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52nd street014-17
a

akiko012-14
4歳よりクラシック・ピアノを習い始め、絶対音感を身につける。8歳から英会話を習い始め、中学・高校と短期留学し英語を学ぶ。18歳より、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドなどを聴き、ジャズに開眼。大学在学中より、都内のライブハウスやジャズ・クラブでヴォーカル活動を始める。2001年、ユニバーサル ジャズと契約。6月アルバム『ガール・トーク』でヴァーヴ・レーベルよりデビュー。スイングジャーナル 誌選定<ゴールドディスク>に選ばれ、また、オリコンのジャズ・チャートにて1位を獲得。12月には、『ガール・トーク』が2001年のスイングジャーナル誌主催ジャズ・ディスク大賞<ニュー・スター賞>を受賞。


monty alexander quintet(011-04, 013-15, 013-24
1944年生まれ、ジャマイカ出身。10代にしてオスカー・ピーターソンに後継者と指名されリーダーとしてデビュー。以来、強烈なテクニックと圧倒的な表現力を駆使し、ストレイトアヘッド・ジャズでも、レゲエでも、常にダイナミックな技量と底抜けの明るさで聴く者を魅了する。最高に華のあるピアニスト。


lorez alexandria011-17
1929年8月14日生まれ。ジャズボーカリスト。65年ダウン・ビート誌批評家投票で新人歌手部門一位。2001年5月22日、肝臓病により合併症を併発。ロスアンゼルスの病院で死去。享年71歳。


alive!005-01
ブラジリアン・ジャズを代表する女性グループ。


anarchic system005-20

vicki anderson004-08
james brownファミリーの歌姫の一人。


charly antolini006-16
1937年、スイス・チューリヒ生まれのドラマー。すぐに思い出すのはヤンシー・キョロシーの代表作『アイデンティフィケーション』のハードなドラミング。しかし,実のところ彼は南独放送ダンス・オーケストラやクルト・エデルマンのビッグ・バンドを始め欧州の楽団を渡り歩いた経歴が長い。1980年からわずか3年とはいえ,あのベニー・グッドマン五重奏団にも在籍した経歴の持ち主である。


georges arvanitas009-04
フランス人ピアニスト。


isabelle aubret002-15
フレンチシンガー。bossa, brazilをフレンチに取り入れ、独特の世界を作る。


roy ayers005-07, 010-09
1940年9月10日、ロサンゼルス生まれ。 6歳の時に見たライオネル・ハンプトンのコンサートで、ハンプトンがお礼を言いに客席に降りてきた時、視線の先に興奮した姿で彼を一心に見つめる小さな男の子を見つける。 その時、ハンプトンがその小さな男の子(ロイ)にその後の彼の人生に置いて宝物となるものを渡した・・・木槌のセットだった。 その後、両親は彼が学校での勉強に熱心である事を確認すると共に、その合間を見つけてはピアノレッスンを与え始めた。その内に、彼は大きくなったらプロのミュージシャンになる事を決めるようになる。 ロスの公立学校で音楽を学び、17歳までに教会でコーラスをしたり、ピアノを弾いたり、スチールギターを学んだりした。そして、遂に待ちに待ったバイブのセットを両親が購入してくれたのである。 その後、バイブプレイヤーであるボビー・ハッチャーソンと出会い、定期的にお互いが発案したノートを比べあって高めあって行く。 1958年にはハーモニーを学ぶ為にジェファーソン高校へ行き、そこで始めてのバンドを組む。 更に2年後、音楽のセオリーを学ぶ為、ロサンゼルスシティー大学へ転入する。 21歳になった1961年には、早くも「プロ・ミュージシャン」として技術も知識も手に入れたミュージシャンとなり、その後の音楽活動の可能性が大きく広がる。 1964年にファースト・アルバム「ウェスト・コースト・ヴァイヴス」をリリースして以来、次々と著名なアーティストとの共演を果たし名声を得る。 1971年には彼自身のバンド“ubiquity”を結成し、ファンクやr&bのスタイルをジャズにミックスしたジャズファンク人気の確立にも貢献。 ロイ・エアーズの人気は地元ロサンゼルスで絶大で、1986年には当時の市長、ブラッドリーが4月6日を「ロイ・エアーズ・デイ」と制定したほど。 1993年に来日し、クラブシーンで一躍注目を集めたレア・グルーブの第一人者が世紀をまたいで遂に来日する。


b

salome de bahia008-10
フランスの女性ヴォーカリスト。


judy bailey quartet(009-11
オーストラリアの女流ジャズ・ピアニスト。


cyro baptista003-09
バリのゴングからシンフォニック・バス・ドラムまで何でも叩くブラジルのパーカッション奏者。


joanne barry011-10
スキャットが美しいジャズ/ボッサ/ソウルのクロスオーバーサウンド。夫でギタリストのCARL BARRYとの夫婦デュオも有名。


tommy bass003-01
irma la douceより、カクテル・ラウンジ系新人。ヒップ・ホップとラウンジ音楽をミックスしたスタイル。


grupo batuque014-09


joan bibiloni005-25
スペイン産ブラジリアン・フュージョン。


walter bishop jr.'s 4th cycle014-15


black & brown004-20, 012-10
イタリア・ボローニャの2人組ジャズ・ファンク・グループ。irma molto jazz の中心的存在。


black market audio007-21
オランダのナゾの2人組ユニット。


black mighty wax005-05
1960年2月12日ボローニャに生まれる。 cesare 'black mighty wax' ceraとして知られる。 irma recordsのレーベル・マネージャー、プロデューサー、コンパイラー。 現在は息子のdiegoと私の妹のdonataとボローニャに住んでいる。ガールフレンドのelisaに会いにしょっちゅうロンドンに行っているらしい。


art blakey014-23


monsieur blumenberg004-01
カクテル・ラウンジのdj&プロデュ−サ−、montefiori cocktailの1人、federico montefioriのプロジェクト。おしゃれな60'sサウンドトラック的なサウンドをベースにして、 ボサ・ノヴァ、bigbeat、チルアウトなどを取り入れたトラックによる、ダンスフロア−のエッセンスであふれる。


richard boone007-19
1966年からカウント・ベイシーオーケストラでトロンボーンを吹いていた渋いキャリアの持ち主のボーカリスト。


bossa free013-23


bossa nostra001-13, 008-17
irma recordsの看板バンド。イタリアン・アシッド・ジャズといえばボサ・ノストラと言われるほど。irmaのブラジリアンサウンド を形づける事になる。


lorraine bowen002-06
ロンドンのシンガー・ソング・ライターで、fpmの"there must be an angel"のヴォーカリストとしても 有名。


brasilian boys009-01

bruentla009-26

donald byrd014-16
c

mello cads012-16
デヴィッド・ポナックがホストバンド。90年代後半からl.a.のラウンジ/ソフト・ポップシーンで活躍。


terry callier011-11
1941年、アメリカ・イリノイ州シカゴ生まれ。3歳で母親からピアノの手ほどきを受けるなど恵まれた音楽環境に囲まれ、9歳になる頃にはクラシックの基本を習得。すぐに作曲にも目覚め、高校ではジャズやポピュラー音楽に傾倒し、ボーカル・グループで演奏した。大学に入り本格的にギターを始めてシカゴのクラブで歌ううち、音楽に熱を上げるあまり大学を中退。フォーク・ブームが始まった'60年代初頭、そこにジャズやブルースのテイストを通い合わせる斬新な試みを続けた。64年になるとその成果が実り、デビュー。シンガー・ソング・ライターとして活動する一方、作曲者としてシカゴのレコード・レーベルと契約。'70年代に入ると、ボーカル・グループのために書いた作品をヒットさせるなどして新路を開いた。80年代は音楽界を引退し、コンピューター・プログラマーとしてシカゴ大学に勤務するなどの転身を強いられてもいる。しかし、'90年にマイナー・レーベルから出したシングルが英国で支持されることで再評価、再認識の気運が高まり、'93年から第一線に復帰。


debbie cameron007-19

bruno canfora009-23

carleen and the groovers003-17
69年、ジェームス・ブラウンのタイトなファンクに影響を受けて結成したファンクバンド。「jazzman」レーベルより。


carpenters008-24
アメリカ、コネティカット州ニュー・ヘイヴンで1946年10月15日に生まれたリチャードと1950年3月2日に生まれたカレンの兄妹デュオ。 音楽好きな両親のもと、兄リチャードは9歳からピアノのレッスンをスタートした。一家は1963年にカリフォルニア州ダウニーに移り住んだ。64年リチャード、カリフォルニア州立大学ロング・ビーチ校音楽専攻入学しコーラス部に加入。同年カレン、ドラムを始める。65年カレン、独立系レコード会社「マジック・ランプ」と契約。リチャード(pf)、大学の級友ウェス・ジェイコブス(b)、カレン(dr)の3人でリチャード・カーペンター・トリオ結成。66年リチャード・カーペンター・トリオ、ハリウッド・ボウルの「バトル・オブ・ザ・バンド」(コンテスト)に参加し最高点で優勝。同年カレン、マジック・ランプよりソロ・デビュー。「バトル・オブ・ザ・バンド」を見にきていたrcaのa&rニーリー・ブラムに認められ契約したが重役会でデモ・テープを酷評され契約解除。同年リチャード、長年のソング・ライティング・パートナーとなるジョン・ベティスと出会う。67年学友のダニー・ウッダムズ、ゲイリー・シムズ、リチャード、カレン、ジョンで「サマーチャイムズ」結成。その後レスリー・ジョンストンが加わり「スペクトラム」と改名。「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」等に出演。デモ・テープを作成しレコード会社をまわったが一社も受け入れてくれず「スペクトラム」は68年に解散、リチャードとカレンは二人で活動していくことを決意。69年デモ・テープがa&mレコードの創設者ハーブ・アルパートの耳に止まり11月に「涙の乗車券」でシングル・デビュー。全米no.1を記録したのは「遥かなる影」「トップ・オブ・ワールド」「プリーズ・ミスター・ポストマン」の3曲。70年代前半を怒涛の如く走りぬけた二入だったが70年代中盤以降トップ10ヒットに恵まれなくなった。カレンも体調を崩しがちになっていたがこの頃はまだ誰も「拒食症」に犯されているとは気づいていなかった。その後異変に気づいた家族の薦めで治療を始め80年には結婚し回復に向かっているかに見えたカレンだったが、83年2月4日ダウニーの自宅で心臓発作で倒れ帰らぬ人となった。32歳という若さだった。


daniela casa009-03

juca chaves012-08

the chordettes002-07
タレントスカウトのオーディション番組で優勝して、同番組のレギュラーを続けていたが、この番組のオーケストラ指揮者であるアーチー・ブライヤーがケイデンスレコードを設立することとなり、同レーベルの専属アーティストとして契約。その後、アーチーはメンバーのジャネット・アーテルとも結婚。 1955年に出したデビュー曲「true love goes on and on」は売れなかったが、「mr. sandman」が見事1位を記録。その後もヒットを続け63年に解散。


ciabatta & paletta003-08

cipo & his authentic rhythm group(014-21

maccaroni circus feat. marco orea malia'010-04

claude ciari and batucada seven(006-22
フランス生まれ、日本在住の アコースティック・ギタリスト。


sonny clark013-25

claudia005-19

nicola conte014-12

cool drive makers010-24, 014-08
アメリカ留学中にボーカルのネモ、ベースのヤマが知り合い、バンド結成を決意。 1996年キーボードのダイスケ、ドラムのユウシが加わり、 cool drive makersを結成、1998年にメジャーデビュー。 現在は、makersを取り、cool driveとして活躍中。
copa 7013-08

chick corea007-01
1941年6月12日、マサチューセッツ州チェルシーの生まれ。ジャズ・トランペット奏者の父親のもと、6歳からピアノのレッスンを開始。ドラムスやマリンバもプレイした。1960年代初頭からプロ活動を始めると、モンゴ・サンタマリアやハービー・マンらのバンドで演奏。'67年にスタン・ゲッツ・グループに参加することで頭角を現した。'68年からマイルス・デイビス・グループに加わる一方で、ピアノ・トリオによる傑作『ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブズ』を録音。'72年に旗揚げした“リターン・トゥ・フォーエバー(rtf)”の活動にも力を注ぎ、'75年のアルバム『ノー・ミステリー』でグラミー賞を初受賞。rtf解散後は、ハービー・ハンコックやゲイリー・バートンとのデュオ・ツアーのほか、キース・ジャレットとも共演。'85年末には若手メンバーを従え、“エレクトリック・バンド”を結成してrtfの音楽コンセプトを深化させ、グループを母体にしたアコースティック・トリオでは、スタンダード曲に新風を吹き込み高い評価に包まれた。以来'90年代も、ピアノ・ソロによる初のスタンダード集『星影のステラ』、スペシャル・プロ ジェクトで巨星を偲んだ『バド・パウエルの追想』、ゲイリー・バートンとのデュエットによる『ネイティブ・センス』などの力作を続々とリリース。


cortex007-22, 010-05, 010-16
フランスのバンド。1974年 alain mion が結成。翌1975年、"troupeau bleu"でアルバム・デビュー。alain は19歳でパリの blue note club でデビューした経験を持つ辣腕のジャズ・ミュージシャンだった。以降、1978年までに3枚のアルバムと数枚のシングルをリリース。同時にライブ活動もヨーロッパを中心にかなりの数をこなした。cortex は1980年初頭に解散したが、alain は2001年の現在まで現役のミュージシャン、アレンジャー、コンポーザーとして活躍。スイスやモロッコなど世界各国のジャズ・フェスティヴァルに自身のバンドを率いて参加している。


dave "baby" cortez008-18

vladimir cosma002-12
フランスの映画音楽家。アントワーヌ・デュアメル(気狂いピエロ、ウィークエンドなど)や、クロード・ボリンらと並び、フランス映画音楽に新風を吹き込んだ作曲家ウラジミール・コスマ。フランス喜劇界の名監督イヴ・ロベール監督のぐうたらバンザイ(1967年)をきっかけにコメディー作品で素晴らしいスコアを描き、以後コメディのみならず、あらゆるジャンルの作品をこなす多彩なサウンド・メイカーとして、本国フランスは勿論、世界的に高い評価を受けているアーティスト。ライブラリー音源として、数々の作品が残されている。


julee cruise007-04
ノルウェー出身。映画「ツイン・ピークス」オリジナルサウンドトラックのボーカリストで有名。


frank cunimondo trio009-15
アメリカはピッツバーグを中心に70年代、 ジャズ・クラブやホテルのラウンジで活躍していたピアノ・トリオ。


d

lennie dale and sambalanco trio006-03

bruno battisti d'amario006-13
イタリア出身のギタリスト。
dancer's inferno006-25

blossom dearie002-08, 005-12
1924年、オハイオ州・シンシナシティ出身。ウッディ・ハーマン楽団、アルヴィノ・レイ楽団のコーラスグループからキャリアスタート。 1948年 バディ・スチュワートと組んでいたバップ・コーラス・グループの初吹込み。 その後、ブルー・スターズ(コーラスグループ。クリスチャンヌ・ルグランらと結成)での活躍を経て 1956年 グランツのもとでヴァーブ初吹込み。 1973年 音楽出版会社を設立 現在nyで活躍中。"wispy, little-girlish" voiceの持ち主。


dee dee bridgewater010-23, 011-06
16歳で活動を開始、72〜74年にサド・ジョーンズ=メル・ルイス・オーケストラで活躍するが、ジャズ・ヴォーカリストには冬の時代(フュージョン最盛)が訪れ、シーンを離れていた時期もあった。しかし、その逆境を芸のコヤシにすべく、ブラック・コンテンポラリー・アルバムのリリースや、ブロードウェイ・ミュージカルへの出演(74年の『ザ・ウィズ』ではトニー賞受賞)などを重ね、一般ピープルにも訴えかけるエンターテインメント性に磨きをかける。そして86年の『ライヴ・イン・パリ』で、グレード・アップしてジャズに復帰した。 90年代に入り、サラ・ヴォーン/エラ・フィッツジェラルド/カーメン・マクレエという三大女性ヴォーカリストが次々と他界する中、目を見張る活躍でその穴を埋めてきたディー・ディー。97年のエラ追悼アルバム『ディア・エラ』ではグラミー賞も受賞した。


dee felice trio003-20
ジェームス・ブラウンのバックバンドだったというdee felice trio。. 太くてカッコいいベースと、アグレッシブに弾くピアノがとても印象的なピアノトリオによるソウルジャズ&ブラジル&ファンク的な音をつくる。


deep sensation007-09
paul hunterという人の別名義。ジャンル的にはディープハウスの人。


elaine delmar009-22
西インド諸島系のイギリス人ジャズシンガー。


dimenzio004-02
ハンガリーの男性4人組。ジャズ/ブラジリアンフュージョン。


klaus doldinger 011-05
1936年5月12日、ドイツ・ベルリン生まれ。サックス奏者。70年代以降は映画音楽家としても知られている。元々はオーソドックスなジャズを演奏していたが、74年に自身のバンド=パスポートを率いて来日した時はフュージョン奏者に変身。


joao donato006-18
1934年、ブラジル中西部、アマゾン川上流域のアクレ州生まれ。少年時代にリオに移り音楽活動を続け、ボサノバが創生の兆しを見せる前から革新的な方法を推進。ジョアン・ジルベルトなど優れた仲間の知遇を得ながらも、先進的過ぎたスタイルが理解されず、エルゼッチ・カルドーゾとのメキシコ公演を機に'59年に渡米。'70年代はじめに帰国するまで、カル・ジェイダー、モンゴ・サンタマリア、ティト・プエンテなどジャズやラテン系のミュージャンと共演を続けた。作曲家として演奏家として、今も最重要人物のひとりなのにボサノバの文脈に張り付かないのは、ブームの渦中をアメリカで過ごしたため。しかし、母国に帰り'73年に作た『ケン・エ・ケン(紳士録)』(東芝emi)で歌も唄うと、作曲家としての評価も確立。インストゥルメンタルとして書かれた作品に歌詞が付けられ、ガル・コスタ、カエターノ・ベローゾ、ジルベルト・ジルなど多くの人気歌手がカバーしていくことになる。さらに、同胞の後輩エウミール・デオダートと組んだ『ドナート/デオダード』(ソニー・ミュージックエンタテインメント)をはじめとする冒険的な作品でも、異才を輝かせて見せた。日本で改めてその名が響いたのは、ドナートのソングブックと呼べる小野リサの'94年作品『サウダージ』(bmgファンハウス)で。ピアニストとしてもレコーディングに客演し、素朴な言葉の奥に深い世界を創るプレイで、サウダージの醍醐味に迫った。ジョイスとの共演最新作は『トゥド・ボニート』(インパートメ ント)。


doopees002-09
日本が誇るポップの奇人ヤン富田が作った謎のプロジェクト。ボーカルはキャロライン・ノヴァク(当時15歳)。


johnny dorelli002-14
イタリア生まれのボーカリスト。


kenny dorham007-10
ケニー・ドーハム(tp)1924年8月30日テキサス州フェアフィールド生まれ。 1948年〜1950年はチャーリー・パーカーのグループに参加。50年代前半はフリーで活動。55年ジャズ・メッセンジャーズの創立メンバーとして参加。56年からjrモントローズとジャズ・プロフェッツというグループを結成。短期間で活動は終止符を打つ。次にマックス・ローチのグループに58年まで参加。ついでジャッキー・マクリーンと組んで活動する。60年代はブルーノートにアルバムを吹き込む。テナーのジョー・ヘンダーソンを登用。彼のブルーノートデビューに力を貸す。その後はフリーで活動。1972年12月5日nyで死去。


doris011-07


george duke005-06
キーボード奏者。 1946年1月12日カリフォルニア州サンラファエル生まれ。 キャノンボール・アダレイのグループ加入後、2年後の1973年に独立。 代表作に「reach for it」、「don’t let go」 等。


e

the easy access orchestra002-03
イタリアirmaよりandrew(vo.sax,flute)とralph(vo.,key,trumpet)によるデュオ。生音たっぷり+軽い打ち込みによるサントラ仕立てのオシャレラeンジポップ。彼らのメロディアスで、軽くてさしいサウンドは、ukのtv、映画音楽界より注目されている。


ray ellington013-05

emphasis008-16

bernard estardy010-06
通称「baron」。オルガンを含むキーボード奏者。nino ferrerの相棒として活躍。


f

georgie fame012-12


lorraine feather004-07, 010-02
有名なジャズの作詞家レナード・フェザーを父に持つ。フル・スウィングのメンバーとして知られる。ソロでの活動期間もあり。ソウルとジャズを交えたオシャレなアダルト・ポップ。


victor feldman003-12
1934年、ロンドン生まれ。6歳でドラマーとなり、7歳でプロフェッショナルになり、9歳でピアノを、14歳でビブラフォンを習得したという信じられない経歴の持ち主。イギリスでは神童ドラマーとして知られていた。1955年、21歳の時アメリカに上陸。 ウッディー・ハーマンのバンドに参加したり、一時期イギリスに帰ったりの後、1957年にl.a.に住みつきコンテンポラリーで数々のセッションワークをこなすようになる。そして名門クラブ“ライトハウス”のレギュラーになり、そのすぐ後にスコット・ラファロとスタン・レヴィーと出会ってトリオ結成。彼ほどの器用でマルチなタレントはどのセッションでも引っ張りだこだったと想えますが、彼の経歴の中で一番重要だと想えるのは、意外にもイギリス時代ブリッティッシュ・モダン・ジャズ・シーンのリーダー的存在だったテナー奏者ロニー・スコットのバンドに参加していたことでしょう。 1970年から80年にかけてはアメリカを代表する“ファースト・コール”スタジオ・ミュージシャンとして、スティーリ・ダンを始め数々のレコーディングで大活躍する。しかし残念なことに1987年、53歳という音楽家としてはますます円熟味が増すだろうという歳で他界する。


jose feliciano005-14
1945年、プエルト・リコ生まれ,ny育ちの盲目の天才シンガー/ギタリスト。子供の頃から傑出した才能を見せており、19歳でのデビューの前から地元の音楽シーンでは活躍していた。64年のデビュー作リリース後、スペイン語のアルバムを数枚はさみ、その後ドアーズの"light my fire"のカヴァーでスターとしての地位を築く。 耳触りのいいヴォーカルとギター・プレイでロック/ポップス〜ラテン・ジャズを演奏し、グラミー賞を幾度も受賞している。 80年代からは目立った活動は減っていきリリース間隔も伸びているが、最近、スティーヴィー・ワンダーのカヴァー"golden lady"(74年録音)がクラブ・シーンで再評価され、再び注目を集めた。


nino ferrer009-13, 012-05

gianni ferrio008-09, 014-18


fertile ground008-06
メンバーは、james collins(musical director, key),navasha daya boxley(vo),fred dunn(tp),craig alston(sax),marcus asante(ds),mamadi nyasuma(per)の6人。アメリカメリーランド州ボルティモア出身。1997年グループ結成。ジャズ、ブルース、ファンクなどを基盤に、アフロ・キューバンやラテンなどを加えた音楽を創作する。デビュー間もない1998年に「最優秀r&bバンド賞を獲得。」リード・シンガーのナバシャ・ダーヤは、「ビリー・ホリデイ・ボーカル・コンペティション」の優勝者。
ella fitzgerald005-13, 011-14
1918年4月25日、ヴァージニア州 ニューポート・ニューズの生まれ。chick webb 楽団の専属歌手として,1938年に録音した 《a tisket, a tasket》 が大ヒット。1948年には,jatp に参加。  sarah vaughn,carmen mcrae らとともに,ジャズ・ボーカルの第一人者として君臨していたが,1996年6月15日,カリフォルニアのビバリーヒルズで死去。


flabby feat. carla boni010-25

tennessee ernie ford013-17

connie francis011-03
1936年米国ニュージャージー州生まれ。55年レコード・デビュー。ラテン、カントリー、映画音楽、スタンダードなどの多彩なレパートリーと、独・伊・日・スペイン語など英語以外でも歌い国際的な人気を集めた女性ポップ歌手。58年〜60年代半ばに、センチメンタルでハスキーな歌声がファンを魅了。


g

wolf gabbe007-08
ドイツ出身。


france gall006-05, 006-06, 006-09
本名、イザベル(isabelle)。1947年10月9日、パリのポルト・ドレの近くで生まれる。


gemini cinco anos depois008-13

danyel gerard006-20
フレンチ・シンガーソングライターdanyel gerard。サイケデリックfunk「sexologie」によりヨーロッパのdjの間で特権的な地位を与えられた。


astrud gilberto011-16
1940年5月30日、ブラジルのバイーア州サルバトーレ生まれ。ジョアン・ジルベルトと結婚後、米国でスタン・ゲッツとジョアンの共演作『ゲッツ/ジルベルト』でレコード・デビュー。この作品はベストセラーを記録、ジャズ&ボサ・ノヴァの傑作として知られている。シングル・カットされたアストラッドの歌う「イパネマの娘」も世界的に大ヒット。その後もボサ・ノヴァ・アルバムを次々に発表して「ボサ・ノヴァの女王」と呼ばれた。


gimmicks010-18
スウェーデンのセルジオメンデスと呼ばれるギミックス。 男女混声の美しいスキャットが特徴。


g.love and special sauce007-11
1972年フィラデルフィア生まれ。本名:garrett dutton。ボブ・ディランやニール・ヤング、ジョー・ハモンド・ジュニアの影響を強く受け 、同時に、run dmc、ビースティー・ボーイズ、そして同じフィラデルフィア出身の schooly d.等々オールド・スクール・ヒップホップにもはまっていた。92年ジェフリー・クレメンツ(ds)、ジミー・スコット(b)と共にg.love & special sauceを結成。往年の名門ブルース・レーベル“okehレーベル”が再スタートするにあたり、その第1号アーティストとして契約。デビュー・アルバムを1994年5月にリリース。


nico gomez 007-07, 007-20
ベルギー出身。70年代のヨーロピアンジャズの代表的存在。


後藤敏昭011-23
1970年12月8日、神奈川県生まれ。ドラム、パーカッション奏者。深沼元昭(vo&g。1969年1月31日、福島県生まれ)と共に1990年に2人組みユニット「plagues」を結成。副業として、”tosswi"という服のブランドのオーナー兼デザイナーとしてもビジネスを展開中。franc francとhmv、音楽レーベルphilter inc.の共同プロデュースによりスタートしたspace program(spg)シリーズでも活躍。


rachel gould 010-11

marrina granovskaja009-07
ロシア出身。


joanne grauer004-07, 010-02, 012-21
女性ジャズキーボーディスト


the grren future008-25

grupa abc007-13
ジャジーでリズムの強調されたパーカッショングルーヴを作り出す、ポーランド・コーラスグループ。


h

herbie hancock010-01, 010-07
1940年4月12日イリノイ州シカゴ生まれのピアニスト。7歳でピアノを始め、11歳でシカゴ交響楽団と共演して神童ぶりを発揮。60年にドナルド・バードとペッパー・アダムスのコンボに参加し初のレコーディングを果たす。63年からマイルス・デイヴィスのコンボに5年間在籍し、マイルスの活動に大きな役割を果たす。70年代に入ってフレディ・ハバード、トニー・ウィリアムス、ロン・カーター、ウェイン・ショーターらとv.s.o.p.を結成し大きな成功と評価を得る。現在はオーソドックスな演奏からコンピューターを駆使したサウンドまで、ジャズ・シーンのリーダー的存在として幅広く活動を続けている。


har-you percussion group008-07
n.y.ハーレムの若者15人によるラテン・ファンク・バンド。


jon hendricks010-03
1921年9月16日オハイオ州ニューアーク生まれ。52年にニューヨークで作詞家として活動を開始。ルイ・ジョーダンが歌った「恋人になっておくれ」で注目される。その後ウディ・ハーマン楽団の「フォー・ブラザーズ」のボーカリーズ・バージョンで人気を集め、85年にランバート,ヘンドリックス&ベバン(ロス)を結成。カウント・ベイシー楽団との共演などで絶賛される。70年代後半にマンハッタン・トランスファーのためにボーカリーズを提供する。これ以降マンハッタン・トランスファーの育ての親として、またヴォーカルのエディー・ジェファーソンなどが開拓したボーカリーズ手法をジャズ・ボーカル界で確立した。ヴォーカル界の重要人物として注目され続けて、現在に至っている。


michele hendrics009-24

woody herman004-14
1913年5月16日ウィスコンシン州ミルウォーキーに生まれる。33年に自身のバンドの運営に失敗しアイシャムジョーンズ楽団に参加。36年同楽団を解散後、その主要メンバーを集めて自身のバンドを結成。その後バンドにチャビー・ジャクソンらが加わり、ファースト・ハードが形成され全盛時代を築いた。47〜49年はフォア・ブラザーズ・バンドを結成しスタン・ゲッツ、ズート・シムズらを迎えて大きな注目と評価を得る。50年代末にはスインギン・ハードを率いて活躍し76年にバンド結成40周年記念コンサートを開き、以後コンテンポラリーな要素も取り入れて好評を得た。1987年10月29日心臓病のため、ロサンゼルス郊外ハリウッドのジタス・サイナイ病院で死去。


gillian hills011-22
1946年6月5日にエジプト・カイロ生まれ。両親は英国人。59年に映画女優としてデビュー。歌手としては翌年の60年最初のシングルをリリース。63年あたりから作詞・作曲も手がけるようになる。france gallそっくりのフレンチポップシンガーだが、実はギャルよりデビューは早い。


日野皓正012-09
1942年10月25日生まれ。ジャズトランペッター。9歳の頃からトランペットを習い始め、13歳の頃には米軍キャンプのダンスバンドで活動を始める。1964年、白木秀雄クインテットに参加し、1965年ベルリンジャズフェスティバルに出演し喝采を浴びる。1989年、ジャズの名門レーベル“ブルーノート”と日本人初の契約アーティストとなる。現在大阪音楽大学客員教授として後進の指導にもあたっている。


louis hjulmand 007-06
デンマーク出身。


karl berger-dave holland -ed blackwell karl berger-dave holland -ed blackwell013-20

honey-comb004-06

i

i gres002-25

inner vision008-01
1999年カリフォルニア州立大学フラトン校にて二人のアメリカ人と二人のベトナム人によって結成。ギターカルテットとして活動を行う。その後メンバーチェンジを繰り返し、現在はgina bandy(vo), dat nguyen(g), chris payne(b), mehrdad saatara(g)and adam reesman(dr)の5人で「bayadera」とバンド名を変え西海岸を中心に活躍中。dat nguyenは盲目ギタリスト。


italian secret service003-07, 010-20
サックス、フルート、クラリネット奏者のdario cecchiniとkeyboard、rhodes奏者のleonardo pieriの二人組。


j

brian jackson002-02

milt jackson008-28
1923年1月1日ミシガン州デトロイト生まれ。バイブラフォンをジャズのフォーマットで活用した開祖的存在。ブルージーなスウィング・フィーリングあふれる演奏スタイルで、ジャズ・バイブの代表格となった。1945年からニューヨークで活動を始め、ディジー・ガレスピー楽団に所属する1951年に、ジョン・ルイスらとmjqの母胎となるカルテットを結成。1955年から本格的な活動を始めた。


jongo trio005-16
ピアノ、ベース、ドラム、そしてそれぞれがボーカル〜コーラスもとるブラジルのジャズ・ボッサ・トリオ。

 


jasmin004-19
幼少時代よりホームタウンのphiladelphiaでgospelシンガー/ピアニストとして育った彼女は、80年代後半temple大学作曲家在籍中よりギタリストのphilippe pettitのヨーロッパツアーに参加し速くもその頭角を現し、92年にはbest jazz vocalショウ(jazz philadelphia magazine主催)を獲得する、90年後半よりafro-centric jazz コンセプトを足掛かりにニューヨークはハーレムに移り、パーカッションとベースのみをバックに歌う特異なアンサンブルを展開、マンハッタンの有名クラブ、nuyorican poets cafe, wetlands, triadsなどでのライブ活動を通じ、その才能を着実に開花させていった。2000年にはmtv、vh-1と並ぶ3大音楽専門ケーブルネットワーク、bet(black entertainment channel)にてニューフェイスとして紹介され、,001年はそのjazz discoveryシリーズのファイナリストに選出される。現在はベーシスト/プロデューサーの nob kinukawaと共に、バンド"jasmin"のポエトリーリーダー/ボーカルとして活動中。


jazzanova001-01
クラブ・ジャズ・シーンにあらわれたベルリンの6人組dj&プロデュース・チーム、ジャザノヴァ。50'sジャズからラテン、ドラムンベースに至る斬新なサウンドを、時代やジャンルを問わずに優美なミックス・テクニックで繋ぎ合わせ、縦横無尽にクロスオーバー。ディープ・ジャズからアップ・テンポのサンバまで、モダン・ビートを徹底的に追求した幅広く洗練されたサウンドを放つ。 その評判は瞬く間に世界中のクラブ・ミュージック・シーンを駆け抜け、これまでにロイ・デイヴィスjr、ufo、4hero、イアン・プーリーといったトップ・アーティストたちのリミックスを手掛けた。さらに、エクステンデッド・スピリット、kosmaといった名義でも作品を発表している。


jazztronik 014-11


eddie jefferson012-06
1918年、アメリカピッツバーグ生まれ。ヴォーカリーズ(ソロ演奏をアドリブに歌詞をつけて楽器のごとく歌ってしまう)の創始者としてしられる。もともとはタップダンサーで、1940年代になってから歌と作詞に着手する。1979年没。


rickie lee jones005-18
1954年11月8日生、イリノイ州chicago出身。家庭の都合等もあり住む場所を転々としたが、1970年代なかばにlos angelesに移動。ウェイトレスの仕事をしながら地元のクラブで歌う日々を過ごす。この頃はtom waitsの恋人であったと言われている。1978年に、彼女の作曲した"easy money"が元little featのlowell georgeの目に止まり、彼のアルバムに収められた。その後warner brothersに届けられたデモテープを聞いたlenny waronkerが共同プロデューサであるruss titlemanと一緒に組み、1979年に"rickie lee jones"でデビュー、同年のグラミー最優秀新人賞を獲得した。1980年なかばから後半にかけてアルコール依存などもあり、活動が滞ったりもしたが、1989年の"flying cowboys"以降はコンスタントにアルバムを発表している。


quincy jones010-10
1933年5月米国シカゴ生まれ。トランペット奏者としてプロ活動を開始するが、プロデューサー/編曲家として成功する。60年代はジャズ・オーケストラ作品、70年代に入るとフュージョン・アルバムで次々にヒットを連発。さらに、マイケル・ジャクソンの『スリラー』をはじめ幅広くブラック・ミュージックをプロデュースするようになり、多忙をきわめて“大統領の次に忙しい男”と呼ばれた。最強のトレンド&ヒット・メイカー。


ronny jordan001-03
1962年北ロンドン生まれ両親はジャマイカ出身で、父が牧師をしていた関係で幼い頃ころから ゴスペルに親しんでいた。 4歳からギタ−を弾き始め、10歳後半にジャズ・ギタ−の 巨匠ウェス・モンゴメリ−の表現方法を知り、ジャズ・ギタリストへの道を志す。 いろいろなスタイルを研究しジャズ・ギタ−とクラブ・ビ−トを巧みに融合させる方法で デモ・テ−プを作っていた、 その斬新なアイディアがアイランド・レコ−ドに認められて 1992年「the antidote」でデビュ−を果たす。 アイランド・レコ−ドでは、1stから3rdまでで、最新作「a brighter day」からは 念願のブル−・ノ−トと契約して、入魂のアルバムとなっています。 ロニ−の音楽はとにかくサウンドのアイディアがずば抜けて新鮮で、 ギタ−・プレイは きわめて正統派であり、そのミックス加減が彼のスタイルになっている点にあると思います。


joyce002-22, 003-14
1948年、リオデジャネイロ生まれのカリオカ、コパカバーナ育ち。 5ヶ国語を操る才女。 頭の回転も早く、フェミニズムの視点に立った歌詞も鋭く、ハード・ボッサという言葉がピッタリなサウンドもシャープ。  1968年、若干20歳にしてデビューアルバムを発表。 軍事政権と戦いながらしばらく活動を続け、結婚後、70年代前半は家庭にこもっていたが、やはり音楽家の血が騒ぐ。 76年、かのヴィニシウス・ヂ・モライスに誘われ、南米、ヨーロッパとツアーに出る。 79年にはエリス・レジーナがジョイスの 「或る女」 を歌い(、ジョイスは作家としても注目を集めることに。 翌80年に発表したアルバム、「フェミニーナ」 が大ヒット、一気にジョイスの知名度が上がることになる。 ジョイスのただ者でないところは、その後、レコード会社に振り回されるのを嫌い、自主レーベルからアルバムを発表したりしているところである。 いまだにひとつの大手レーベルにどっぷりということがない。 自分の作りたいアルバムを必要なところから出すという態度を貫いている。  ジョイスの音楽は、デビュー以来一貫している。 自らの弾くヴィオランを中心とした、アコースティックな音楽である。 しかし、そのリズムが独特で、シンプル&スピーディで、ちょっと聴くだけでジョイス と分かるオリジナリティを持っている。 ルーツ的にはトム・ジョビンやルイス・エサを敬愛していたというからボサノヴァだけれど、mpb世代共通のビートルズ体験などの影響で、独自の音楽が花開くのである。


k

菅野ようこ001-08

stacey kent014-03

masabumi kikuchi013-01

paddy kingsland004-05

rahsaan roland kirk003-21
1936年に生まれ1977年に他界、その生涯は41年間という非常に短い人生だった。初吹き込みが1956年ですから約20年間の活動となる。彼は盲目の天才リード奏者であり、複数の楽器を一度に口にくわえて同時に演奏するという、オリジナリティーが高い。数多くのイミテイターが出現したそうだが、結局他の人たちは大成しなかった。そういった意味でもワン・アンド・オンリーの強烈な個性の持ち主でった。  多くのリーダー作を残すが、リーダー作で有名なのはrip, rig & panic と domino , we free kings , the inflated tear 位で、彼の名演は jaki byard : the jaki byard experience , charles mingus : mingus at carnegie hall , roy haynes : out of the afternoon などの名盤に残されている。


kitty winter gipsy nova002-01, 010-17
ドイツ出身のグループ。ブラジル音楽とjazzを融合した洗練したサウンド。


koop007-12
北欧最古の大学のある街ウップサラ(uppsala)生まれのdj出身のマグナスと、ミュージシャンのオスカーの二人組ユニット。


roland kovac005-10

karin krog004-09, 007-02, 007-16
1937年ノルウェー・オスロ生まれのヴォーカリスト。60年代初頭よりオスロやストックホルムでjan garbarek、jon christensen、arild andersenらと活動を開始し、60年代後半よりアメリカや日本など世界へと活動の舞台を広げる。


steve kuhn009-16

mambo kurt011-24, 014-01
ドイツのナゾユニット。bobby valentinoなんかを思わせるナゾジャズ風味のとぼけた男性ボーカルにオルガンをメインにホーンセクション、パーカッションなどたっぷりの生音に打ち込みビートを加えたユニークなラウンジポップスタイル。マンボにポルカ、スカ、ボサノヴァなど遊び心たっぷり。


l

la campagnie011-21, 012-01

jessica lauren012-02

nara leao011-01
1942年1月19日、ブラジルのエスピリトー州ヴィトーリア市生まれ。1966年には第2回mpb音楽祭で新鋭作曲家シコ・ブアルキの「ア・バンダ」をシコと共に歌い優勝。またこの時期は映画tvドラマにも女優として出演した。68年からしばらく軍事政権から逃れる為にパリで生活。トッカやジョルジュ・ムスタキ等と共演した。70年代はフェスティバルやショーは殆どやらず、勉学と母親として2人の子供達の育児に専念。アルバムもたまにしかリリースしなくなった。復活のきっかけは77年。豪華ゲストを招いて制作された「メウス・アミーゴス・サォン・ウン・バラート」は大評判になりシーンに戻ってきたナラを人々は大歓迎した。80年代に入るとナラは精力的に活動した。ファギネルをプロデューサーに招き歌謡曲スタイルに挑戦したり、パウリーニョ・ダ・ヴィオラのサンバやカエターノ・ベローゾのバラード、ブラジル内陸部の音楽、キューバの作曲家の歌等を取り上げた。またヴィオラォン一本だけで“ボサノヴァ”だけを歌うショーを開き、ブラジル国内でボサノヴァを再び注目させるきっかけを作った。89年6月7日、脳腫瘍のため死去。享年47歳。


lemon003-13

les double six013-18

les macann012-03
ジャズ/ソウル・ピアニスト。その活動は、ピアノを叩くだけではなく、歌もうたって新人の発掘も行っている。ピアノはブルース・フィーリングを湛えながらも、どこか幻想的雰囲気をもったプレイを展開。1959年から1964年までが最もジャズらしい時期(代表作は『ザ・トゥルース』『ザ・シャウト』)。その後、ジャズにラテン/8ビートの要素を導入、r&bナンバーのカヴァーなども行い、より娯楽性の高い道を歩む。ひとたびマイクを握れば、黒人独特のソウルフルなダミ声が飛び出し、それに際限なく明るいピアノが彩りを添える。また、彼は“ニュー・ソウルの父"と賞賛される人物。ロイ・エアーズ、ジャズ・クールセイダーズなどの発掘に直接/間接的に関わり、ロバータ・フラックも彼が精力的に育てた。これらのアーティストの音楽進路は個々それぞれだが、根っこには、黒人らしくマッキャンらしいドロくささをプンプンさせている。


le trio camara005-04
ピエール・バルーがその昔、契約したブラジリアン・ジャズ・ボサ・バンド。大人気作、les masques "brasilian sound"でバックを務めていたジャズ・ボサ・トリオ。疾走感溢れるお洒落でグルーヴィなジャズ・ボサには注目。


linda lewis008-27
イギリスの黒人女性シンガーソングラ イター。


monika linges qurtet009-20

live tropical fish004-17

london jazz 4001-09
イギリスの謎の4人組(ピア mトリオ+ヴィブラフォン)。アフロキューバン調のアップリフティングな リズムに、アタック強めの弾けたピアノと小粋ノ舞うヴィブラフォンが絡む 最高のフロアキラーチューン。


michael longo013-12

los brasillios002-13

ltj x-perience001-04
イタリアを代表するリミキサー兼dj。irmaレーベル発足時から所属していたプロデューサー、luca trevisiことltjが率いるユニット。


augustin pereyra lucena005-08, 006-23, 010-15
アルゼンチン出身のボサノヴァギタリスト。クラブ・シーンからも再評価。典雅なギターの調べによって編み出される名曲多数。


ana lucia008-21
1962年のカーネギーホールで行われたボサノヴァ・コンサートに出演していながら、全くレコードを出していなかったために幻の女性歌手とまで言われた、サンバ・カンサォン、ボサノヴァの歌手。


nino de luna009-14

andre luterau008-15

m

madlib014-02
本名はOtis Jackson Jr.。Lootpackのメンバーとしての活動の他にQuasimoto, Yesterdays New Quintet, DJ Relsなど様々な名義で活動するヒップホップ・アーティスト。ヒップホップ・トラックを作り、ラップもすれば、生楽器を弾いてジャズまで作り上げる。とにかく多作なことで知られる。ちなみに父親は元R&Bのシンガー。叔父はトランペッターのジョン・ファディス。弟はヒップホップ・プロデューサーのOh No。


mandingo003-22

manhattan jazz quintet009-10
日本で企画されたjazzコンボ。メンバーは、david matthews(p)lew soloff(tp)george young(ts)が核。


keith mansfield003-06, 004-03
ライブラリー・ レーベル kpm で有名。


man sueto011-15
ファブリッツオ・シロッティ、ピエルイジ・シンゴッティ、ロバルト・ロッシの三人組からなるirmaのアシッド・ジャズ・グループ。ファンキーなヴォーカルとエレビのグルーヴが持ち味だが、どことなくukネオ・アコ風味を感じさせたりもする。「アシッド・ジャズ」青春派、イタリア版といったところ。


marc 4006-19
イタリアサントラ巨匠アルモンドトロヴァヨーリなどのスコアを一手にプレイしていた名グループ。ハモンドオルガンをたっぷりきかせたgroovyでオシャレなイタリアンサントラ、ラウンジ。アタックの強いベース・ドラムが気持ちの良いグルーヴを生み出す。


mardi gras. bb014-20


tania maria005-15, 006-26, 007-18, 010-19
1948年ブラジル生 まれの tania mariaは、7歳よりクラッシックを学び、10代で既にレコーディ ングを経験。そして、74年にパリに移り住み、フランスのレーベル「barclay」と契約しレコーディング。81年にはジャズ・ギタリストのチャーリー・バードの誘いでアメリカへ渡し、「piquant」でメジャーデビュー。
ボサノヴァの誕生から衰退までを10代の時に間近で見ていながら、ジョビンやジョアンではなく、オスカーピー・ターソンに最も影響を受けたというタニア・マリア。いわゆるジャズサンバ派の演奏と聴きくらべても彼女の方がダイレクトにジャズ寄りなアプローチをしていることは明らかで、その辺が「ブラジル音楽の演奏家」ではなく「ブラジル出身のジャズピアニスト/シンガー」として名が通っている所以。


augusto marielli011-02


cesar camargo mariano006-05
1943 年生まれ。幼少からピアノを学び、卒業後は bill evans 等のジャズ・スタイルを研究する。'60 年代に airto moreira らと結 成したサンバランソ・トリオ等で活躍。あのエリス・ヘジーナと結婚してそのプロデュースに忙しかったが、離婚後はソロでの活動も多い。


marita008-11

jayme marques009-21

esther marrow005-09
若い頃から成功を収めたゴスペルシンガー。60年代にはデューク・エリントン、エラ・フィッツジェラルド、レイ・チャールズ、セロニアス・モンクと20世紀を代表するアーチストと共演している。 さらにマーチン・ルーサー・キングの world crusade にも参加した。その後、長いスランプに陥るが、90年代に harlem gospel singers を結成して不死鳥のように舞台に返り咲いた。


ana mazotti008-03
もともとスタジオ・ミュージシャンの集まりだった、というアジムスが、アジムスとしてデビューする前にサポートメンバーとして参加したらしい。アナ・マゾッティ。声はかわいい系に属するか。
letta mbulu003-05
アフリカ出身の女性ボーカリスト。


jerzy milian007-05
ポーランド出身のヴィブラフォン奏者。


carmen miranda002-21
1909年2月9日、 ポルトガルのマルコ・ジ・カナヴェーゼス生まれ。 1歳の時にブラジルに移住。 父親の反対もあって当初デパートの店員をしていたが、1928年ギター奏者として知られていたジョズエ・ジ・バロスに認められ、プロ歌手になる夢を掴む。1930年「タイー」が大ヒット。以後、数多くのヒット曲を作り、多くのファンから愛された。1936年、ブラジル最初の有声映画「アロー・アロー・カルナヴァル」に出演、挿入歌も歌ったことから彼女の人気は確固たるものとなる。 19387年にアルゼンチンのブエノスアイレス公演が成功。翌年、アメリカのプロモーターに口説かれて渡米、ミュージカルや映画に出演した。妖艶な雰囲気と歌が受け入れられ、世界中にファンを作る事となる。1945年に映画プロデューサーのダヴィッド・セバスチャンと結婚するが、翌年の8月5日、tv映画撮影中に心臓発作で急死した。 ブラジル音楽を始めて世界に広げたことでも有名である。また、彼女のバックバンド、「バンド・ダ・ルア」のメンバーにはガロートやアロイージオ・ジ・オリヴェーラといったアーティストが在籍していた。 ブラジリアン・ボムシェル(ブラジルの爆弾娘)というニックネームを持つ。


joni mitchell 014-06


lou monte002-04
1917年生まれ、ニュージャージーの出身。


marisa monte011-09
1967年7月1日、ブラジル・リオデジャネイロ市生まれ。82年(18才)の時、映画topclipのサウンド・トラックの一曲、サバド・ア・ノイテsabado a noite(サタデー・ナイト)で静かなデビューを果たす。すぐ後にリリック音楽を習いたいとイタリア留学したが、やはりブラジル音楽が自分の道だと悟って帰国した。本格始動をはじめたマリーザはプロデューサーnelson mottaと出会い、さまざまな音楽スタイルをミックスしたツアーを開始した。これが成功し、89年にemiレコードからアルバム、エム・エムmmを発表し、その中の一曲ベン・キ・シ・キスbem que se quisが大ヒットした。


montefiori cocktail001-05, 011-12
federico montefiori(キーボード、打ち込み)francesco montefiori(サックス、フルート、ボーカル)、イタリアのラウンジユニット。


giorgio moroder001-14
1940年4月26日、イタリア生まれ。そのdiscoとテクノ を融合させたサウンドは多くのアーティストに影響を与える。


barbara moore 006-27
男性上位の時代の英音楽業界で初のアレンジャー/コンポーザーとしての 地位を確立したパイオニア。


dudley moore008-19
1935年4月19日 イギリス ロンドン生まれ。「ミスター・アーサー」ゴールデン・グローブ最優秀主演男優賞コメディ部門受賞など俳優として有名。 2002年に他界する。俳優としてだけではなく、イギリスのコメディ・ミュージシャンとして活躍していた。サー・ゲオルク・ショルティと「音楽教室」の企画をしたり、プロコフィエフの「ピーターと狼」も手がけたりもした。


roger morris002-11

frank motley003-04
シンガー/トランペッター。戦後イーストコースト・ジャンプ・ブルース。1923年サウスカロライナ州チェロウ生まれ。2本のトランペットを同時に吹くデュアル・トランペットという芸でも名を売った。51年からドラムの tnt トリブルとコンビを組んで、ジャンプを演奏した。47〜52年のスペシャルティ録音「specialty legends of jump blues vol.1」で聞くことができる。ロイド・ファットマンの51年録音で伴奏。


mr. c013-21

mr. skank013-22

mark murphy013-04, 014-19

romano mussolini009-17
50年代から活躍するイタリアのジャズピアニスト。
n

zbigniew namyslowski013-09

silje nergaard007-15
ノルウェー・オスロ出身。pat methenyの手助けを受け'89年9月にシングルtell me where you're goingでロンドンからデビュー。同曲は日本でも翌'90年にfmラジオ各局で大ヒットを記録し、その後日本で起こった一連の”北欧ブーム”の先駆けとなる成功を収めた。翌'91年には来日し、東京、京都などでコンサートを行った。アコースティックでポップな曲調で良く映える、ちょっとハスキーでしかし透明感があってなめらかな声が特徴。バックグラウンドはジャズで、ジャズ・シンガーとして一生を終えると宣言している。 3枚の英語アルバムと2枚のノルウェー語によるアルバムを発表したのち'00に初のジャズアルバム、port of callを発表し各方面から絶賛を浴びた。音楽活動の他、アルバムジャケットにも見られる彫像や絵画の個展を開くなど多様な活動をしている。


victoria newton 013-11

bruno nicolai & edda dell'orso006-17

coisa nossa008-10
女性サンバボーカルリスト。
novi singers007-15
ポーランド出身のスキャット・ジャズ・ コーラスグループ。


o

os intocaives005-17, 008-02
ブラジルジャズ。


greg osby005-17, 013-02


p

sam paglia004-13, 004-16
21世紀にありながらハモンド・オルガンを大フィーチャーした60〜70年代頃のスパイ・ムーヴィー・サントラ風に展開する楽曲群にはただただ感動。「mo'plen」シリーズを始め、「la douce」サウンドのエッセンスを吸収したサウンドはirmaの中でもかなり「la douce」寄り。ジャケットも本人が書いており、イタリアの某ラウンジ・マガジンでも彼のジャンキーなイラストをみることができる。


the paris studio sound012-18


pathless001-10
jazzanovaのプロデューサー、stefanとaxelのプロジェクト。


fritz pauer012-15
ウィーン出身のピアニスト。


peddlers008-08, 014-04
オルガンを前面にフューチャーしたブリティッシュ・モッド・ジャズ。


perrey & kingsley013-16, 009-05

oliver peters008-04, 009-05

oscar peterson 008-14
 ジャズ界巨匠の一人、オスカー・ピーターソンは1925年、カナダのモントリオール市で生まれた。はじめはトランペットを習ったが、肺を患ったため、ピアノに移り、ピアノを発見してからはピアノ一途にのめり込んだ。  39年、コンテストで一位になり、その賞金で最初のピアノを買った。その頃、父親からピアノ・ソロの父と言われるアート・テイタムのレコードを聞かされ、ショックを受け、深く影響を受けた。後日、テイタムとは親友になったと言われる。  45年、モントリオールに演奏旅行にきていたデジイ・ガレスピはオスカーのプレイを聞いて興奮して、当時、一番の権威評論家、レオナード・フェザー氏に電話で、「すごいピアニストを聞いた。アメリカで彼の紹介コンサートをやろう」と言ったが、無名のピアニストのコンサートは難しく、実現しなかった。  その後まもなく、当時のジャズ界の帝王、ノーマン・グランツに説得されてアメリカに移り、グランツが主宰するジャズ・アット・フィルハーモニック(jatp)に参加して、49年8月、ニューヨーク市でデビュー、聴衆を驚かせた。  彼のテクニックは、アート・テイタムに比較しても劣らず、加えて、両手のユニゾンでビバップ・フレイズを信じられない程の早さで弾きまくる独得のスタイルは、皆が初めて聴くピアノで、聴衆に大変な驚きと興奮をもたらした。  悪癖や、テクニックのなさを芸術的だと見る傾向のあるジャズの世界で、オスカーは尊敬される社交人であり、理性の高い彼は、ジャズ・ピアノの歴史にはそれまでなかった奏法を創り出し、世界を風靡した。彼の影響を受けたピアニストは無数にいるが、彼を越えたピアニストは皆無だろう。レコードの数もおびただしく、lpでもゆうに77枚を越える。  彼は十代から病気のため、手の痛さを我慢して演奏することが度々だったが、その事実は75年まで人に漏らさなかった。それほど、芸術家としてプライドが高く、プロに徹していたことがわかる。


trudy pitts004-11, 013-21
グルーヴ系のジャズ。ハモンドオルガン奏者。


maurice pop 006-11
groovy なスキャット入りラウンジジャズナンバーの連発させるドイツのコンポーザー。


baden powell005-02
1937年8月6日、リオデジャネイロ近郊生まれで、2000年9月26日、63歳で肺炎により他界する。 バ−レ・エ・サイ(varre-e-sai)という小さな町で生まれ、すぐにリオ市に移転、最初は親父さんからバイオリンを習わされえていたが、自分の意志でギタ−に変え(4歳頃)8歳の時にナショナル放送局のジャイメ・フロレンシオ・メイラからギタ−のレッスンを受け始め、メキメキ上達し、13歳ぐらいから人前にて演奏をするようになり、15歳でナイト・クラブなどで演奏をし始める。'59年にはsamba tristeがすでに出版されていたという。同じ年に歌手のドロレス・デュランが作曲した"ア・ノイチ・ド・メウ・ベン"はヒットしたが、彼女はその直後服毒自殺してしまう。その後'62年に父親が亡くなったりと、不幸が続く。さらに、その前後にシルヴィア・テレスの伴奏もしていたが彼女も'66年には交通事故にて死去してしまう。また、二人が共演していた頃にはコパカバ−ナのクラブにてナラ・レオン、カルロス・リラ、ジョビン、メネスカルらと一緒に演奏もしていた。モラエスと知り合ったのもその頃で彼と意気投合し数々の作品が生まれることとなる。


elvis presley007-23
本名、elvis aron presley。1935年1月8日生まれ。ミシシッピー州イースト・テュペロ出身。 1954年「ザッツ・オール・ライト」でメンフィスのサン・レコードからデビュー。56年に移籍したrcaレコードからのファースト・シングル「ハートブレイク・ホテル」が初の全米no.1となり、キングの歴史が始まる。当時最も新しい媒体、テレビを利用して全米にエルヴィス旋風を巻き起こした50年代、映画出演が中心となった60年代、そして、ライヴに没頭した70年代と各年代を通して最高のエンタテイナーとして23年間に渡りスーパースターの座に君臨。18曲のビルボードno. 1シングルを誇り、49枚のアルバムをtop40に送り込んだ不世出のアーティスト。 1977年8月16日に逝去。


marcheselli produzioni005-23
irma la douceより、イタリアン・カクテル・ラウンジ・グループ。陽気な遊園地サウンド、アコーデオンが奏でる哀愁トラック、エロエロ・ポエット、バカ・サウンド、日本語ポエットなど多様な曲を作り上げる。


q

quarteto em cy006-10
 グループ名は1939年生まれの長女cyva(de sa leite)シーヴァ、1940年生まれのcybeleシベーリ、1945年生まれのcynaraシナーラ、そして一番下が1946年生まれのcyleneシレーネと四人の姉妹の名前の頭の文字から。ブラジルにおける音楽文化の最重要発信地、バイーア州のサルヴァドール市生まれ。50年代の後半には、地元のテレビに出演するようになり、60年代に入り、リオに進出する。当時ブラジルでは、ボサ・ノヴァが一大ブームを巻き起こしていて、彼女たちは、そのボサ・ノヴァにおける最高の詩人、ヴィニシウス・モライスと最高の作曲家、カルロス・リラに認められ、恵まれたデビューを飾る。1964年、彼女たちはアルバム"quarteto em cy"でデビュー。ボサ・ノヴァ界随一の女性コーラス・グループとして、注目を集め、その後1966年、メンバーのひとりシレーニが結婚のため引退するが、代わりにレジーナ・ヴェルネッキが加わる。


quartette tres bien014-22


joe quijano 005-22
サルサ誕生前夜、ニューヨーク・ラテンで最高の人気を 誇った、マンボ、パチャンガ期の人気者。


quintetto x011-19
イタリア産のブラジリアン・ミュージックを演奏するグループ。ボーカルはrosalia souza。


r

ernest ranglin004-12
ernest ranglin:32年、ジャマイカ生まれ。15歳の時からギタリストとして活動し、50年代はジャズを中心に多くのセッションに参加。アイランドのミュージカル・ディレクターも務め、58年にアルバム「ギター・イン・アーネスト」を制作した。同年からスタジオ・ワンで編曲を担当。スカタライツのギターも兼任し、スカの時代の礎を創った。64年に渡英、ミリーのアルバム「マイ・ボーイ・ロリィポップ」を手掛けている。来日は78、79、94年の3回。78、79年はジミー・クリフのツアー・メンバーだった。


ras011-13


real ax band008-22
1976年結成されたテクニカルなジャーマン・ジャズ・ロック・グループ。女性ヴォーカルはガーナ人、マリア・アーチャー。


dieter reith trio(010-21

ken rhodes010-21

buddy rich 002-16
1917年ニューヨーク生まれ。白人最高のドラマーと評されるドラマー、バーナード ”バディ” リッチ。  そんな彼がジョー・マルセラのバンドでプロドラマーとしてデビューしたのが'37年。 その後、バニー・ベリガン 楽団、ハリー・ジェームズ 楽団、アーティ・ショウ 楽団でその名を轟かせ、当時人気絶頂であったトミー・ドーシー 楽団に移籍し、そのハイピッチで切れ味鋭いスネアと圧倒的なスイング感で一躍トップドラマーの座に駆け上る。 一時期、海軍に入隊したが、退役後、再びドーシー楽団 に復帰する。  '45年、リッチは最初の自分のビッグバンドを結成する。活動は定期的なものでなく'49年の4月にこのバンドは解散となる。 '50年当初、ノーマン・グランツ率いるj.a.t.pの参加したリッチは、 スタイルの壁を超えて数々の大物プレイヤーと競演することになる。そして'61年に再び ハリー・ジェームズ 楽団に復帰したリッチは、ギネス級の高額なギャラと共に迎え入れられ、 ”世界最高のギャラをとる脇役”との異名をもらうのであった。 そして'66年、周囲の反対を押し切って、再び念願の自分のビッグバンドを結成する。正統的なジャズオーケストラを継承しながらもブラスアンサンブル とドラムを対比させた大胆なビッグバンドサウンドを創り上げ、大いに旋風を巻き起こした。このビッグバンドはバディリッチのドラミングを存分に生かすものであり、まさに彼の魅 力を120%味わえるものである。ハイテンポの4ビートでは身震いするほどのスピード感、 ミドルテンポでは強烈なスイング感を与えるライドシンバルと絶妙なスネアのフィルイン。 それらに触発され、咆哮するド迫力ブラス陣。そのブラス陣をも凌ぐ豪快なドラムソロ。 リッチのドラミングの真髄がビッグバンドの中にあるのは明白である。 彼は譜面を読めないことで有名であった。そんな彼は代理ドラマーに始めに曲を叩かせ、それを数回聴いただけでその曲を憶えてしまったという。'74年、ビッグバンドでの巡業生活に疲れたリッチはバンドを一時解散ししばらくコンボバンドで 活動することになる。ジャズクラブbuddy's placeを経営し、そこでソニー・フォーチューン 、サル・ネスティコの二人のサックスをフロントに、ベースにはアンソニー・ジャクソン というセプテットバンドを結成する。約一年後にこのbuddy's placeはリニューアルオープンするのだが、 これを期にリッチは再びビッグバンドを結成し、セプテットバンドは短命に終わる。 再結成されたバンドでは、音楽的な大黒柱となったボブ・ミンツァーやメインソリストとして ジャズロックの寵児スティーヴ・マーカスなどが加入し、再び力強いリッチのドラミングが蘇り、 恒久的なビッグバンドが減る中でリッチのビッグバンドは精力的な活動をみせる。  そして'87年、悪性脳腫瘍により他界。享年69歳。


judy roberts002-26
シカゴ生まれのシカゴ育ち。父親はジャズギタリストでもあるボブ・ローウィー。父の影響もあってジュディは幼い頃から歌やピアノに親しんできました。15歳の頃には地元シカゴのジャズクインテットのピアニストとして、プロデビューも果たしています。そして、17歳の頃より本格的にボーカルを始め、5人編成のバンドを結成。1979年、1stアルバム『ジュディ・ロバーツ・バンド』を、地元のシカゴのインディーレーベルより発表しました。


the dj rodriguez002-17, 003-02, 003-16, 003-19

meta roos012-17
スウェーデン出身のジャズシンガー。ビリージョエルやマリーナショウなどのカバーなどで知られる。ジャズやボサノヴァ、ソウル・ミュージックなどの融合で都会を感じさせる。


sonia rosa006-12
60年代末にブラジル から日本にやってきたボサノヴァシンガー。彼女は女性ボサノバ歌手の中でも、最もセクシーロリータボイスの持ち主、現在は日本に住んでいてたまにシングルなどを録音している。ルパンのサントラでもおなじみの大野雄二によるプロデュース作もある。


nicola conte apresenta rosalia de souza 011-20


harald rosenstein007-14

mary ross006-04
主婦の傍らシカゴの教会でゴスペルを歌い、1964年のシカゴ大学でのフォーク・ミュージック・フェスティヴァルではビッグ・ジョー・ウィリアムズとスピリチュアルを歌った。1964年にリー・グランダースンのギターによる録音があり、テスタメントのlpに収録された。ケネディ大統領の死を扱った p-vineに収録されている。


jules ruben 004-21

s

st germain001-02, 001-07, 001-12, 001-15
ジャズにさまざまなジャンルの音の要素がミクスチャーするblue noteの新世代ジャズ。 パリのアンダーグラウンド・シーンで多大なリスペクトを集めるルドヴィック・ナヴァールのソロ・プロジェクト。


sambalanco009-12
硬めのピアノが印象的なブラジリアンピアノトリオジャズ。


linda scott002-08

gil scott-heron002-02
 1949年4月、シカゴにgil scott-heronは生まれる。既に30年に渡り20数作の優れた作品を出しつづけている。彼のすばらしいところは言葉、歌詞、詩、ラップの真骨頂であると同時に、力強く、生命力に富み、抵抗と権利委任、自由と革命のメッセージを感傷的にジャズ・ソウルのノリをベースに表現するところ。 13才でnyに引っ越し。ペンシルバニア州のリンカーン大学でscott-heronはbrian jacksonと出会う。brian jacksonはその後彼の右腕となるキーボーディスト。


seatbelts012-11
2048年、太陽系音楽シーンにデビューしたバンド演奏中に安全のためシートベルトを着用することからその名が付いたと言われている。メンバーの素性はすべて伏せられている謎のバンドである・・・というのはアニメ「cowboy bebop」からの設定で、実際は数々のcm音楽などを手がける菅野よう子率いるバンド。カウボーイビバップの音楽のすべてを手がける。企画バンドなのでライブ活動など殆ど行っていない。その音楽性は、ロック、パンク、ジャズ、スカ、レゲエ、スウィング、マンボ、ボサ・・・などと非常に多岐にわたる。


seawind009-18
ハワイ生まれのla育ち。ホーンセクションとポーリン・ウィルソンのキュートで力強いvocalが魅力のバンド。


renato serio 002-20
1970年代から活動を続けている。初期のころの少しアングラな匂いがするもの、1980年代のちょっと歌謡曲のような軽薄さがあるもの、1990年代以降の落ち着いた感じのものなど、多彩な曲調のものを作り上げる。


marlena shaw002-19
9月22日 、ニューヨーク州ニュー・ロシエル生まれ。トランペット奏者であった叔父の影響でジャズを聴き始め、10歳の時にアポロ・シアターのアマチュア・ナイトに叔父と共に出演し、大喝采を浴びる。20歳を過ぎた1960年代の中頃には主に東海岸でプレイボーイ・クラブやリゾート・ホテルなどで歌っていた。1966年にカデット・レコードに吹き込んだシングル「マーシー・マーシー・マーシー」の大ヒットで一躍有名になり、ちょうど同時期にカウント・ベイシー・オーケストラの歌姫として4年間在籍することとなる。72年にベイシーの元を離れ、女性歌手としては初めてブルーノート・レコードと契約する。この間サミー・デイビスjr.とのツアーを数多く行い、そのステージに磨きをかけると共に、スタンリー・タレンタインやベニー・ゴルソン等とレコーディングを行う。77年の映画『ミスター・グッドバーを探して』の同名主題歌が好評を博し、r&b、ポップス、そしてジャズと幅広いジャンルでの支持を不動のものとする。身近なところでは87年コニカのtvコマーシャルで「上を向いて歩こう」を、88年にはマツダ・ルーチェのcfの曲を歌っている他、日本を代表するインストゥルメンタル・グループ、t-squareのヴォーカル・アルバムにも参加し、インストゥルメンタルで聴き親しんだ楽曲に新たな息吹を吹き込んだと絶賛されている。 近年彼女の70年代のヒット曲「ウーマン・オブ・ザ・ゲットー」がukのdj、the blueboyのシングル「remember me」やsaint germainの『tourist』(blue note)でサンプリングされるなどして再び脚光を浴びている。現在はライヴを中心に世界各国で活躍しているが、その熱いステージと確かな歌唱力で幅広い世代を魅了している。また、全米の中学・高校・大学でコンサートや教育プログラムにパフォーマーとして参加し、音楽の素晴らしさを若い世代に伝えることにも力を注いでいる。


wilson simonal002-05
1938年2月23日、 リオ・ジ・ジャネイロ州レブロン生ま黶b 中学を終える頃に歌に興味を持ちはじめ、兵役に服しているときには隊内のアトラクションでエンターテイナーぶりを発揮していた。 p960年頃に、アマチュアボーカルグループ「ウス・ドライ・ボーイズ」でロックなどを歌い始める。 62年頃にプロ歌手となり、ナイトクラブのステージに立つようになる。 その後、tvプロデューサーとして有名なカルロス・インペリアルに認められ、最初のレコードを録音。チャートのベスト10に名を連ねた。 ボサノヴァがその兆しを見せかけた50年代後半、カルロス・リラの「ロボ・ボボ」をタイトル曲に使い、これが見事にはまって大ヒットとなる。 60年〜70年頃にはロックの要素を取り入れかなりの人気をはくした。 メキシコやベネズエラといったラテン諸国で人気が高く、たびたび足を運んだりもしている。


nina simone011-08
1933年2月21日、アメリカ・ノースカロライナ州タイロン生まれ。17歳でピアノを学び、ニューヨークのジュリアード音楽院でピアノ及び作曲法を学ぶ。57年には初アルバム『nina simone』を録音。同アルバム中の「i loves you porgy」がヒット。ピアノ弾き語りのスタイルで活動を始める。60年代には黒人解放運動に力を入れるなど、プロテスト色も強くなる。その後は、ボブ・ディランやバート・バカラックのナンバーも歌うなどポップスへの関心も深め、78年にはマンハッタン・ジャズ・クインテットのピアニスト、デヴィッド・マシューズの編曲により『ボルチモア』を録音。再び注目された。2003年4月21日、南フランスの自宅で亡くなった。70歳。最近ではアメリカを離れ、南フランスで過ごしていた。


sinatra & company009-09

martial solal005-11
1927年生まれ。53年にジャンゴ・ラインハルト・グループの最後のピアニストとして、 輝かしいデビューを飾り、その後フランスのジャズ界の第一人者として 君臨し続ける。


som tres006-24, 007-03
ブラジル出身のセザル・カマルゴ・マリアーノ(ピアノ)率いるピアノ・トリオ。ファンキーなブラジリアン・ジャズ。


lou stein010-22

street jazz unit012-20, 014-13

strawberrious005-24
日本発。クラブジャズを基調にピアノ、エレピの伴奏やソロを中心に曲を構成。


mikael sundin007-12

supersempft009-08

tierney sutton010-14

claudio szencar007-14

marta szirmai006-28
ハンガリー生まれ、エキゾチック・ジャズボッサの女性シンガー。


t

deirdre wilson tabac012-07

tamba trio009-25
61年、故ルイス・エサ(p)をリーダーに、ベース&フルートという風変わりなパートのベベート、そしてバンド名の由来にもなった独自のパーカッションセット、「タンバ(フライパンや竹などの組み合わせ)」の発案者エルシオ・ミリートの3人によって結成されたタンバ・トリオ。


ray terrace014-14

third wave008-05, 010-12

bobby timmons012-19

cal tjader010-08
サンフランシスコ出身の彼は、クールなウェストコースト・ジャズにラテンのリズムを融合させ、ジャズ・マニアのみならず大衆へもアピールすることに成功した。デイヴ・ブルーベック・バンドのドラム/ヴァイブ奏者としてキャリアをスタートさせ、ニューヨーク滞在中にはジョージ・シアリングとも活動を共にしている。ラテン・クラブへと足を運ぶようになったのも、ちょうどその頃のことである。ソロ・プレイヤーとしては、ミルト・ジャクソンなどを思い起こさせるほどの腕前であり、60年代中期には、より実験的な方向へと向かっていった。小編成のグループからビッグ・バンド・サウンド、そしてエイジアン・スタイルまでさまざまな音を探究した。82年、カル・ジェイダーはコンサートの真っ最中に亡くなった。


tokyo grand orchestra featuring bebe013-26

amedeo tommasi013-03

mel torme'010-13, 013-07, 014-07

julie driscoll, brian auger & the trinity 011-18


trio bonavita008-12

trio mocoto013-14


armando trovajoli006-02, 008-20
1917年7月21日 イタリア、ローマ生まれ。彫刻家と画家を両親に持ち、4歳からバイオリン、6歳でピアノのレッスンを受ける。17歳で高級ナイト・クラブでピアノ演奏を始め、戦後連合軍の為に活動を再開する。 '48年ローマの名門サンタ・チェチリア音楽院ピアノ科を卒業後、イタリアを代表する ジャズ・ピアニストとして活躍し、パリで開催された国際ジャス・フェスティバルに イタリア代表として参加。その後アルベルト・ラットゥアーダ監督の依頼で作曲した 「anna」のテーマ曲が大ヒット。「河の女」でソフィア・ローレンが唄った 「マンボ・バカン」が話題を集め本格的に映画音楽の道に入るきっかけとなった。 「ふたりの女」「昨日・今日・明日」等、名匠ヴットリオ・デ・シーカ監督作品を担当。 エットーレ・スコラ監督のデビュー作「もしお許し願えれば女について話しましょう」('64) 以来30年以上にわたるコラボレーションは現在も続いている。


u

piero umiliani004-04, 004-10, 004-18, 005-21, 006-14
「マナマナ」などでおなじみ、映画音楽の世界にいち早く本格的 にjazzを取り入れたフィレンツェ生まれのマエストロ。どれだけたくさんのサントラ やライブラリーを手がけたのか、現在正確に把握できないほど。


united future organization001-06, 001-11, 003-11
90年代アシッド・ジャズ 旋風を巻き起こした、ジャパニーズ・クラブ・ジャズ界のパイオニア。メンバーは矢部直、フランス出身のラファエル・セバーグ、松浦俊夫(02年脱退)。いずれもdj。


us3012-04, 013-19, , 014-10
英国人djのジェフ・ウィルキンソンを中心にしたプロジェクト。ジャズの名門ブルーノート・レーベルの音源を自由にサンプリングすることを認められている。ちなみに彼らのファーストがブルーノートで一番売れたアルバムらしい。メンバーについては誰が正規のメンバーで誰がヘルパーかは謎。


v

rosinha de valencia005-03

sylvie vartan013-06

frankie valentine 003-22
djとして20年以上、プロデューサーとして11年程のキャリアを持つロンドン生まれのdj兼プロデューサー。彼のホームタウンであるロンドンではアップテンポからダウンテンポまでプレイする機会に恵まれ、地元では最も求められているdjの1人である。ukのみならず、日本、オーストラリア、ポルトガル、イタリア、スペイン、アイスランドなど、世界各国でそのdjプレイ経験を持つ。現在はロンドンのlimelight、ケンジントンのparkclub、london rotary clubでメインdjを勤めている。ギター、ピアノ、フルート、パーカッション等の生楽器とラテン、ジャズなど様々な音楽要素をハウスフォーマットに取り込む最先端の感覚を持つクリエイターでもある。


marcos valle006-15, 008-26, 009-19
1943年9月14日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。幼少の頃からクラシック・ピアノを習い、後にアコーディオン、ギターも演奏するようになり、ギターの腕前をロベルト・メネスカルに絶賛されるまでになる。 '62年、エドゥ・ロボ、ドリ・カイミとトリオを結成しtvにも出演を始め、その後、兄パウロ・セルジオとの共作曲がタンバ・トリオ'63年のアルバム『avan0』で採り上げられる等、作曲家としての活動を始めつつ、'64年に自らもデビュー、ファースト・アルバム『サンバ・ジマイヌ』をodeonよりリリース。翌年の2ndアルバムとのたった2枚で数々の名曲を発表し、多くは後に世界的レパートリーとして親しまれるようになる。 その後セルジオ・メンデスの招きで渡米、ツアーに同行後クリード・テイラー制作のワルダー・ワンダレイのアルバムの中から「サマー・サンバ」がシングル・カットされ全米でポップ・チャートの1位 に何週間も君臨する大ヒットとなり、マルコスのアメリカでの名声はまたたく間に拡がった。またアンディー・ウィリアムス・ショーにも出演、さらに'67年 の『braziliance!』(ワーナー)、'68年の『サンバ68』(ヴァーヴ)も、名曲ぞろいの大名盤としての誉れが高い。 '70年代〜'80年代は主に作曲家として活動、後半より再び渡米し、サラ・ヴォーンやアーバン・ソウル界の大物レオン・ウェアとも共作/共演を行う。'90年代に入るとロンドンのクラブ・シーンを中心にマルコス再評価のブームが巻き起こり、若い新しいファンも獲得しつつ昔の名曲の数々も再び支持されるようになった。昨年faroutレーベル(uk)よりアルバム『nova bosa nova』をリリース。


sylvie vartan002-10
1944/8/15ブルガリアで誕生。父はフランス生まれのブルガリア人、母はハンガリー人。52年8歳の時パリに移住。61年、音楽界(rca)で仕事をする兄エディ・ヴァルタン eddie vartan の関係で偶然レコーディングに参加したことから歌の世界に。ロック歌手としてデビューし一躍アイドルとなる。バラードからロックまで歌いこなし、快いハスキー・ヴォイスが魅力で美しい容姿をもつ世界的アーティスト。


claude vasori002-24

sarah vaughan013-20

luiz carlos vinhas006-21
60年代半ばのジャズ・サンバ全盛期にボサ・トレスのリーダー/ピアニストとして活躍したルイス・カルロス・ヴィーニャス。


vip 200004-15

matthias vogt009-02
ドイツのジャズピアニスト。


voices in latin008-23
イギリスのグループ。


w

wagon cookin'014-05


eddie warner002-23, 003-03, 003-14, 003-18
彼の設立したフランスのライブラリー・レーベルl'illustration musicale(im)。imは、ジャズピアニスト、エディ・ワーナーによってパリの1965年に作られたのだが、ライブラリー音楽を広く用い、急成長するフランスのテレビ&映画産業のために音楽を作るという現在の形ではなく、一つの小さな出版社として始まった。エディ・ワーナーが言ったように、音楽は「イメージを活気づけるもの」。imによって製作された26のレコードはすべて貴重な音源である。


kenneth wells009-06
楽器名不明。シカゴ・ブルース。ギター・レッドことポール・ジョンスンの63年録音で伴奏。


jack wilson013-13

klaus wunderlich and das orchester gert wilden006-08
ドイツのハモンド・マスター。
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x-legged sally003-15
ベルギー・ブリュッセル出身のアヴァンギャルド・ロック・グループ。 ピエール・ヴァーヴローセンとペーター・ヴァーメルシュらを中心に結成、90年knitting factoryのライヴで注目を浴び91年アルバム・デビュー。 97年解散。 作品は6枚。 絶叫型フリー・ジャズ、ファンク、ロックが合体したしなやかにして凶暴なサウンド。 パワーとスピードを備える近未来型ヘヴィ・ジャズロックの急先鋒だ。 すでに解散してしまったが、メンバーの一部は a-group というユニットで頑張っている。


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wirbitzky zimmerman006-06