李承晩という名の強欲爺い

とんでも無い悪行があります。
朝鮮の初代大統領ですが今でも悪名高い クソ爺いです。



李承晩



李承晩って実はとんでもない悪党じゃないのか?
呂運亨も金九も殺して、南半分だけで勝手に国をつくり既成事実化させたりある意味独立の際に
関しては金日成あ朴憲永の方がかわいく見える

南北分断を固定化させたのは休戦協定だけど、分断の原因は金日成と教えられてると思うが
本当はこいつの方がひどいんじゃないの?権力闘争の行動を見てるとそう思う

1948年(昭和23年)8月13日 大韓民国成立 初代大統領に就任。

1952年(昭和27年)1月18日 海洋主権宣言。いわゆる李承晩ラインを設定

竹島不当占拠の始まり


1952年(昭和27年)5月26日 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(五・二六政治波動)。
1956年(昭和31年)5月15日 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。
1958年(昭和33年)進歩党党首の゙奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。
1960年(昭和35年)3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。
1960年(昭和35年)4月19日 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。
4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。

嘘吐きの人生を送った男
最後は祖国を追い出された。


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@まず李承晩ラインなるものを日本領海内に勝手に設定し
日本の領海 漁業権 竹島を強奪した。
そのため多くの漁民が殺されました。
李承晩ライン竹島問題



竹島問題は別にこちらのもあります。



参照こちらをどうぞ。
http://s2.muryo-de.etowns.net/~yu9999/kankoku/dog/korea.htm

朝鮮戦争を挑発した。張本人の一人です。
朝鮮戦争は何故 起きたか。

自分は両班出身だと生涯自惚れていた爺いです。

朝鮮戦争でも休戦に反対でした。
反日政策の最初の実行者です。
今も重大に影響があります。
このバカ男の政治で現在のバカな反日の南朝鮮が出来ました。


李承晩 字は承龍 I-Seung-man 1875-1965 写真は人形です。

1875年(明治8年)黄海道平山郡馬山面陸内洞で3男2女の末子として誕生
1897年 (明治30年) 反政府デモで投獄される(22歳)
1902年 (明治35年) 出獄(27歳)
1904年(明治37年)渡米(29歳)
1910年(明治43年)プリンストン大学で博士号を得る(35歳)
1911年(明治44年) 寺内正毅総督暗殺計画を疑われて逮捕される(36歳)
1919年(大正8年) 上海で大韓民国臨時政府を作り海外で独立運動
1945年(昭和20年)帰国。(70歳) 戦争中は米国に逃げていた。
1948年(昭和23年) 大韓民国成立 初代大統領に就任。(73歳の痴呆老人が大統領になった。
悲劇 不幸の始まりです。

1950年(昭和25年)朝鮮戦争始まり釜山に首都を移す(75歳)
1952年(昭和27年)海洋主権宣言。李承晩ラインを設定(77歳)
1960年(昭和35年)四月革命でハワイへ亡命。(85歳)あまりにも悪名で追放されました。
1965年(昭和40年)ハワイで死亡(90歳)


李承晩は投獄前に結婚していましたが米国で長男が病死したこともあり離婚しました。

59歳の時 1934年(昭和9年)オーストリア人のフランチェスカ・ドナー(39歳)と周囲の反対を押し切って再婚しました。

日本の敗戦で北はソ連軍、南は米国が進駐し統治をしました。

北の共産に対抗する反共主義者でもあり、米国に長く住んで米国のことを良く知っている李承晩を米国は支持し
大韓民国成立の初代大統領になる事が出来ました。

就任してすぐ政治権力争いが始まりました。
その中で北の金日成の朝鮮統一をめざす 朝鮮戦争が起こり政権の延命が出来たのです。

休戦協定

一進一退した戦争が最初の38度線付近で収まりそうになった時、
大韓民国による北進と統一を主張し休戦協定に李承晩大統領は参加しなかったのです。

休戦会談は捕虜問題で接点を見つけることができず
双方が 攻撃をくりかえしますが陣地戦になり大勢は
動きませんでした。

米軍は北の水豊ダムを爆撃しましたが 大勢には
たいした影響はありませんでした。
会談は無期延期になっていまいました。

米軍も中国軍も疲れて戦争を終結させる方向を
模索していましたが 双方ともメンツを保つ意味の
小競り合いを続けていたのです。

1952年の米国の大統領選挙で戦争終結を公約し、
共和党から出馬して当選したたアイゼンハワーが
終結に動き、ソ連のスターリンが急死したことで 
休戦会談は急速に妥協点を求め始めたのです。

これに 猛反対したのが韓国の大統領の李承晩です。
南北が分断された状態で固定される事を嫌ったのです。

北に帰りたくないとする捕虜の2万5千人は釜山に居て、北に
帰る意思のある捕虜は巨済島に収容されていました。
李承晩は北進を主張しますが大国同士の意思には
勝てない不満で休戦会談を壊す事を考えました。

釜山にいた捕虜を釈放し、市民に呼びかけして捕虜を
匿い 韓国軍に編入したのです。

共産側は激怒しましたが 米国大統領が釈明に奔走し
休戦会談の終結にもっていったのです。

李承晩は 米国から2億ドルの援助資金、軍事援助、
長期経済復興の約束を取り付けて、会談の妨害を
しないことを約束したのです。

会談は進みましたが、李承晩は署名を拒否し
南を除き 米(国連)、中、北の3国で休戦署名が
行なわれ長い戦争は停戦したのです。

戦争は終結ではなく休戦の締結なので 南北の両国とも
自己を正当な政府として他を傀儡政権と非難しています。

南北が国連にそれぞれ加盟した現在 両国はこれからも
別々の道を進むのでしょうか?

また 公海上に独自の経済水域を設定した李承晩ラインを作り日本の漁船の拿捕を始め、
内政では政権維持のため暴力団を保護し野党を攻撃したのです。

共産勢力を封じ込める政策を進める米国は日本とのトラブルや内政上の混乱に苦慮していました。

大統領選挙で不当に介入し 知識層から糾弾され困窮しました。

それで不正選挙を糾弾するデモの鎮圧で死傷者が多数出て民心を失った李承晩は
ハワイに亡命し、追放 または追い出されたのです。
米国は4・19革命下記参照 大統領権限代行 許政 新政権を支持したのです。

彼が現在の朝鮮人の反日の基礎を作ったのです。


参照
4,19学生革命

1960年に発生した韓国の学生革命。四月革命ともいう。3月 15日に行われた大統領選挙の
不正糾弾と馬山事件の責任追及を要求する4月 19日の学生デモに端を発した。
事件の背景にはイ・スンマン (李承晩) の独裁政治と過酷な言論弾圧が存在したが,
直接の原因となったものは,不正選挙である。
不正糾弾の運動は当初選挙関係者と高校生を中心に展開される傾向にあった。
しかし選挙当日,野党色の強い南西部の漁港馬山で高校生,市民が警察隊と衝突,
警察隊の発砲でデモ側8人が死亡するという惨事が起ると,これに抗議する運動が全国に波及し,
運動の担い手も高校生から大学生,市民へと拡大した。
この傾向は4月 11日の第2次馬山事件 (第1次事件の犠牲者金朱烈の死体発見を契機とするデモと
それに対する発砲事件〈死者2人〉) 以後加速度的に発展した。
19日のデモは,ソウル大,延世大,高麗大,成均館大,東国大,中央大などのソウル市内の各大学のほか,
釜山,光州,大邱などの大学生,高校生も参加して大規模に展開された。
これに対し政府は,警備戒厳令,非常戒厳令を発布し,陸軍部隊を投入,ソウル市だけで 108人の死者を出す大惨事を引起した。
この間,アメリカはイ・スンマン政府の弾圧策に露骨な干渉を行い,
23日には野党民主党のチャン・ミョン (張勉) が副大統領辞任の声明を発表した。
しかしイ・スンマンは,24日イ・キブン (李起鵬) の副大統領当選辞退と「超党派」内閣の組織によって
事態を打開し,みずからは行政の最高責任者にとどまる方針を明らかにした。
つまり強欲爺はなお居座ろうと画策したのです。

それまで不正選挙糾弾と馬山事件の責任追及を主目標とした政府批判運動は,
ここにいたって初めて「イ・スンマン退陣」要求へと変化をみせることになった。
その突破口となったのが 25日のソウル市内 27大学の大学教授団によるデモ行進であった。
イ・スンマンの下野声明が発表されたのは,翌 26日のことであった。
イ・スンマンは5月 29日ハワイへ亡命,7月 29日の総選挙を経てチャン・ミョン内閣が成立した

つまり強欲な李承晩は韓国にいると暗殺される恐れがあり米国に逃げざるをえませんでした。

悪党の末路でした。