♪ ある決心

1992年の秋、YAMAHAの “テープコンテスト” に応募した

今から
20年程前、 “ポプコン” ってのがあった、それと “イーストウエスト” ご存知の方はいるだろうか?
所謂、アマチュアミュージシャンのプロへの登竜門、自分で曲を書き、歌い、演奏するミュージシャン
作曲家が書いた曲を歌うシンガーではなく、自作自演、バンド、、、
サザンや、ツイスト、、幾人かの素人が、プロへの夢を掴んでいた

時代は変わり、ポプコンはテプコンになった
音楽の形態も、シンセや
PCを使い、独りで部屋で作れるスタイルが発祥した
楽器メーカは販促のため、そんな人種相手にコンテストを企画したのだ

それは、
2度目の参加だった
1度目の曲は入選せず、原宿の何とかってホールに発表を見にいった
確かその日優勝したのは、今アクセスの浅倉大介
どうやら、当時から
YAMAHAと関係があり、小室哲哉についていたらしい

2度目の参加曲は “待ちくたびれて偶然”
就職後、姫路にひとりでいた半年の間に書いた曲、約10年前に創ったものだ
曲がいいか、スキか、それは個人の好みによるところが大きい
100万枚売れるヒット曲は、そのプロデュースの方法で生まれるっていってら言い過ぎだろうか?

音や録音技術、アレンジ能力がどう評価されるか知りたかった
その曲に対する評価じゃなく、自分が創るオケのクオリティーが
今、アマチュアの中でどのレベルにあるか知りたかった

負け惜しみだが、ボクの曲や歌い方は、お世辞にも万人受けするとは言い難い
しかも、時代遅れのフォーク調だ、いや正確には遅れた時代に書いた曲が多い
けど、そんな曲調が好きなのだ、勿論自分の曲がダイスキだ

誰かに聴かせたり、販売目的で創ってるわけじゃないからいいのだ、自分のために、創ってる曲だから
沢山の人が何となくいいって感じる歌じゃなく、たった独りでも好きになってくれれば、それでいいのだ
けど、選んだ曲は当時流行ってたハウスビート、バリバリの打ち込みドラムにシンセベース
シーケンスのフレーズを多用した、売れ線ダンス系のキャッチィーなアレンジだった

結果はナント、関東地区予選通過
1500曲の中から、全国大会にエントリーする曲に選ばれた
数日後、プロのコメントのついた用紙と結果が送られてきた、惜しくも入賞はなりませんでした、、、
けど、想像もしなかった、すばらしい結果、誰かに言いたい誇らしい結果
しかも、そのコメントは意に反してこうだった…
「歌い方が個性的でいい、オケを整理して、そのヴォーカルを前に出したほうがいい」
予想もしなかった、嬉しい結果
全く逆の、嬉しい結果
信じられない、奇跡の結果…。

そんな頃、
4回目の転職がボクを待っていた
札幌からボクを追い出し、この街に連れ戻した会社との別れ
5年、最も永く勤めることができた会社
決して仕事内容は好きとは言えないけど、今までで、最も悪くはなく、収入も安定してきた会社
しかし、理由も時期もボクの中では運命的でよかったと思ってる

理由、きっかけはみっつある
その会社では、
34歳になったボクの10年後、20年後の姿が想像できなかたし
またまた、自分のいいところ、何らかの才能を発揮できるステージもなかった
長男が小学校に上がり、土日の休みに家族で何処かへ出かけたり
父と体を使って遊ぶ経験をする、大切な時期に差し掛かっていた
そして、そんな時間を持つ事の重要性が、人生において、会社に束縛されるより必要だと確信していた

何故なら、ボクの父が、幼い頃からボクにそうしてくれたから
そんな事を、一生忘れないから
あの楽しさを、自分の子供にも教えたいから
会社でボクの変わりは誰でもできるけど、父の変わりは、誰にもできないから
そうする事が、間違いではないと信じているから、、、

そうして
34回目の誕生日が来たあの夏、、、
ボクは、ヒゲを剃るのを止め、曲を書き、会社を変わる決心をした
その
10日後、我が家にはおんなの子がやってきた

♪〜季節の変わる寂しいときに、キミはやってきた
   何かに迷っていたボクの、心を解き放つように〜
   
NATSUMI NATSUMI 夢の中からキミは
   
NATSUMI NATSUMI やさしさ連れてきた〜♪

    
1993年制作、“夏未”より、、、つづく ^_^


                                     2003.4.22    

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