理性のない思いこみ》という意味で、まさに宗教(的)なシンネンです。

近くにあるようで遠くにある『般若心経』の教え

大乗仏教の代表的な教典である『般若心経』を、やさしく解説した本があった。

世間を捨て自由人になれ、欲望と世間の奴隷になるな、頑張るな、....ここらへんはまぁまぁ理解できる。
病にかかっても治すこともせずになるがままにまかせよ、とにかく執着するな、頑張るな、という。

それにしても色即是空の“空”の概念はかなり抽象的でわかりにくい。
この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は因縁(≒運命)の作った仮の相であり実体がない、という。いわゆる“空虚”の意味に近いようであるが同じではなさそうだ。

最初からとにもかくにも“空”ありきなのだ。“空”ありきというのもおかしな言い回しだが、以下、現代語で書かれたものから抜粋すると−

観自在菩薩は肉体も精神も全て空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服した。つまり存在と精神が空であるから生じたり滅したりせず、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしない。彼は、分別も無ければ悟りにさえもこだわらない。心にこだわりが無いから恐怖も妄想もない。徹底して平安である。


さて、僕もある程度は俗社会、あるいは競争原理に基づいた社会通念に、ある程度距離をおく自覚を持ちながら生きているつもりだが、だからといって己の内に湧き起こる感情を超越し“無駄”なモノから離れることが出来るかと問われれば・・・出来ない。

時に禁欲し、また時に諦観をもって物事に対処することはおおよそ誰にでもあること。しかし、生涯を通してそのようにつらぬくことは無理なハナシだな。

大乗仏教の場合は小乗のようにハードな訓練をつむ、いわゆるエキスパートを目指さなくてもよく、自らの中にコツコツと哲理を見いだせればそれでよい、ということだが。

本を読んだ結論は? よーし!音楽への“こだわり”をやめよう!!!とは思わなかった。(笑)しかし、死への恐怖心を少しは軽減出来たな。
人それぞれがそれぞれの立場で、きわめて都合よく仏の教えを解釈すればよいのでは?

絶対的な信仰心など持たずに。今を正直に生きる、なるがままに。人間、死後にはなにもなく死んだら死にきりだから。

僕は後世になにかを残そうという発想が全く無いのだ。なかなか信じてもらえないが、全く…である。
どうせ死んでしまえば、生きている間に仏教に関心があろうが無かろうが、好む好まざるに関係なく、自動的に(般若心経いうところの)【こだわりの無い恐怖も妄想もない徹底して平安な状態】におかれるわけだから。


中国とチベットでは国家間の政争と仏教宗派の覇権争いが密接に絡み合っている。醜い。またチベットの転生活仏は、菩薩の化身が切れ目無く次から次ぎへと現れ指導者になるという、まるで漫画の世界。
(生まれながらに天皇になる運命の某国の皇太子にも同情するが、いきなり生き仏にされる少年もかわいそうだ) 
それは宗派の覇権を拡大したいがための、つまり最終的には物質文明の恩恵に限りなくあずかりたいがための方便なのだろう。きっとお釈迦様は涅槃でココロを痛めている。いや解脱しているからココロは痛めないか…。

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