天草 四郎

本名は益田四郎時貞

悲運の少年大名



島原の乱(天草の乱:1637−38年)の首謀者と目された少年。しかし、その「素顔」を晒すことはついになかったとも云われる。
したがって、長崎に送られて晒されたという彼の「首」も、果たして「天草四郎」本人であったかどうか・・・謎に満ちた少年である。

彼は、時に、益田時貞/江辺四郎/大矢野四郎/天草四郎太夫時貞/天の四郎秀綱などの名で呼ばれ、
また洗礼名はジェロニモであったとも伝えられている。
恐らく、こうした複数の名前から、「天草四郎」という少年について、人々は憶測的なイメージしか持っていなかったのではないかと推測されて来る。
とりわけ、注意すべきは、「時貞」と「秀綱」の違いだろうか。
これは、二人の異なった人物ではないのだろうか?/いったい「天草四郎」とは、どちらのことを指していたのだろう?・・・
あるいは、ジェロニモという洗礼名を持つ少年は、さらに第三の少年だったかも知れない。

「天草四郎」が、一人であったにせよ、複数の少年たちの面影であったにせよ、それはそれでかまわないと思う。
天草四郎はこういう極端に美化されたものしか存在しない。




天草四郎像(原城)

天草 四郎(あまくさ しろう、元和7年(1621年)? - 寛永15年2月28日1638年4月12日))は、
江戸時代初期の吉利支丹農民反乱である島原の乱の指導者とされている人物。
本名は益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ/苗字は益田、通称は四郎、は時貞)。
洗礼
名はジェロニモもしくはフランシスコ。
一般に天草四郎時貞という名で知られる。
本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。
通姓の「天草」は戦国時代天草の有力豪族だった天草氏からと言われている。



天草四郎はこういう極端に美化されたものしか存在しない。
銅像 肖象画 たくさんあるが どれも共通性がない。

小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある、現在の熊本県上天草市大矢野島で生まれた、とされる。
しかし、宇土郡江部村(現在の宇土市)または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。
益田家小西氏滅亡後浪人百姓として一家で宇土に居住したという。
頭がとても良く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。

小西氏の旧家臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられており、
さまざまな奇跡を起こした伝説や、四郎が豊臣秀頼落胤豊臣秀綱であるとする風説も広められた。
島原の乱では十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わる。
幕府軍の原城総攻撃により討死。
首は長崎へ送られ、原城大手門前にて晒された





悲運の少年大名

と歴史では呼ばれているが?が付きます。
何故か? 検証しました。

現地では地元 天草の悲劇の英雄として観光の目玉であるがどうもウサン臭いのである。

彼とその側近集団は日本人を奴隷として海外に売り飛ばした奴隷商人首魁ではなかったか?です。

秀吉軍と原城をめぐる攻防とかは他でお調べください。いくらでもあります。
ここではあくまで暗部 奴隷商人として検証いたしました。

キリシタン大名

高山右近(ジュスト)代表的なキリシタン大名。追放先のマニラで客死
高山友照(ダリオ) 飛騨守。高山右近の父。畿内における最初期のキリシタン大名の一人。

16世紀末〜17世紀初めにキリスト教を信仰した大名。
洗礼を受け領内に教会を建て布教に努力。
九州の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、近畿の高山右近、小西行長らが有名。

17世紀半ばに禁教令により消滅。

主なキリシタン大名


キリシタン宣教師の野望



フランシスコ・ザビエル肖像。




鹿児島市のザビエル公園にある銅像。左はヤジロウ、右はベルナルド

またキリシタンは一夫一婦制を厳格に守り、女性の人権をも守った。
彼らは領主とは思えぬ 謙遜な態度で領民に接した。

女性の人権を守った? 違うでしょ。売り飛ばしたです。


キリシタン大名、高山右近が高槻城主であった頃、
現在の大阪府高槻、茨木地区には多数のキリスト教信者がいたが、
キリスト教に対する弾圧により、それが消滅したかに見えた。
しかし、一部のキリスト教信者は信仰を捨てきれず、
山奥深く潜み、隠れキリシタンとして隠遁生活をおくっていたという。


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キリシタン大名が50万人の日本娘を奴隷に売却

さて これが本題です。

 豊臣秀吉が宣教師追放令を出した理由は、スペインやポルトガルが日本を植民地化する下心を持っており、
宣教師がその先兵になっているということを知ったためだと、
中学校ぐらいで習い、今に至るまでそれぐらいの認識しかなかった。
しかし、もう一つの理由としてキリシタン大名による日本人女性の
大規模な奴隷輸出が、あったということを初めて知った。
現代の私たちは、高山右近らに代表されるキリシタン大名は、
一般の日本人より高い倫理性を持っていたようなイメージを持っているが、
日本人女性の奴隷輸出というおぞましい一面を持っていたのだ。
倫理観というのは時代とともに変遷する。
現代の倫理観を基準に当時の人々を批判するのは、慎重にすべきかも知れないが、当時でさえ、
秀吉や少年遣欧使節の少年らが、このキリシタン大名らの奴隷貿易を批判の目で見ていたとすれば、
当時との日本人としても、唾棄(だき)すべき事だったのではないだろうか。
 ただ、近世に至るまで西欧ばかりでなく、アジアでも奴隷貿易が行われていた。
特に西欧列強によるアフリカからカリブ諸島、北米大陸への奴隷貿易は大規模で、
列強が繁栄を築く一つのいしずえにもなっている。
しかし、それは、他国の人間を商品として売買するのであって、自国民を売り飛ばす訳ではなかった。
キリシタン大名が「自国民」を奴隷に売り飛ばすというのは、どういうことだったのだろうか。
それほど、日本人の民度は低かったのだろうか、それとも、キリスト教に改宗し、
神の国への復活を願うキリシタン大名らにとって、改宗しない日本人は、もはや自国民では、なかったのだろうか。
現代の北朝鮮の日本人拉致にも、つながる要素が含まれているのだろうか。
皆様のご意見をぜひ、お聞きしたいと思います。
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<以下は引用コピー>

◆鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249〜 P282より

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に
運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、
わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、
ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、
交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、
白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
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<引用開始>
 コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
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 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その一条の中に、ポルトガル商人による日本人 奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。
日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。
付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。
右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」
(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した
1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。
16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、
1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、
世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、
世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、
みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」
といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、
そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、
実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、
秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、
それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。
「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、
手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、
生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、
当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、
子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。
検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。
その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。−−
奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、
このエピソードからも十分に推察ができるだろう。


私や他の方の意見

中世 アフリカ沿岸 中南米 カリブ海沿岸でもポルトガル スペイン人が奴隷売買をしていた、とあります。
ポルトガル スペインは国技で奴隷売買を世界中でやっていた?、、
彼らの他国への侵略 植民地政策は奴隷狩が目的だった。キリスト教布教は隠れ蓑だった。

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十字軍の少年兵が奴隷として売られた話がありましたが、
日本人が奴隷として売られたとは、驚きです。
歴史の教科書に記載がなかった気がします。

 少年十字軍もそういえば、奴隷に売り飛ばされてしまったのですね。
キリシタン大名によって、日本人が奴隷に売られた話は、
教科書にも小説にもまったくと言ってよいほど、出ていませんね。
あまりに非人間的過ぎて、題材として扱いにくいのでしょうか。

本当に恐ろしい話ですね。人間は神の心と悪魔の心を合わせ持った存在だといいますが、
それにしても秀吉の時代のキリシタン大名の仕業は悪魔以上ですね。
日本人はキリスト教に良いイメージを持ちすぎているかも知れません。

エルサレムを占領した十字軍は、イスラム教徒に対して本当に悪魔としか言いようがない残虐行為を行っています。
十字軍は「異教徒を大勢殺すほど、神の御心にかなう」と信じていたそうです。
現代の取り澄ましたキリスト教のイメージとは、大違いです。


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情勢

ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、
拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていった。
西国の大名たちが、軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、
宣教師たちの布教を許可したことが大きな要因であった。
肥前の大村純忠はキリシタンに理解を示すことで、当時、平戸でトラブルを起こしていたポルトガル船を
自国内の横瀬浦に寄港させようと考え、1563年(永禄6)に受洗して
初のキリシタン大名となり(洗礼名バルトロメウ)、長崎をイエズス会に寄進した。
このあと、九州では78年(天正6)に大友宗麟(フランシスコ)、
80年(天正8)有馬晴信(プロタジオ)が受洗した。
一方、キリシタンは畿内にも浸透していくが、当初は大名の保護を得られず、
民衆への布教から開始された。
しかし64年(永禄7)頃、三好長慶、松永久秀の家臣たちが日本人宣教師ロウレンソの説教を聞いて入信したのを契機に、
高山友照(ダリオ)・右近(ジュスト)父子も受洗し、
その後小西行長(アウグスチノ)、蒲生氏郷(レオン)、織田有楽斎(ジョアン)、黒田如水(シメオン)・長政(ダミアン)らも入信した。
彼らの保護でキリシタンは大いに普及したが、
87年(天正15)豊臣秀吉のバテレン追放令以前に大村、大友の両大名は死亡し、小西行長は関ヶ原の戦のあと刑死、
高山右近はマニラに追放となって、ついにキリシタン大名は絶えてしまった。
キリシタン大名は家臣や領民の統制をはかるために神を絶対視し、
神社仏閣を焼き払ったために領民や諸大名たちから反発を受けたが、
こうしたことが原因となって禁教令が促進されたともいえよう。


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私の意見

何故 大名たちがキリスト教に入信したのか?
それに見返る莫大な密貿易による利益があったのではないか?
輸入するものは 鉄砲 火薬である。
しかし当時日本から輸出する主な産業品はなかった。
それでは何故 交換貿易が成立したか?
日本から輸出したのは若い娘である。

この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、
1560年代頃からポルトガル スペインの奴隷貿易航路になっていたのです。


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情勢

 戦国時代の末、キリシタンが伝えられた頃の島原半島は、高来地方と呼ばれ、有馬氏が支配していた。
 1563年にキリシタンの布教が始まり、有馬の大名ドン・アンドレア有馬直義、
その嫡子ドン・プロダジオ有馬晴信が洗礼を受けてキリシタン大名となったので、
家臣や領民の多くがキリシタンになり、島原半島一円にキリシタンが広がった。
 中央では5年後の1568年に織田信長が足利義昭を奉じて入京し、
信長の天下統一が始まると言う時代であった。
1580年には北有馬の日野江城下に、セミナリオと呼んだ、
現代の中学と高校を合わせたようなキリシタン学校も設立されて、
島原は長崎と並ぶキリシタン文化が栄えた所となるのである。

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キリシタン大名・有馬晴信
 晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊 し、
仏教徒の目の前で放火したりした。またキリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、
晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を 没収した。
領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超 える人々が改宗したという。  
晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、
インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。

つまり奴隷狩です。

同時期のヨーロッパでは、1618年から1648年まで、ドイツを 舞台にして周辺諸国を巻きこんで
プロテスタントとカソリック が戦った「30年戦争」が起こった。
いわゆる宗教戦争の最大 のもので、戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺、暴行略 奪、住居の破壊などで
人口の30パーセントから90パーセン トが失われたという。
こうした悲惨な経験から、ヨーロッパで は、信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していく

秀吉は、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキ シコやフィリピンのように、
我が国を侵略する野望を持ってい るのではないかと疑い始めた

宗教の名で他民族を侵略する。8回に及ぶ十字軍の遠征と同じです。

十字軍の遠征については 今 まとめていますから後ほど 掲載します。

戦って死ぬことで天国へ行ける
 四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ。そうす れば天国へいけるであろう、
しかしそれを怠れば地獄へ堕ちる であろう」と籠城の一揆勢に督戦した。
戦って死ぬことで天国 へ行ける、という教えである。
この思想は支配者 指揮官側に都合がよい。
今でもイスラム過激派の指導者はそう煽動して無知な市民に自爆テロをやらせていますが。

これらを念頭において次をお読みください。



キリシタン弾圧の嵐、吹き荒れる

キリシタン文化を謳歌していた天草に、大きな転機が訪れる。キリシタン大名の小西行長が
関ヶ原の戦いに敗れると、天草領は肥前唐津領主・寺沢広高に与えられた。 寺沢は天草の検
地を行って4万2000石としたが、これは実際の2倍の石高にあたる。以後、天草の人々は重い
年貢に苦しめられることになった。さらに、全国的なキリシタン弾圧の暗雲が、キリシタンの島・
天草にも重くたれこめてくる。 「伴天連門徒ご禁制なり。もし違背の族あらば、たちまちのその科
(とが)をのがるべからざる事」慶長17年(1621)の禁教令である。 すみやかに天草から伴天連

を追放し、切支丹を絶滅せよ! 将軍の命を受け、寺沢広高は本格的なキリシタン弾圧を始め
る。 「25年後、16歳の天童が現れてパライゾ(天国)が実現するであろう」 そんな予言を残し
て、上津浦(有明町)にいたママコス神父はマカオに追放された、と伝えられている。


信仰の炎はさらに燃え上がり

寛永11年(1634)、全国的な大凶作となり、天草でも飢饉が続き、餓死者が続出した。 
そうした中でも年貢の取立ては厳しく、キリシタンの探索・弾圧は容赦なく行われた。
ポルトガル人コレアは、「百姓たちで年貢を納めることができなければ、税吏はその妻子を引き立て、
妊婦といえど容赦なく極寒の凍った水中に投じた……」と報告をしている。 
その頃、どこからともなく、こんな奇怪なはやり歌が天草の村々に流れてきた。 
「・・・正月は縮みて世は末に、霜月そろりはこぞろり、明3月はさんほろり・・・」 
やがてくる血の惨劇を予兆するかのように、異常気象や、
季節外れの花々が咲き乱れたと伝えられている。

乱、勃発する

そして、時代は天草四郎を呼び求めた。 幕府の禁教令から25年後の寛永14年(1637)、
天草四郎の父・益田甚兵衛、小西家の浪人・渡辺小左衛門などを中心に天草と島原の農民たちが蜂起した。 
世に言う「天草・島原の乱」の勃発である。
口ノ津(長崎県口之津町)で年貢が納められなかった家の妊婦が寒中の川にさらされ、
胎児と共に殺されるという残虐な事件が起きた。 
これをきっかけに、人々の怒りは爆発する。 まず、火の手は島原で挙がった。それに呼応するかのように天草へ。 
大矢野島、天草下島を中心に、一揆の勢いはまたたく間に天草全土に燃え上がった。
「キリシタンたちは死をおそれていない。たとえ死んでも、また生き返れると信じている」と、戦いの参加者は報告している。
これはイスラム教徒の聖戦 ジハードと同じです。指揮官には便利な思想です。
一揆軍の総大将は、当時15歳の天草四郎時貞。彼らの計画はこうだった。
島原城を落とし、富岡城(苓北町)を陥落させ、長崎を占領した後、西日本の諸侯から全国のキリシタンに呼びかける。
 そして幕府を倒し、キシリタンの国家を築く・・・。
そんな地上の゙パライゾ゙を信徒たちは胸の内に思い描いていたのだろう。 
大島子(有明町)の戦い、本渡での合戦と、勢いに乗った一揆軍は1万2000人に
膨れ上がり、目指す富岡の城を総攻撃。 
しかし、どこにそんなに武器 火薬があったのか?
密貿易 若い女の身体の代償である。
しかし、難攻不落の富岡城を攻めあぐね、キリシタン軍は総勢3万7000人。
中には女子供や年寄りもいた。 籠城すること3ヶ月。
寒さの中食料も矢弾も尽き果て、諸藩の総攻撃の前に一揆軍は
「サンチャゴ!」と叫びつつ、ことごとく崩れ落ちていった。
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他の方の意見

天草四郎があれだけ最新鋭の鉄砲で武装できたのも、奴隷狩りの豊富な資金があったからです。
彼らは現在の絵や小説やドラマに描かれているようなムシロ旗に竹槍の武装などしてないんですね。
鎧を着て、銃で武装した組織的武士団です。
戦前までは、この事実はよく知られていたそうです。
そのため、古い物語などに出てくる天草四郎は魔回転生に出てくるような化け物として描かれています。
しかし、戦後はあべこべに日本人がキリスト教徒を迫害したのだと教科書で教育しています。
奴隷貿易で子供や女性を連行されたのは日本人の方なのに。


日本の歴史教育ではキリシタン殉教者の悲劇は教えます。
しかし、天正少年使節団が報告した日本人女性50万人が奴隷として売買されていた悲劇を、
火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を、どうして教えないのでしょうか?

確かに宣教師とバテレン商人が、日本の一部の勢力と商売をしていたようですが、
彼らに日本人を引き渡していたのは、日本人ですよね。

宣教師が夜中に民家に押し入り、誘拐していたわけじゃなく、日本人の仲買人が民家から買って、
バテレン商人に売っていたのだと思います。
仲買人は信者でもなかったと思います。
それを指揮していたのがキリシタン大名だとしても、彼らも日本人。

今の倫理観と違っていたので、宣教師もバテレン商人も日本人仲買人もキリシタン大名も、
人を家畜として売ることになんの罪悪感も無かったのだと思います。


秀吉が激怒した理由は、
「検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことが
その背景にある。」だと思えます。

秀吉は哀れに思ったというより、九州勢力が大量兵器を使って攻めてきて
動乱を起こされることを危惧したからだと思います。

秀吉の朝鮮討伐の際に、やはり日本の商人が、多くの朝鮮人をポルトガル商人に売っていたようです。
秀吉自身が指揮していたという痕跡はありませんが

キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を重く受け止めねばならない。
 こうした仏教・神道迫害は、他のキリシタン大名の領地でも 広く行われた。
そのために天正15(1587)年、豊臣秀吉は伴天 連(バテレン)追放令を出した。

その理由は、第一に宣教師に よる信仰の強制、
第二にキリシタンによる寺社の破壊と僧侶へ の迫害、
第三に宣教師たちの牛馬の肉食、
第四にポルトガル人 による奴隷売買であった。
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コエリョの画策とバテレン追放令


 翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に 下ると、
コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督 のような格好をして出迎えた。
日本にはまったくない軍艦なの で、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。  
その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数 の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。
秀吉は軍 事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると 確信し、
その日のうちに宣教師追放令を出した。  
コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン大 名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。
そして自分は 金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。
しかし、 この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。  
コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵が あれば、要塞を築いて、
秀吉の武力から教界を守れるとフィリ ピンに要請したが、その能力がないと断られた。
コエリョの集 めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知ら れずに済んだ。.
秀吉のキリシタンとの対決
 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、ス ペインやポルトガルのシナ征服への
対抗策であったという説が 出されている。スペインがメキシコやフィリピンのように明を 征服したら、
その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇 の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。
 そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を 出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。
しか し、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、
独 力での大陸征服に乗り出した。その際、シナ海を一気に渡る大 船がないので、
朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。  
文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、
日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指 下にある」と脅している。
[3,p372]  慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を 行っていた
フランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名をわざ わざ長崎に連れて行って処刑した。
これはキリシタン勢力に対 するデモンストレーションであった。
一方、イエズス会とマニ ラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、
という対抗手 段をとった。丁々発止の外交戦である。

天草をスペイン艦隊の基地に


 全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、
キ リシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼 るべきだという意見が強く訴えられるようになった。
1590年か ら1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クル スは、
1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会 総会長に出している。
要点のみを記すと、  日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。
そこでも しも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国 を襲うことが出来よう。
この地は島国なので、主としてそ の内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包 囲することは容易であろう。
そして敵対する者に対して海 上を制して行動の自由を奪い、さらに
塩田その他日本人の 生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろ う。・・・  
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と 協定を結び、
その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るよ うにする。
このためには、天草島、即ち志岐が非常に適し ている。
なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り 囲んで守るのが容易であり、
また艦隊の航海にとって格好 な位置にある。・・・  
(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設する ことの利点について)日本人は
教俗(教会と政治と)共 にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・
多く の日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイ ン人の間で育てることになるだろう。・・・  
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべ きシナ征服のために、
非常にそれに向いた兵隊を安価に日 本から調達することが出来る。
キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、
そ こを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、 というのは、
すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進 めてきた常套手段であった。
 また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス 会に寄進しており、
ここにスペインの艦隊が入るだけでクルス の計画は実現する。
秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシ タンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。


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私の意見
まったくそのとおりですね。
つまりキリスト教布教を名目にしたポルトガルの日本侵略だったことがわかります。
奴隷売買も其の中の重要な要素でした。

つい 最近 アフガンで朝鮮人キリスト教徒によるイスラム圏への布教活動
それを拉致したタリバンとの事件がありました。
キリスト教を美化 賛歌した話は他にいくらでもありますからそちらへ。
ここの場合 こういう話もあります。
朝鮮人のキリスト教の場合 信者になると月収の1割を毎月教会に寄付するそうです。
ですから4000人も信者を集めますと 莫大な大金持ちになれます。
それで信者(お金)が欲しくて異教徒 イスラムの地まで出稼ぎに行った、と考えられますね。

当時 ポルトガル スペインの宣教師の目的はなんだったのでしょうか?
ハッキリ言って 日本民族への侵略です。
中世の十字軍と共通していませんか?
単に純粋な布教活動でしたら、 船の建造 乗り組員の給料 経費等で事業として成り立ちません。
密貿易です。経費を上回る利益を上げねばなりません。
日本の大名に鉄砲 大砲 火薬を売り込み 代償に若い娘をさらい 奴隷として
売り飛ばし 暴利を得る、、ではないでしょうか?
ただし1部の記述に50万人とあるのは少し疑問です。
当時の九州地方にそんなに若い女がいたか?です。
当時日本の総人口は1200万人という説があります。
少し割り引いたほうがよいかと。
いずれにしても植民地化 奴隷供給元としての侵略です。

天草四郎はだれだったのか?
天草四郎」とは一体どんな人物だったのだろう。
 謎とロマンに彩られたこの少年は、絵画や
彫刻、詩歌などの題材としても登場する。しかし、実在の人物としての四郎は、いまだ多くの謎に
包まれたままだ。 どこで生まれたのか? 様々な地名は挙がるが、定説はない。 15〜16歳の少年に
3万7000もの一揆軍を統一する力があったのだろうか?アイドル説、カリスマ説とこれも諸説ある。
天草四郎は美少年だったのか?『耶蘇天誅記』によると「当年御令十五才、容顔美麗ニシテ・」とある。

島原の乱 天草四郎軍が何故 巨額の軍資金 武器を持っていたか?
幕府軍と互角に戦う戦力があったか?です。

これはキリシタン大名が若い娘を奴隷として売り飛ばし 
莫大な利益を上げていた、と考えるのが妥当です。

まだ考えると天草四郎は実在しなかった、です。
奴隷商人 大名 地方豪族の統治集団がシンボルとしてでっちあげた架空の人物とも考えられます。
なぜなら 絵や賛歌 銅像 エピソードはいくらでもありますがその出生 生い立ちがありません。
当時 人口は現在ほどあったとは思えません。今の半分か3分の1くらいでしょう。
まして農民でなく武士階級でしたらはるかに少ないはずです。
身元不詳の指揮官などいますか?実在しないマスコット 像を奴隷商人達統治集団が捏造し、
キリスト教を美化した、と言うのが私の意見です。
同じ17歳でもフランスのジャンヌ・ダルクは実在したそうですが。




元和7年(1621)、小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある、
現在の熊本県上天草市大矢野島で生まれたと伝わる天草四郎の
本名は益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ)と言い、
洗礼名はジェロニモ。

彼が起こした奇跡とは...

「ある日、天から舞い降りた鳩が四郎の手のひらで卵を産み落とした。
その卵を割ると中から聖書の一節が出てきた」
と、あります。

 四郎は習わぬのに文字を読み、キリシタンの講釈を行い、ま た海上を歩いて見せたという。
そして、次のような檄文が流布 されていた。  
キリシタンになり申さぬ者は、日本国中の者ども、デウ ス様(神)より左の御足にてインヘルノ(地獄)へ、
御踏 みこみなされ候間、その心得あるべく候。

 押し寄せた一揆勢は、城下町で放火・略奪を行い、逃げ遅れ た女性を拉致した。
城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を 切り、指物にして、城の大手口に押し寄せた

キリシタンになら ないものは誅伐して宗門を守るつもりであるから言っています。
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この話など オウム真理教の麻原彰晃の言い分と同じですね。

異教徒を殺 害し、その寺社を破壊することが神に奉仕する道である、など という中世的思想は、
イエス・キリストの本来の教えとは異な るものと推察します。

今でも某宗教は他宗教は邪教である。と流布しています。
信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していく事を確認すべきです。

政教分離とは今まで述べたように宗教を政治から守るではなく、
政治 国民を宗教から守るというのが主旨です。逆に勘違いしている方がいます。
十字軍の遠征 タリバーンの住民虐殺 イスラム過激派のテロ
宗教が政治 国民を破壊しているのです。

参照

キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog154.html

宗教による政治への攻撃です。

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国家の独立を守る戦い

 家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリ シタンびいきで、
大阪城にこもって、スペインの支援を受けて 徳川と戦うという事態であった。
当時の大阪城内には、宣教師 までいた。
大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、
キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放して いる。  
1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、
さらに1637 〜38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌 39年に、
ポルトガル人の渡航を禁じた。
これは鎖国と言うより、 朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、
正確には キリシタン勢力との絶縁と言うべきである。
この場合 キリシタン勢力とは日本を植民地化しようと狙ったポルトガル スペインのことである。

[4]  キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立て ることと、
日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一 絶対のキリスト教を広めることは、
ともに「人類の救済者」 としての疑いのない「善行」であった。

その独善性を見破った 秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだっ た。
これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピン のように、
スペインの植民地とならずに済んだのである。
過去に同じ事例で元寇があります。

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他の方の意見

 今回の『キリシタン宣教師の野望』とても興味深い内容でし た。
今までキリシタン宣教師がこのような考えを持って、日本 に来ていたなんて知りませんでした。
 こういった話 にはとても興味を持っています。
しかし、私の周りを見る限り こういった話を共に語り合うことができる友人は1人か2人し かいません。
私がこういった話をするとみんな引いてしまいま す。
みんなびっくりするほど無関心で戦争のことについてなど まったく知らないのです。
私は戦争についての知識が多少ある ので、クラスでは戦争マニアで通っています。
 それほどまでにみんな知らないんです。
どうしてみんなはこ れほど無関心なのでしょうか?
それとも私がおかしいんでしょ うか?時々疑問に思います。
正しいか正しくないかは別にして こういったことをみんなで討論し合うことは、とてもすばらし いことだと思います。
そして、多くの人がこういう知識をもつ べきです。

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幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。 島原藩主松倉勝家は乱を引き起こした責任から、
大名
としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。

松倉勝家は幕府により打ち首になりました。とあります。
処刑としても普通は武士階級は切腹ですが 打ち首は異例ですな。

続きはのちほど。


















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