中国では食人の風習

生口の意味については元来、捕虜又は奴隷とされていますが、これには種々な説があり、

  1. 捕虜を起源とする奴隷的身分である者。
  2. 捕虜とは無関係な奴隷とする説。
  3. 中国へ献上されていることから、単なる捕虜や奴隷ではなく、何らかの特殊技能を持つ者。
  4. その当時から中国では食人の風習があったので、そのための食材であったとする説。

などがあります。ちなみに儒教の祖である孔子(BC 551〜BC 479年)が、ひしお漬(注:参照)、酢漬の人肉を好んで食べたことが記録に残っています。
江戸時代の儒学者たちは論語の「子曰(し、のた)まわく、孔子さまがおっしゃることには、」と彼の言葉を儒教道徳の規範、金科玉条として教え崇拝しましたが、
実は孔子が漢民族の風習として食人の習慣があったことを、ひた隠しにしていました。

注:)
「ひしお、醢」とはなめ味噌の一種で、大豆と小麦で作った麹(こうじ)に食塩水や醤油を加えたもので、肉や瓜、ナスなどを漬け込む為のものです



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切断頭骨121個 中国で見つかる 専門家「人骨」 事件の可能性か 西日本新聞
【北京4日傍示文昭】中国北西部の甘粛省天祝チベット族自治区で、まゆの部分から上部が切断された頭骨ばかり121個が発見された。
頭骨を調べた専門家が「すべて人骨とみられる」と指摘したことから、警察当局は刑事事件に発展する可能性もあるとみて、
DNA鑑定を行って調べている。中国紙の新京報が伝えた。
 同紙によると、頭骨は3月27日、袋に入れられ、放置された状態で見つかった。
当初はサルの頭骨との見方が有力だったが、地元の蘭州大教授が調べた結果、人骨の可能性が高いことが分かったという。
 同教授の鑑定によると、頭骨の年齢や性別、死亡時期などはさまざまで、骨はのこぎりで切断されていた。
また、のこぎりで切断した痕跡が鮮明なことから、切断してからそれほど時間は経過しておらず、いずれも死因と骨の切断は無関係という。
 地元では「墓地を盗掘して頭骨を掘り出し、切断した」「工芸品にしようとしたのでは」などとの憶測が飛び交っているが、すべては謎のまま。
警察当局は「DNA鑑定で人骨と確定すれば刑事事件になる」としている。 =2006/04/04付 西日本新聞夕刊=









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「墓地を盗掘して頭骨を掘り出し、切断した」
「工芸品にしようとしたのでは」
噴飯です。
お前ら食ったんだろ?

例えば、日本国内では既に廃刊となった「食人宴席」という本がある。
文化大革命の時、中国各地で階級闘争を大義名分に「走資家」や「四類分子」と呼ばれた無辜の民や党の実務者達が
恨みや妬みをもって糾弾会で吊るし上げられ、生きたまま腹を割かれ、扇動者が心臓や肝臓を鷲掴みにする。
その後、数百の民衆が奇声を挙げ殺到し、皮や全ての臓器を自宅に持って帰り、煮て焼いて食べる。
反革命分子の人肉を食らうことが、党への最大の忠誠心の表れ。
但し、心臓と肝臓と性器を食えるのは、その糾弾会主宰者の特権だったとか。

文革の時、食われた中国人民は数百人とも数万人とも数十万人とも数百万とも言われます。
総死者数は数千万ともいう。死傷者数は億ともいう。
結論は、誰も正確な犠牲者数が分からんのですよ。なんせ中国だから。
間違いないのは、日中戦争を桁違いで上回る犠牲がでた事。
これらは今から僅か30年〜40年前の出来事なのです。
(その後、天安門事件に繋がる・・・・)

政敵の生き肝を食らい、墓を暴くのは中国4千年の歴史。
中国残留孤児を助けたのも中国人。
大変難しい民族です。

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中国では昔、軍隊は行軍の際には食料として生きた人間を連れていました。 中国以...

中国では昔、軍隊は行軍の際には食料として生きた人間を連れていました。

中国以外でも軍隊で生きた人間を食料として連れて行軍した様なことはあるのですか?


補足
中国人は足のあるものはテーブル以外は全て食べるということが言われています。本当だったんですね。
生きた牛や豚を食料として行軍するのと比べ人間のことが場理解できる人間を食料として行軍するほうがはるかに容易です。
恐るべし中国人ですね。



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究極の食材に人肉があるが、古来からの中国の喫人(食人)風習は有名。

★ ある王様は、近隣の赤ん坊をすべて食い尽くしたという。

★ 肉屋には「二本足の羊」というものが売られていたという。
二本足の羊・・・、人間である。
肉屋にぶら下げられては、人権が・・・。
あ、そういう問題では全く無いね。
人権は言わない約束。


ある工場では大きな臼がいっぱいあって、そこに生きている人間が放り込まれて、
人間の「つみれ」が、ゴリゴリとつくられていたという。
すごい世界だな〜〜〜〜〜〜。

孔子も、最愛の弟子が政敵につかまえられて、「人間の塩辛」にされてしまって、配達されたという。
孔子は、涙ながらにその塩辛を食べたと言うが、・・・、食べるなよ!

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食人宴席―抹殺された中国現代史

食人宴席―抹殺された中国現代史 2004年7月20日

鄭義(ツェン・イー)の『食人宴席』を読んだ。この本は何年も前に、根本敬さんに薦められた本だ。当時、早速本屋で買って読みはじめたものの、あまりにも凄惨な話で途中で放り出してしまったままだった。昨日の根本さんのイベントで思い出して、一から読み直してみた。今回はなんとか読了。
内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。手際のよい解体方法まで普及した。胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。
鄭義は中国映画「古井戸」の原作小説を書いた人物。センセーショナルな本だが、一応の文化人が書いたものだ。
鄭義は人食いについて糾弾しているのだが、中国では人食いに対するタブー感はあまりなかったのじゃないか、と思って、中野美代子の『カニバリズム論』をぱらぱらと読み返してみた。たしかに、人肉は「おいしい」し、漢方薬として食べられることもあるとして、西欧ほどのタブーではないと書いてあった。人肉饅頭なんて香港映画もあった。
魯迅の『狂人日記』は自分が食われるんじゃないかと妄想し恐怖する話だが、中国料理店によくある、大きくて真中に回転台のついた丸いテーブルのことをふと思い出した。エリアス・カネッティによると、同じテーブルで食事をとるという行為は、そのメンバーが「食べる側」の者であることを約束するためのものだという。つまり、そこでは「食べられる側」の人間はいない、ということを確認し、強調するために、会食という風習が生まれたというのだ。同じテーブルを囲んで食べているかぎり、そこでは共食いは起こらない了解があるのだ。(『群集と権力』)中国料理の大きな丸テーブルは、人食いが起こっても不思議ではない中国ならではの、「食われたくない」感情の賜物ではないか。




そう、上の写真のように死体の販売が存在していたのである。

所詮人間は、猿の進化した動物であるから・・・
人間の祖先のネアンデルタール人(ぼくは人間の祖先ではなく、人間と途中で分岐した生物論支持者だが)も、
現代では、仲間を助け、墓を作った形跡がると言われている。
しかし、明らかに仲間を食したと思われる物的証拠も出てきている。

そう、人間が人間を食うのは犯罪か、飢えをしのぐためである。
歴史的には、隠蔽されつつあるが、1958年代の中国、1822年のロシア、1997年の北朝鮮などがあげられる。






ポルポト兵士は、殺した人々の腹を裂き内臓を取り出し食べていたということである。






息子が、多分友人であろう、その頭を家に持ち帰る。
通常なら、家族中、大パニックになるのでは・・・

しかし、それをみんなで食べてしまったのである。
日本人には信じられないが、このような事が現実におきているのである。





また、首を持っている男と、その周りの友人・・・
皆笑顔である、殺人を犯した後の顔ではない、川で今晩のおかずの魚を捕らえた後、
スポーツ観戦でもしている雰囲気にしか見えない。
向かって左の首は、口まで裂けたナイフの跡から、明らかに同一人といえるであろう・・・
ただ、驚いたのは、首が2つ・・・彼らは少なくても2人の首を切り取っていたのである!






右手を高々と上げ、要するにガッツポーズである。
俺はやったぞというポーズ、顔つきである・・・

これは明らかに勝者への褒美といった部族の写真であろう・・・



凄まじい写真である。
顔つき、服装からで、どこの国か大体はわかるであろう・・・


これは、死体の処理を行っている最中に、群集ができ、その死体の一部をもぎ取っている写真といわれている。
もぎ取る理由?
それは、もちろん、食べるためであろう。

しかし、この写真、良く見ると胸の部分が綺麗に丸くそぎ取られている・・・
単に、拷問にあった後の写真なのかも知れない。

本当に、肉をとるために群集が集まったとしたら、先ず、ペニス、腹など、一番柔らかそうな部分が標的になるのではないかと考える・・・



上の写真と同人の写真かと思われる画像を入手した。

凄遅処死ということで述べていたが、管理人の調査を行っている限りでは、
この時代の処刑は肉を削ぎ、その肉を持ち帰り食う風習があった・・・
この写真も同様に食べられた可能性は高いであろう・・・
現在、この中国の喰人文化を纏めている途中である。



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焼かれた写真であろうか・・・
色々な焼死状態を見ているが、このような綺麗なのは始めて・・・本物なのか?



これは上記、焼死体を切り裂いているものと思われる。



そして分け与えるのであろうか・・・?



上の写真も、僅か100年ほど前のフィリピンでの写真である。
人間が焼かれ、顔だけになっている。
よく見ると、二人の人間が犬を焼いている・・・そう、人間も犬も彼らにとって、ただの肉なのだ!

現在は、確かに、このような原住民は減ってきているだろう、もちろん皆無とは言えない。
現在は、北朝鮮のような食料不足の為の食人。
快楽のための食人といった内容が多くなってきているであろう。

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次に説明しなくてはいけないのは広西大虐殺であろう・・・

生きたまま、はらわたを抜かれた学生・・・そして、中学校校庭で行われた人肉宴会。
1968年6月18日には3件の喰人宴会が開かれたという。

その中でも有名なのが、武宣中学喰人宴会ではなかろうか?

撲殺され肝は薬用として食われたのだ・・・
殺されたのは、図工の先生で、殺され、学生達が見守る中、数人の先生に川岸に運ばせた。
ある生徒が包丁を先生に渡し、肝を取り出すように命令した。

もし、やらなければ自分も食われると思った先生達は肝を取り出したのであった・・・


もちろん、肝以外にも肉を取られ、学校食堂で7,80人、革命委員会の自宅で4名、学校の廊下ででもこの、人肉を食いちらかしたのである。


正に、人肉大宴会である・・・


当時は、大鍋又は、空き缶で煮て食べたり、豚肉などと一緒に煮込む食べ方が多かった・・・


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捨てられた死体写真
ウクライナという国も結構、人肉事件が多い国である。

2004年にはホームレスが仲間を殺し肝臓を食った。
2002年には誘拐した18歳の少女を殺し食った4人組が捕まっている。

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飢饉で死体を食う中国人


近代でも食人を行っていた中国。

この国には「熟食(じゅくしょく)」という言葉がある。
殺した敵兵を意味し、それが食料ということも意味する。

兵士たちは夜には死肉を食らい、昼は死闘に明け暮れた。
ある部隊は食料を持たず、人肉を食らい、または塩漬けにして携帯した。

唐の末年は人肉を蒸して食うのがメインだったという。
また、肝臓は取り出し炒めて食ったといわれる。



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支那のカニバリズム

つい最近、ネットで中国においては胎児が食べられているという記事をみて驚いた。
胎児を切り刻み、料理している画像付きのものでとても気持ち悪いものであった。
以前、本で清代に親の結核を治すために、その息子が自分の股の肉を切り取って食べさせていたというのを読んで、カルチャーショックを受けたこともあった。
作家の黄文雄や小室直樹もカニバリズム(人食い)が中国の文化の特徴だと述べていた。
孔子は弟子の子路が斬り殺されて切り刻まれ「なます」にされたとき、塩漬肉を食べるのを断ったという。
また、ある村に役人が巡察にやってきたとき、貧しい家の娘がもてなすのに自分を食べさせたという。
これは夜伽ではなく、油をたぎらせた大鍋に裸身で飛び込んで自らを空揚げにしたのである。こういう記録がいっぱい残っているのだ。
正史にさえ、飢饉の時は共食いが行われたことが百回以上も記録されている。
北京原人の化石にさえ、骨が焼かれた痕跡があるので共食いが推測されている。

(左:『食人宴席』(カッパブックス) 右:『カニバリズム論』(福武文庫))
中国の亡命作家鄭義の『食人宴席』(カッパブックス)に数十年前の文化大革命時の広西での9万人の虐殺と食人犠牲者を調査した結果をまとめている。
とても酷たらしい内容である。
何の罪もない人が批判糾弾され、殴殺され、肉を削がれ、肝が切り取られ、人肉料理の宴会が始まるのである。
中国人は、殺しても憎しみが消えず、さらにバラバラにして食ってしまうのである。
これはA級戦犯靖国合祀問題に関する中国のしつこさが分かるような気がする。
日本では死んだら神様になるが、中国では憎い死者を食わなければ気が済まないのだ。
中野美代子の『カニバリズム論』(福武文庫)に魯迅の「狂人日記」や「薬」の作品がカリバニズムとして紹介されている。
さらに「戦国策」には主君が人肉が食ったことがないので、料理人が我が子を蒸して献じた話もある。
元代の優れた学者のエッセイに、人肉の味は「小児を以て上となし、婦女これに次ぎ、男子またこれに次ぐ」と言って人肉料理法をしるしている。
宋代の「鶏肋編」によれば、「子どもの肉は骨ごとよく煮える、女の肉は羊よりもうまい、男の肉はたいまつよりまし」となっている。
人肉一般は「両脚羊」と呼ばれ市場で売られていたのだ。
現代のシナ人は、子どもの肉より胎児の肉がうまいことを発見したのかもしれない。
日本は人食い文化の中国と親しくやっていくには深い河がありそうだ。


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北宋の末期、女真族の侵入で飢饉に陥った人々は官民問わず人肉を食べ始めた。
范温は義軍を組織して戦ったものの破れ、舟で臨安に逃れた。彼に付き従う兵士達は
人肉の乾し肉を携帯していた。彼らはそれを両脚羊(二本足の羊)と隠語で呼び、
そのうちで若い女の肉は「不羨羊」(羊より美味い)、子供の肉は「和骨爛」
(煮れば骨まで食べられる)と呼ばれた。

元王朝の末期、各地で叛乱が勃発し、食糧難に陥った官軍は人肉食に走った。
最上品は子供の肉、次に女。男の肉は最下層だった。
料理法は様々にあり、大瓶に放り込んで炙り焼きにしたり、網で焼いたり、
さらに趣向を凝らして熱湯をかけてから竹箒で皮をこそげ落とし、肉を切り取って
油炒めにして食べたりなどもした。
特に男の両腿と女の乳房は「想肉」(懐かしの肉)と呼ばれて珍重されていた。
あまりの旨さにまた食べたくなるからである。





五胡十六国時代の後趙の石季龍の太子、石邃は荒淫残虐な男だった。
美しい尼僧を誘拐しては強姦して殺し、死体は羊や牛肉と共に煮込んで賞味した。

隋末期の諸葛昴と高贊は互いに富や権勢を誇りあっていた。
ある日高賛が諸葛昴を宴席に招いた。食卓には十歳くらいの双生児の煮物が
頭、手、脚と別々の大皿に盛られていた。満座の客は吐き気を押さえるのが
精一杯だった。
数日後、今度は諸葛昴が高賛を招いた。お気に入りの愛妾を高賛に侍らせて
酒をつがせようとしたが、彼女が訳もなく笑ったのを見て叱りつけて退がらせた。
しばらくして、彼女は胡座をかいたままの姿で蒸し肉と化し、特大の銀皿に
乗せられて再び宴席に姿を現せた。頬には白粉がのり、あでやかな刺繍入りの
衣装を着せられている。諸葛昴は自ら太股の肉をほぐして高賛に取り分けた。
満座の客が卒倒する中、諸葛昴は平然と乳房の肉を美味そうに喰ったという。


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食人宴席―抹殺された中国現代史

食人宴席―抹殺された中国現代史 2004年7月20日 TrackBack

鄭義(ツェン・イー)の『食人宴席』を読んだ。
この本は何年も前に、根本敬さんに薦められた本だ。当時、早速本屋で買って読みはじめたものの、あまりにも凄惨な話で途中で放り出してしまったままだった。
昨日の根本さんのイベントで思い出して、一から読み直してみた。今回はなんとか読了。
内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。
文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。
裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。
広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。
中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。
文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。
まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。
第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、
言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。
手際のよい解体方法まで普及した。胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。
群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。