三島由紀夫の「潮騒」

家の中を捜してみたら、15年前くらいにNHKで放映された昭和29年(つまり原作が出版された年)の映画「潮騒」が消さずに残っていた。たぶん何気なく録画して一回も見ずにいたわけで、小躍りして早速そのビデオを観た。

結論から先にいうと、観る以前に読んでいた三島の原作小説のほうが想像をかき立てられて良かった。しかし本質的なことは別にして、モノクロで画質の悪い昭和29年のリアルタイムの映像は、好奇心を十分に満たした。

歌島の人々の様子、景色、また様々なディティールは、映画的にアレンジされているとはいえ、三島が小説を世に出したその年の作品なのだから、当然、作者の意向は反映されているはずだ。
だからかどうかは定かでないが、初めて知る初江役の青山京子という女優さんのイメージが、写真で見たことのある若い頃の三島夫人・瑤子さんの面影にだぶった。

昭和29年といえば…主人公・新治の弟が映画館の椅子を「まるで天皇サマの椅子のようだ」と言っていたり、観的哨跡の描写があったり、人々にとって戦争の記憶がまだ昨日のことのように感じられていた時期ではあるが、(それと同時に)日本が高度経済成長期に突入する“前夜”でもあるわけだ。
また、恋敵の安夫や千代子の都会に接した経験による屈折感は、作者・三島本人の陰の部分が反映されていると思えるし、逆に新治の−教養を美徳としない、実直な人物像−は、当時の三島本人のコンプレックスに裏打ちされた切実な憧憬であるといえる。(新潮日本文学アルバムにある、きゃしゃな肉体でみこしを担がせてもらっているうれしそうな三島の姿は、哀れだ)

仮に、あの時代に伊勢湾の平和な島で育ったのであれば、おそらくその保守的な風土になんの疑いも持たず、初江のような可愛い娘が近くにいたなら、仕事に精を出しいっしょに暮らしたいと思うだろうし、教養は無くとも実直な人生を歩もうとするはずだ。
とはいえ、小説の最後で、海岸で愛し合う二人が頬を触れあって見たものは、歌島の生活とは気が遠くなるほど距離がある、大資本からなる西洋の巨船だった。それは、未知の資本主義的価値観を、教養を必要とする世界観を暗示しているはず。現実として、数年後に日本は高度経済成長期に本格的に突入し、歌島は過疎化していったであろう。

三島は商業的成功のために、「潮騒」という純愛小説を書いたのかもしれない。ここには、専売特許である“死”や“エロス”や“背徳”はない。しかし、日本という国が加速度的に変貌する姿を微かににじませ、古くからの伝統美が儚く散っていくことへの切ない想いが裏に秘められているような気がする。

さて、物語のその後を想像すれば・・・・新治は一等航海士として成功した後、世界を旅しながらなにを思ったか。
歌島を、二度と戻らぬ故郷と自覚するのか。それとも、挫折して島に戻り、酒を酌み交わし揉み手を打ちながら舟唄を歌うのだろうか…。

2001/6


追記
「潮騒」は何度も映画化されていますね。ちなみに、昭和29年の映画「潮騒」の音楽は若き黛敏郎。主演の青山京子は小林旭現夫人。

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