奴隷
かくも忌まわしき人間虐待


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海外の場合
日本の場合
朝鮮の場合

中国の場合


.古代日本の奴婢の制度

隋書倭国伝に「盗むものは、贓を計りて、物を酬いしめ、財なき者は身を没して奴となす。」とあります。
(p.33,石原道博編訳、「新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝中国正史日本伝(1)」、岩波文庫)

隋書倭国伝の記事は、日本の古代日本でも奴隷制度があったこと、
そして奴隷化が犯罪(盗み)に対する刑罰として行われたことを示しています。

一般に、人が奴隷にされる原因は、戦争捕虜の場合、刑罰として行われる場合、
人身売買の場合の三つが主なものです。

生口の意味については元来、捕虜又は奴隷とされていますが、これには種々な説があり、

  1. 捕虜を起源とする奴隷的身分である者。
  2. 捕虜とは無関係な奴隷とする説。
  3. 中国へ献上されていることから、単なる捕虜や奴隷ではなく、何らかの特殊技能を持つ者。
  4. その当時から中国では食人の風習があったので、そのための食材であったとする説。

などがあります。ちなみに儒教の祖である孔子(BC 551〜BC 479年)が、ひしお漬(注:参照)、
酢漬の人肉を好んで食べたことが記録に残っています。
江戸時代の儒学者たちは論語の「子曰(し、のた)まわく、孔子さまがおっしゃることには、」
と彼の言葉を儒教道徳の規範、金科玉条として教え崇拝しましたが、
実は孔子が漢民族の風習として食人の習慣があったことを、ひた隠しにしていました。

注:)
「ひしお、醢」とはなめ味噌の一種で、大豆と小麦で作った麹(こうじ)に食塩水や醤油を加えたもので、
肉や瓜、ナスなどを漬け込む為のものです。

[3:日本における奴隷(?)、
生口(せいこう)]

(1)、後漢書

後漢(25〜220年)の歴史を記した後漢書が編纂されたのは、後述する三国志よりも遅く五世紀のことですが、
その内容は三国志よりも古い時代のことが記されていました。
編者は范曄(はんよう、398年−446年)で本紀十巻、志三十巻、列伝八十巻から成っています。
その列伝の一つである後漢書の東夷伝によれば、紀元二世紀頃の日本には倭(わ)という国があり、
安帝の時代である永初元年(107年)に倭の国王である帥升等が、生口百六十人を献上して請見を願いでたとありました。
また57年に光武帝が倭の国王に、例の福岡県の志賀島で江戸時代に発見された、
漢委倭奴国王(かんのわのなのこくおう)
の金印を授けたとあるのも、後漢書の東夷伝による記述でした。

(2)、三国志、魏志倭人伝

正確に言えば、魏志(ぎし)倭人伝という題名の書物があるわけではなく、
西晋王朝(265〜316年)の歴史家である陳寿(233〜297年)が書いた三国志という歴史書の中に
、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)、三国の歴史が書かれています。
その中にある魏(ぎ)書の最後にある巻三十に 烏丸・鮮卑・東夷伝 があり、
そこには倭人に関する記述があるので、これを魏志倭人伝と呼びました。
したがって魏志東夷伝とする方がより正確な表現といえますし、そのように記述する本もあります。

邪馬台(やまたい)国やその女王卑弥呼(ひみこ)、その血統を継ぐ壱与(いよ)をはじめとする、
三世紀における日本の政情、風俗などについては、この記述によって知ることができますが、卑弥呼(ひみこ)については、

鬼道(きどう、妖術)に仕え、その霊力でうまく人心を眩惑している。
歳はすでにかなりの年齢であるが夫を持たず、男弟がいて彼女の政治を助けている。
彼女が王となってから後は、彼女を見た者は少なく、婢(ひ、下女?、女奴隷?)を千人侍らせている

とありました。その中で注目されることは、前述した後漢書と同様に、
生口(せいこう)
の存在でした。倭人伝における記述例を挙げますと、

景初三年(239年)の六月、倭の女王(ひみこ)が大夫難升米等を派遣し(帯方)郡に詣り
、(魏の)天子に朝貢(貢ぎ物を持って挨拶に伺うこと)したいと申し出てきた。
(帯方郡の)太守劉夏は、文官と武官を付けて(魏の都)洛陽に(倭の使節を)送った。
  1. 親しく魏倭王卑弥呼に詔(みことのり)を下す。帯方太守劉夏が使と共に汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、
  2. 汝が献じた男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて−−−以下省略。
  3. その四年(240年)、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口 ・倭錦・絳青・緜衣・帛布・丹・短弓矢を上獻す。
  4. 女王卑弥呼(ひみこ)の死後、国が乱れたが卑弥呼の宗女壹与(いよ)年十三才なるを立て王となし、国中遂に定まる。壱与は男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾玉二枚・異文雑錦二十匹を貢す。

注:)
帯方郡とは朝鮮半島中部西岸に、後漢末から313年まで約110年間置かれた、中国の郡の名前。

[4:奴婢と奴隷、人身売買]

三世紀の古代日本にはすでに賤民階層と言うのか、生口(奴隷?)と呼ぶ者が存在していましたが、
日本における古代からの奴隷については上記の件だけでなく、古事記、日本書紀の「奴(ぬ)」の記述によっても知ることができます。
大化改新の律令(りつりょう)文書に、奴婢(ぬひ)に関する規定がありますが、
奴婢とは律令制における賤民(せんみん)身分の一つであり、官有の公奴婢(くぬひ)と民間所有の私奴婢(しぬひ)があり、
いずれも売買や社寺への寄進の対象にされました。その当時、稲千束で奴婢を売買した記録が残っていますが、
奴婢(ぬひ)が現代でいうところの奴隷に該当するのか、
また生口と同じなのか、全く別の存在なのか、議論が分かれています。

この奴婢は、荘園(しょうえん)時代には農奴に転化しましたが、平安時代後期になると
戦乱、飢饉、重税に苦しんで逃亡農奴が続出し、
他方では森鴎外の小説「山椒(さんしょう)大夫」における姉の安寿(あんじゅ)姫、
弟の厨子(ずし)王の物語にあるように
、婦女子をだまし、誘拐して奴隷労働をさせる為に売り飛ばす人さらいや、人買が横行しました。
写真は伝承の地である京都府の由良川沿いにある、
「山椒大夫屋敷跡」に近い、宮津市に建つ安寿姫と厨子王


[12:日本人奴隷の輸出]
ポルトガル人が日本人を奴隷として売買

ポルトガル人は、それまでアフリカなどで奴隷貿易を営んできましたが、
15世紀にアジアに進出すると東洋貿易を独占し中国人を奴隷として買い込み、各地に売り飛ばす奴隷貿易を始めました。
日本においては1543年にポルトガル人が初めて種子島に漂着し鉄砲をもたらしましたが、その数年後から早くも
日本人を安く仕入れ、奴隷として海外へ売り飛ばす奴隷貿易が始まりました


その結果十六世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも
日本人奴隷は売られるようになり、天正10年(1582年)に ローマに派遣された有名な
天正遣欧(てんしょうけんおう)少年使節団
の一行も、世界各地で多数の日本人が
奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して、驚愕しましたが、
その会話が記録に残されています。
(写真は使節団の正使である伊東マンショ、十三才が、ローマ法王に拝謁に行く際の騎乗姿)

「我々の旅行の先々で、売られて奴隷の境遇に落ちた日本人を身近で見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣(牛や馬)の様に(同胞の日本人を)
手放す我が民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へ、あんなに安い値で掠って行かれ売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」

1607年に南米 ペルーの リマ でおこなわれた人口調査によれば、当時の人口二万五千四百五十四人のうち、
日本人の奴隷として男九名と女十一名がいたことが分かっています。
天正遣欧(てんしょうけんおう)少年使節に関する本を読むまで、いわゆるポルトガルとの
南蛮貿易
により多数の日本人が奴隷として、遠く南米にまで
売られていた事実を全く知りませんでしたが、
皆さんはご存じでしたか?。

注:)
天正遣欧少年使節とは天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名の、
大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣され、
八年後の天正18年(1590年)に帰国した四名の少年を中心とした使節団のことで、
イエズス会員の ヴァリニャーノ が発案しました。
使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になました。

天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布しましたが、
その理由は ポルトガル人が キリスト教の布教を熱心におこない神の恵み、慈悲を説きながら、
その一方で南蛮貿易において多数の日本人を安く仕入れ、
奴隷として船に連行し、海外に売り飛ばす事実を知ったからでした。
秀吉の言葉を伝える「九州御動座記」によれば、

バテレン( 注参照 )どもは、諸宗を自分達の キリスト教に引き入れ、
それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、
地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である

という記述がありました。

注:)
バテレン とは伴天連とも書き、ポルトガル語の Padre ( パ−ドレ、師父)の意味から、
キリスト教伝来に際して渡来した宣教師のことです。

日本人奴隷の貿易

天文11年(1543年)の鉄砲伝来の後、1540年代後半から始まったと考えられている。
16世紀後半にはポルトガルなどへ送られていた。

天正10年(1582年)にローマへ派遣された天正遣欧少年使節の一行が、
各地で日本人奴隷を目撃し、自国人と白人両方への憤りを報告書に記している。
この出来事によって棄教した使節の一員もおり、皮肉な結果となったという、事実が確認できない情報がある。
一方『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)には「売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、
ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、
そして数年もすれば自由の身となって解放される」という証言の記録がある。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉大坂城へポルトガル人宣教師ガスパール・コエリョを呼び、
日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。
コエリョはスペイン艦隊を呼び戦争の準備を行うなど秀吉に威圧をかけたが、逆に秀吉を激怒させる事となった。
コエリョの軍事行動は、バテレン追放令発布、高山右近の失脚、長崎の拠点接収で、未遂に終わる。

秀吉は、この事件が切っ掛けとなって、宣教師と深く付き合う事への危険性を認識し、以後はキリスト教を弾圧していく。
天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉バテレン追放令を発布。

慶長元年(1596年)、宣教師側で奴隷の売買が禁止される。

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別の記録
 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。
日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。
付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。
右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」
(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した
1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、
1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、
世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」
といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、
実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、
秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、
それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。
「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、
手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、
生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、
当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、
同じく『九州御動座記』に書かれている。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。
その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。
−−奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、
このエピソードからも十分に推察ができるだろう。
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その1、「植民地政策の尖兵として宣教師の布教が為されている」という観点からのキリシタン禁止令であった。
キリシタンの宣教は、世界史を紐解けば、西欧列強諸国の植民地政策と結びついていた。
ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)であった。
ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸した。
ルイスも改宗ユダヤ人であった。
彼らが宣教師となり、敵情視察の尖兵として送り込まれ、信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、
遂には植民地化するという政策が常套化していた。
秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしていた、と云う。

 その2、「植民地政策と重複しているが、布教は建前で、実は略奪ビジネスである」という観点からのキリシタン禁止令であった。
この頃、西欧列強諸国の一獲千金ドリーマーが、世界各地へ飛び出し、植民地ビジネスを手掛け始めていた。
宣教師たちはその布教のみならず植民地ビジネスを手引きする尖兵でもあった。

 ザビエルのゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた次のような手紙が残されている。
 「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような
相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。
もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、
大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。
堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。
日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)。
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。
なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、
日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。

 その3、「宣教師達は、戦国大名を懐柔し、奴隷売買 で荒稼ぎしている」という観点からのキリシタン禁止令であった。
ルイス・デ・アルメイダは、イエズス会の神父として来日したが、宣教師たちの生活を支えたり、
育児院を建てたり、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、
大分に病院を建てたりする他方で、奴隷売買を仲介した。

 鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(P249〜257)は次のように述べている。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、
女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

 『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。
ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、
もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、
白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

 日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

 数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、
数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。


その勇気があれぱの話だが」。

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キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却


 豊臣秀吉が宣教師追放令を出した理由は、スペインやポルトガルが日本を植民地化する下心を持っており、
宣教師がその先兵になっているということを知ったためだと、中学校ぐらいで習い、今に至るまでそれぐらいの認識しかなかった。
しかし、もう一つの理由としてキリシタン大名による日本人女性の大規模な奴隷輸出が、あったということを初めて知った。
現代の私たちは、高山右近らに代表されるキリシタン大名は、一般の日本人より高い倫理性を持っていたような
イメージを持っているが、日本人女性の奴隷輸出というおぞましい一面を持っていたのだ。
倫理観というのは時代とともに変遷する。現代の倫理観を基準に当時の人々を批判するのは、
慎重にすべきかも知れないが、当時でさえ、秀吉や少年遣欧使節の少年らが、
このキリシタン大名らの奴隷貿易を批判の目で見ていたとすれば、当時との日本人としても、
唾棄(だき)すべき事だったのではないだろうか。
 ただ、近世に至るまで西欧ばかりでなく、アジアでも奴隷貿易が行われていた。
特に西欧列強によるアフリカからカリブ諸島、北米大陸への奴隷貿易は大規模で、
列強が繁栄を築く一つのいしずえにもなっている。しかし、それは、他国の人間を商品として売買するのであって、
自国民を売り飛ばす訳ではなかった。
キリシタン大名が「自国民」を奴隷に売り飛ばすというのは、どういうことだったのだろうか。
それほど、日本人の民度は低かったのだろうか、それとも、キリスト教に改宗し、
神の国への復活を願うキリシタン大名らにとって、改宗しない日本人は、もはや自国民では、なかったのだろうか。
現代の北朝鮮の日本人拉致にも、つながる要素が含まれているのだろうか。
皆様のご意見をぜひ、お聞きしたいと思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<以下は引用コピー>

◆鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249〜 P282より

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、
女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、
日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
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<引用開始>
 コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
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 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人 奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。
日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。
右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」
(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した
1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、
1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で
多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、
実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、
秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、
それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。
「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、
手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、
生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、
当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、
同じく『九州御動座記』に書かれている。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、
ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。−−
奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。



私の意見

だいぶ同じ意見が並んでしまい申し訳ない。

諸兄 今までの話は遠い過去の話として考えておられぬか?


違います。現実の話です。
例えば ソ連は 日本が敗戦必死となったたった1週間前に参戦し
数十万の日本兵士を拉致し シベリアの極地で強制労働をさせた。
かの地で栄養失調 餓死 病死 虐待死をされた方は 何人おられるか?

その意向を受けた北朝鮮の金日成は朝鮮戦争において 韓国軍兵士 連合軍兵士を拉致し、虐待 殺したのです。
これは まぎれも無く人権無視 ジュネーブ協定違反である。

なお そのせがれの金正日は今も日本人 朝鮮人 外国人を拉致し、虐待をして返さないでいる。
自国民でさえ 体制批判をすると収容所で奴隷以下の虐待をしている。
かっての奴隷商人より 悪質ではあるまいか?

従軍慰安婦問題などと屁理屈はやめよ。
少なくとも彼女らは自分の意思で高級を得て稼いだ軍人相手の売春婦である。
鎖で手足を縛られたり 栄養失調で餓死した者はいない。
日本を侮辱する1部の不逞な輩のため言葉である。

この事実を声を大きくして叫び 抗議して何が悪いか?
それを不快に思うのは北朝鮮とその代理店の朝鮮総連 その支持者である。

私は朝鮮総連関係者から恫喝されているが 負けはしない。
決して我が同胞が無事 解放され悪党どもが謝罪し日本から退去するまで主張を繰り返します。

これが私を産み 育み 生かしてくれた日本への恩返しであります。
もう人生は半分以上無事 過ごせました、不満はありません。
残りの時間は反朝鮮で戦うつもりです。



明智大五郎