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アメリカとキューバの関係
1963年11月、NHKによる日米間の衛星中継放送の準備が着々と進められていた。
その放送内容として当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネデイのメッセージが予定されていたのだ。
しかしその衛星中継で伝えられたのは大統領のメッセージではなく、彼自身の暗殺のニュースだった。
アメリカ第35代大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネデイは1917年5月29日、マサチューセッツ州ブルックリンに生まれた。
父親であるジョゼフは当初長男のパトリックを将来のアメリカ大統領にと期待していたが、
第二次大戦の最中、ドイツ軍との空中戦で撃墜されてしまう。
兄の肩代わりとして政界進出を果たしたのが二男のジョンだった。
ケネデイ家の子どもたちはみんな幼い頃から政界を目指すべく育てられていた。
三男のロバートもやがてジョンを補佐するようになる。
ジョンが大統領就任まもなく直面した「キューバ危機」でソ連高官と直接折衝したのはロバートである。
このときのケネデイ大統領の対処がキッカケでCIAやFBIから強い反感を買ってしまったともいわれるが、
現時点では誰がケネデイ暗殺を策謀したのかその首謀者は不明である。
父親ジョゼフがやっていた商売の関係からマフィア陰謀説まであるくらいだ。
1963年11月22日のダラスは冬にしては日差しも強く暑いくらいだった。
そしてこの天候から大統領が乗るリンカーンコンチネンタルはオープンカーになった。
もし雨天だったら防弾ガラスのものになる予定だったのだが。
大統領選を控えケネデイはどうしても不利な選挙区であるダラスでの遊説が必要だった。
昼の12時半頃、大統領をのせた車はエルム街にさしかかって教科書センタービルが見えたところでゆっくりと左折していった。
その直後である。進行方向からライフルの発射音がするとケネデイの体が後方に大きくのけぞった。
銃弾が首をつらぬいたようだ。
つづけざまに前後から三発ほぼ同時に銃声がとどろき、大統領の体が前にツンのめった
次の瞬間、頭部が爆発したように赤い血煙をあげた。
大統領夫人のジャックリーンは半狂乱になって車のトランクの上まではい出してきた。
道路両脇にいた観衆もパニックになりみんな地面に這いつくばる。
四発もの銃声が前後から耳に飛び込んできたからだ。
ケネデイはすぐに病院へ運ばれたが頭部には握りこぶしくらいの銃創があり、すでに手のほどこしようもなかった。
この暗殺事件後のダラス警察の対応がまったくのナゾだらけなのだ。
すぐにケネデイ暗殺の犯人としてリー・ハーヴェイ・オズワルドが逮捕される。
彼は事件当日、大統領パレードを見渡せる教科書センタービルにいた。
そしてそのビルの中から彼所有のライフルも発見された。
そしてこの暗殺は彼の単独犯行と決めつけられたのだ。
ならば当日大統領パレードに来ていた観衆を恐怖でパニックに陥れた前後からの四発の銃声はどうなるのか?
スピーカーでもセットしておいたというのか?またケネデイが狙撃された地点からしてオズワルドは後方からしか狙撃することが出来ない。
しかしその弾道を検証すると後方から飛んでいった弾は途中でUターンしたのちケネデイの首を前方から貫通、
さらに車体に当たることなく再度Uターンして今度は後方から頭部に命中。しかもそれほどあちこち人体を破壊した
弾丸が車の中からほとんど原型のまま発見されたのだ。
のちにレーガン大統領が狙撃されたとき、体内から取り出された弾丸はぺちゃんこに変形していた。
したがってこの証拠物件を当時の人々はその摩訶不思議な弾道からマジカルブリット(魔法の弾丸)と呼んだ。
じっさいのところは誰かがオズワルドの銃から発射した弾丸を用意しておいて事件直後に車に放り込んだのだろう。
それが出来る人間となれば、SP(要人護衛官)や政府関係者くらいだ。
そのオズワルドも二日後にヤクザのジャック・ルビーに銃殺され、さらにそのルビーも二年後に殺害される。
のちにケネデイ暗殺事件の報告書をまとめたウォーレン委員会でもオズワルドの単独犯行説に終始している。
次期大統領選で再選されたらケネデイは、当時長期化し始めていたベトナム戦争にケリをつけて米軍を一斉退去させる覚悟をしていた。
彼が暗殺されたことによってベトナム戦争はさらに泥沼化していって1975年4月30日まで10年以上もつづくことになる。
この戦争で米軍が投下した爆弾は第二次大戦中に各国が使った量をはるかにこえている。
そうまでしたにもかかわらず目的は達せられず米軍はベトナムから敗走していった。
これ以降米軍は戦闘において最終目的を達成する能力がなくなる。
現在話題のイラク問題も前回の湾岸戦争でフセイン政権打倒は実現しなかったし、
最近のアフガンにおいても標的の人物はいまだ行方知れずである。
アメリカ合衆国が武力を使いたがる理由のひとつに大統領よりももっと強大な陰の存在、
そして他人の血が流れるのを好むナニカが存在しているようだ。
そのナニカの行動をはばむならば大統領ですら抹殺される。
合衆国の法律によりジョン・F・ケネデイ暗殺事件資料のすべてが公開されるのは2029年である。
しかしその頃にはすでに関係者のほとんどが首謀者も含めてもうこの世にはいないだろう。
キューバ危機
1962年,アメリカ合衆国と旧ソ連が核戦争ぎりぎりまで対立した事件。
▽アメリカのケネディ大統領が,キューバに建設中のソ連のミサイル基地の撤去を要求しキューバを海上封鎖して発生。
ソ連のフルシチョフ首相の譲歩で,キューバ危機は去ったが,世界じゅうを核戦争の恐怖におとしいれた。
主役はこの3人です。
米ソの全面核戦争の危機が迫ったキューバ危機における両国の指導者は、
アメリカはケネディ、ソ連はフルシチョフです。
米ソの全面核戦争が起こった場合の被害予測
(1963年 アメリカのハドソン研究所のシミュレーション)
・アメリカ人口60%(約1億4000万人)、ソ連人口40%(約1億人)が死亡
(1917〜1963)アメリカ合衆国の第35代大統領(在任1961〜1963)。
▽太平洋戦争では海軍に従軍。
43歳の若さで民主党から大統領に当選。
社会福祉や黒人差別の廃止にとりくむとともに,
キューバ危機*の処理や部分的核実験禁止条約の調印など,国際舞台でも活躍。
テキサス州のダラスで暗殺された。
フルシチョフとアメリカのジョン・F・ケネディ大統領
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(1894〜1971)旧ソ連の政治家。▽ウクライナの炭坑夫の家に生まれ,共産党へ入党。
1953年にスターリンが死ぬと党第一書記となり,のち首相を兼任。
1956年にスターリン批判*を行い,国内の民主化と資本主義国との平和共存外交をすすめ,
冷戦下の世界に「雪どけ」をもたらせた。
フルシチョフの回想録によると、彼は1962年の春にクリミア半島で休暇をすごしている間に、
アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。
フルシチョフはこの考えを現実化するためにラウル・カストロ率いるキューバの代表団と会談し、
ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。
アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、
アメリカ政府は1962年10月22日にその事実を公表、
失脚フルシチョフは激情家でも知られ、対外的には1960年10月の国連総会においてフィリピン代表の「反ソ演説」に腹を立てたフルシチョフは、
靴で机を繰り返し叩いて怒るなどの粗野な振る舞いを行い世界各国から批判を浴びた。
対内的にも、同志に対する叱責や暴言を繰り返し、党内に多くの敵を作ったとされる。こうした激越な振る舞いが災いし、ニコライ・イグナトフ、アレクサンドル・シェレーピン、ウラジーミル・セミチャストヌイ、レオニード・ブレジネフ
らが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落としを着実に準備していった。
ブレジネフはフルシチョフの暗殺をもたくらんだとも言われている。1964年10月、黒海沿岸のクリミアで休暇中のフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、ミハイル・スースロフからの突然の電話で
「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモスクワに呼び戻された。
10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。フルシチョフはこの要求を最終的には呑み、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の地位を辞任することに同意した。
後任にはレオニード・ブレジネフとアレクセイ・コスイギンがそれぞれ選ばれた
フルシチョフとヨシフ・スターリン
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フィデル・カストロ
コイツが戦争好きな悪党
Fidel Alejandro Castro Ruz
キューバ共和国初代国家評議会議長
カストロはスペイン移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギツの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。
ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。
1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学し法律を学ぶ。
大学では政治活動に参加、革命反乱同盟(UTR)に加入する。
ギャングにも身を置き、敵対する学生運動のリーダーを射殺するなど「ゴロツキと天才が同居した男」と、周囲から呼ばれた。
在学中の1948年には、アメリカのメジャーリーグ選抜と投手として対戦、3安打無得点に抑える。1950年に大学を卒業した。
卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。
カストロはオルトドクソ(保守)党から1952年議会選挙に立候補したが、
フルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターはカルロス・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。
その後、カストロは憲法裁判所にバティスタを告発した。
しかし請願は拒絶され、カストロは裁判所を糾弾した。
この後カストロは武装勢力を組織し、1953年7月26日に、130名の同志とともにオリエンテ州のモンカダ兵営に対する攻撃を行った。
攻撃者の80人以上が死に、カストロは逮捕され裁判で、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。
獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。
1955年5月に恩赦によって釈放され、2ヶ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移り活動を続けた。
1956年12月、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でメキシコから多くの他の亡命者と共に秘密裏にキューバへ帰国した。
それらは「7月26日運動」と呼ばれた。その時点でカストロはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。
キューバ革命後の1959年後半にカストロはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。
「7月26日運動」の最初の行動は1956年12月2日にオリエント州で始まった。
しかし激しい戦闘でオリジナルの80人のうちの18人だけが生き残りシエラ・マエストラ山地へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。
生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル・カストロ、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。
カストロの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。
1958年5月24日にバティスタはカストロの軍に対して17の大隊を送り出した。
数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、カストロの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。
1959年の元日、カストロの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、
カストロの軍はハバナを指揮下に置いた。
選挙結果を無効にされ、現在のバティスタ政権の独裁に憤りを感じたカストロは、
同士100余名と共にクーデターを起こす(1953年7月26日)。
多くの仲間が殺される中、カストロは逮捕され懲役15年の刑を言い渡される。
しかし、2年後に恩赦によって釈放され、キューバに亡命する。
そして、1956年12月に80余名の仲間を従えキューバのバティスタ政権に再戦を挑む。
上陸時に多くの仲間を失い、10名余りに減った組織で山中にこもりゲリラ戦を展開していく。
このカストロの「7月26日運動」と呼ばれた運動を多くの国民が支持し、10数名だった部隊は2年で数百人の部隊に膨れ上がった。
また、バティスタより派遣された多くのキューバ国兵士も軍務放棄も手伝い、この革命運動は加速していく。
そして1958年12月31日、新年を祝う祝賀会に出席していたバティスタは突如自らの辞任を表明。
日の明けた1959年1月1日には飛行機で国外に逃亡する。
官僚らが臨時政府を宣言するもカストロはこれを認めず、首都バハナへの突撃を命令する。
バティスタが逃亡して数日後、カストロがバハナに入り、キューバ革命は成功する。
他の社会主義政権の元首に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。
これは、前政権の独裁者バティスタを反面教師としているからと言われている。
ただし、革命の同志であるチェ・ゲバラの巨大な銅像をサンタ・クララに建てている。
外交政策
1959年1月の革命により全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認、カストロは2月に首相に就任する。
しかしながら新政府はアメリカ企業の財産を没収、国有化の政策を行い、アメリカとの関係は日増しに悪化する。
カストロは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領のリチャード・ニクソンと会談する。
ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は「ゴルフ中」であったという弁解を行ったことからも、
当時アメリカがカストロを軽視していたことが伺える。
同年12月に、アメリカ国家安全保障会議は「容共的かつアメリカにとって不利益をもたらす」としてカストロ政権転覆を決定。
シーザー暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。
所謂「ピッグズ湾事件」もこれに含まれる。
その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。
キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソ連から石油を購入する協定に署名した。
アメリカはキューバと国交断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソ連との関係を深める。
カストロとニキータ・フルシチョフ首相との間で様々な協定が調印され、
キューバはソ連から大量の経済・軍事援助を受け取り始めた。
フルシチョフの回想録によると、彼は1962年の春にクリミア半島で休暇をすごしている間に、
アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。
フルシチョフはこの考えを現実化するためにラウル・カストロ率いるキューバの代表団と会談し、
ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。
アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、
アメリカ政府は1962年10月22日にその事実を公表、
キューバに向かう船舶の臨検を行い海上封鎖を実行する
(キューバ危機)。
フルシチョフはアメリカがトルコからミサイルを撤去するのと引き替えにキューバからミサイルを撤去することに合意した。
緊張が緩和された後もキューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。
カストロは、アメリカを敵視する一方で、アメリカと妥協したソ連に対しても不信感を募らせた。
ただしソ連との友好関係は、キューバの重要な政策であったから、断交にまでは至らず、
フルシチョフ失脚後のチェコ事件によるソ連軍侵攻に理解を示し、
カストロはソ連に対する不信感を解消した。
しかし、このようなソ連への態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になった。
アメリカとの関係についてはキューバ側が積極的に関係改善を目指してはいるものの、反カストロ派のロビイストの
影響を受けているアメリカの保守派が経済制裁を解こうとせずかたくなな態度に終始している。
ちなみに、カストロは中華人民共和国の毛沢東のことを「クソ野郎」と呼び、嫌っていたと言われている。
カストロの唯一の欠点として挙げるならばそれは非常に好色家だったことだろう。
もちろん、革命やその後の政治に影響するほどのものではなかったが、
この事実はカストロの持つカリスマという肖像に一点の傷をつけるものだ。
初の結婚は1948年。同窓のミルタディアスバラルトと結婚。
「7月26日事件」で投獄されるが、この頃にナタリアリベルタと不倫関係になる。
ナタリアリベルタは高名な医師の妻で、革命のための資金を調達するパトロン的な役割もあったのではないかと推論される部分もある。
この他、キューバ革命以前のクーデターの女性同士とも何人かと関係があったのではないかと予想されている。
現在のカストロ
2007年現在、もっとも新しいカストロの情報としては、「腸に急性の問題が発生、
出血が続いている」ため外科手術を受けたと発表した。
これによりそれまでの国家評議会議長の役職を辞任し、暫定的にその権力を弟のラウル・カストロに譲った。
これは2006年7月のことで手術は無事に終わり順調に回復の兆しがあるとのことであった。
しかし現在も復帰の兆候は見られず、このまま弟に国をゆだねていく方針ではないのかとアメリカメディアは伝えている。
政治的才覚やカリスマ性においても兄に遠く及ばないとされているラウル・カストロが今後どのような対応を示すのか、
キューバ共和国にとって新たな局面を迎えることとなる。
キューバ危機(1962年)
Cuban Missile Crisis
1962(昭和37)年10月16日〜10月28日
ソ連がキューバに配備したミサイルの撤去をアメリカが求めた一連の抗争事件
1962(昭和37)年7月 ソ連がキューバに中距離核ミサイルを配備
10月14日 U-2型機(操縦リチャード・ハイザー少佐)、キューバ上空を偵察飛行
10月15日 アメリカ、CIAがソ連核ミサイルのキューバ配備を察知
10月16日 CIAがジョン・F・ケネディ大統領にソ連のミサイル配備を報告
報告はジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領の起床を待ってホワイトハウスの寝室に直接届けられる
ケネディ大統領は国家安全保障会議緊急執行委員会(EXCOM)を召集
10月19日 カーチス・ルメイ空軍参謀総長、キューバ空爆をケネディ大統領に進言
10月22日 ケネディ大統領、キューバにミサイル基地が建設中であることを公表
対キューバ海上封鎖宣言(Announcing the Quarantine Against Cuba)
10月24日 アメリカ大西洋艦隊、海上封鎖・臨検を開始
戦略空軍にDEFCON-2発令
10月25日 アメリカ、国連安保理でU-2型機が撮影したミサイル基地の写真を公開
10月26日 ニキタ・フルシチョフソ連第一書記、私信の形でケネディ大統領にミサイル撤去を提案
10月26日 フィデル・カストロ・キューバ首相が高射砲部隊に27日以降、アメリカ偵察機への攻撃開始を命令
10月27日 「暗黒の土曜日」
フルシチョフ、トルコに配備された中距離核ミサイルの撤去を要請
テイラー統合参謀本部議長、10月29日のキューバ空爆開始をケネディ大統領に進言 ケネディは拒否
キューバ軍高射砲部隊、アメリカ軍偵察機への対空射撃を開始
1000 ソ連のキューバ派遣軍、SA-2ガイドライン地対空ミサイルでアメリカのU-2型偵察機(操縦ルドルフ・アンダーソン空軍少佐)
をキューバ東部バネスで撃墜(パイロットは死亡)
ロバート・ケネディ司法長官、アナトーリ・ドブルイニン駐米ソ連大使と接触
10月28日 「黄金の日曜日」
フルシチョフ、キューバからのミサイルの撤去を発表
11月9日 ミサイルを搭載したソ連の船舶がキューバを出港
アメリカの艦艇が併走し、ミサイル撤去を確認
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「9月評価」によりキューバのミサイル配備を否定したが、その後も軍部の強攻論や世間の不安を払拭するだけの確たる証拠が無いままケネディーの苦悩は続いていた。
10月9日、ケネディーはキューバ上空からミサイルの有無を確認する為の偵察飛行を指示し、10月14日にU2偵察機が飛び立った。
約10分間に及ぶ空撮を終えて帰還した偵察機から約8,000枚の写真が分析にまわされた。
CIAの分析の結果、ケネディーが最も恐れていた事態が明らかとなった。
写真にはソ連で以前に確認されたものと同種のミサイル基地が2箇所とミサイル運搬用のトレーラー、ミサイル発射台などが確認されたのだ。
不在だったマコーン長官に代わり報告を受けたクラインCIA副長官は専門家を集めて再度徹底した分析を行うように指示し、15日の夕方ホワイトハウスに事実を伝えた。
連絡を受けたバンディー大統領特別補佐官は中間選挙の遊説で疲労しているケネディーを気遣い、大統領への報告を翌日まで待った。
キューバ危機の時系列詳細
1日目 | (10月16日) 1962年10月16日 AM8:45、バンディーはケネディーの寝室に入り前日受けたCIAからの報告を伝えた。 この瞬間から13日間、延べ288時間に及ぶ悪夢が始まった。ケネディーは直ちに緊急会議の準備を命令した。 AM11:50、政府高官や軍幹部が召集されExCOM (国家安全保障会議緊急執行委員会) が開かれた。 主要メンバーは、 大統領 ジョン・F・ケネディー 副大統領 リンドン・ジョンソン 大統領特別補佐官 クリス・オドネル 大統領特別補佐官 マクジョージ・バンディー 大統領特別顧問 セオドア・ソレンソン 司法長官 ロバート・F・ケネディー CIA長官 ジョーン・マコーン 統合参謀本部長 マックスウェル・テイラー 国務次官 ジョージ・ポール 国務次官補 ポール・ニッツ 国務次官代理 アレクシス・ジョンソン 国防長官 ロバート・マクナマラ 国防副長官 ロズウェル・ギルパトリック 国務長官 ディーン・ラスク 財務長官 ダグラス・ディロン 国務省顧問 リュウェリン・トンプソン 45歳のジョン・F・ケネディ大統領以下、平均年齢50.1歳というアメリカ建国以来最も若い政権にアメリカおよび世界の将来が託された。 会議は冒頭からキューバへの先制攻撃が主流を占めた。軍部はミサイルが発射可能になる前に基地を破壊し、反撃を阻止する為に飛行場や武器倉庫等も対象に空爆を行う事を訴えた。 会議は攻撃を前提として進められ、議論の中心は攻撃開始のタイミングと理由付けに絞られた。 このときの心境についてケネディーの弟で司法長官だったロバートは、 「日本が真珠湾攻撃を決断した時の東条首相の気持ちが良くわかる」 と記したメモを残している。 アメリカにとって真珠湾攻撃のような奇襲攻撃は最も卑怯な行為とされてきた。 しかし、今回のキューバの脅威に対して最も有効な攻撃手段が奇襲による空爆しかないと判断するに至ったことからも、ロバートが残したこの言葉は当時のアメリカの動揺と恐怖を物語る象徴的なものである。 |
2日目 | (10月17日) ケネディーはマスコミにアメリカに迫る危機を嗅ぎ付けられないように、予定どうりスケジュールを消化する事に勤めた。この日ケネディーは中間選挙の遊説の為コネチカット州に向かった。ExCOMは大統領欠席のまま開かれた。 依然として空爆を推進する意見がある一方で国防省は、「空爆だけで致命的な打撃を加えることは不可能であり、作戦には地上軍の投入などの侵攻が不可欠である。」 との見解を示し、この最悪の事態を避ける為に海上封鎖を行うべきだと主張した。 また、ケネディー宛に国連大使からの書簡が届き「トルコに配備されたアメリカのミサイルがある限り、ソ連がキューバにミサイルを配置することは当然の権利である。武力均衡を図ることで外交交渉の余地がある。」と記されていた。 ロバートは、「兄を60年代の東条にしてはならない。これでは真珠湾攻撃の裏返しだ。」と語り、空爆に傾きつつあった会議の結論をけん制した。 こうして アメリカが進むべき道は、空爆、海上封鎖、外交交渉に絞られた。 |
3日目 | (10月18日) この日ケネディーは、アメリカに滞在していたソ連のグロムイコ外相の訪問を受け会談を行っている。 ケネディーはミサイル配備の事実を知った事を、一方のグロムイコもキューバで進行中のミサイル基地建設を、互いに相手に悟られないように努め会談ではキューバ問題に関するアメリカの態度への非難とソ連のキューバへの武器援助に対する抗議など、従来と変わらぬお手本通りの内容に終始した。 ケネディーはこの会見後、外交手腕に定評のあったロバート・ラベェットとも会談を行った。 ラベットは空爆よりも徹底した海上封鎖の方が得策であるとケネディーにアドバイスしたといわれる。 ExCOMは空爆望むタカ派と海上封鎖を主張するハト派に分かれ対立し、それぞれのグループが独自の作戦の検討を開始していた。 |
4日目 | (10月19日) ケネディーは予定どうり全米を飛び回り遊説を続けていた。 遊説出発前、タカ派メンバーの国防省幹部は「キューバのこの問題に対して行動を起こさなければ、ソ連はベルリンへの侵攻も強行するだろう。」 と、ケネディーに空爆決断を迫った。 |
5日目 | (10月20日) ケネディーは、風邪を理由に遊説の予定をキャンセルしホワイトハウスに戻った。 ExCOMでは統合参謀本部のシュミレーションによって空爆が予定通り進んでもキューバのミサイルの90%しか破壊できず、この結果残された10%のミサイルがアメリカに向けて発射されるだろう、との意見がテイラー本部長から報告された。 ケネディーは、ラベットからのアドバイスやラスク、マクナラマ、ジョンソンが海上封鎖に賛成した事などを考慮し、直接的な武力行使は行わずアメリカの意志の強さを示す方法として海上封鎖を行う事を決断した。 |
6日目 | (10月21日) 海上封鎖を発表する為の原稿が作られた。 ソ連とキューバを必要以上に刺激しない事とアメリカ国民に不安を与えないように表現に注意が払われ、最終的に「臨検」という表現を用いる事が決まった。 |
7日目 | (10月22日) PM7:00、ケネディーは緊急テレビ演説により、 「キューバへの海上輸送に対して臨検を実施する。」 キューバ封鎖を世界に向けて発表した。17分間のこのテレビ演説により世界は核戦争の悪夢が現実となる瞬間を想像し凍りついた。 この演説をクレムリンのフルシチョフは緊急召集した幹部会の席で聞いていた。 幹部会に出席したメンバーは皆、固唾を飲んで放送に耳を傾けた。演説の中に軍事行動を示唆する表現が無かった事で一同はひとまず安心したという。フルシチョフも海上封鎖で済んだ事に安堵した。 しかし、ソ連が秘密裏に進めていた輸送作戦をアメリカが察知した事で両者が水面下で行ってきた対立は表面化し、大国同士の威信を掛けた戦いは確実に世界を巻き込む核戦争へのカウントダウンを始めた。 演説を聞いたアメリカ国民はパニックになり、スーパーマーケットには食料や衣料品を求める人が殺到し、核シェルターの建設が相次いだ。 |
8日目 | (10月23日) 当事国のキューバにとって海上封鎖は宣戦布告と受け止められた。カストロはラジオとテレビで国民に、 「祖国か、死か!我々に勝利を!」 と徹底交戦を呼びかけ、同時に軍に対して最高警戒態勢を発令し27万人に上る兵士が動員され臨戦体制に入った。 ソ連はアメリカの次の行動をけん制し、ソ連の意思が強固である事を示す為、ミサイル基地建設を急ぎ一刻も早く発射可能な状態にする必要があった。 キューバに派遣されたソ連軍は、本土から指示が無いまま核兵器を持って戦闘態勢に入った。 |
10日目 | (10月25日) キューバ危機発生以来、始めて米ソの高官が接触した。 ニューヨークで開かれた国連安全保障理事会の席上、アメリカのスチーブンソン国連大使は、ソ連のゾーリン国連大使に、アメリカの偵察機が撮影した写真を示し、キューバへの核の持込を認めるように迫った。 「核の存在を認めるかどうか答えて頂こう。通訳は必要ない。答えはイエスかノーかのどちらかだ!」 ゾーリンは、 「短い質問ではあるが、答える為には相当時間が掛かる。」 と語った。これに対してスチーブンソンは、 「地獄が凍りつくまであなたの答えをお待ちする。」 と答えた。 この日ケネディーはNATO軍戦闘機に対して核弾頭搭載を許可した。 カリブ海の緊張はベルリンも視野に入れた世界規模の対立に発展してゆく。 PM5:43、封鎖海域に1隻の貨物船マルキュラ号が侵入したことが確認された。封鎖開始後初めての緊張が走った。ケネディーは決断を迫られた。 もし停船命令を無視して貨物船が航行を続ければ、武力行使により強制的に停船させるしかない。この船にミサイルが積まれていた場合は外交上の解決は不可能となり、米ソの大規模な戦争はもはや避けられないだろう。 やがてケネディーは苦悩の末に臨検開始の命令を下した。 |
11日目 | (10月26日) AM7:00、マルキュラ号に対して停船命令が発せられた。この模様はラジオを通じて実況中継され全世界がその経過に注目した。やがて臨検は終了しマルキュラ号に輸送禁止貨物は積載されていない事が確認された。 緊張は安堵に変わった。 この日のExCOMは大荒れだった。タカ派が勢いを盛り返し再び空爆開始を迫った。 キューバでは洞窟に隠されていた核弾頭が基地に運び込まれた。 カストロはフルシチョフに核ミサイルの発射許可を求めたが拒否された。フルシチョフは「アメリカの挑発に乗るな」、と説得したが、連日のアメリカによる偵察飛行に苛立ちを強めるカストロは、27日以降キューバ上空に侵入するアメリカ偵察機の撃墜を許可した。 ケネディーと同様にフルシチョフも苦悩していた。 NATO軍機の核搭載を受けてワルシャワ条約軍も臨戦体制に入り、ソ連が保有する核ミサイル全ての発射態勢が整った。もはやアメリカとソ連の対立は世界を東西に二分する規模に発展し、世界大戦勃発の最悪のシナリオはますます現実に近づきつつある。 夜になってケネディーにフルシチョフの書簡が届いた。そこには、 「 平和は誰にとっても重要なことで、我々のような国家のリーダーにとって共通の望みです。このまま両国が武力衝突すれば、世界を巻き込む戦争に発展するでしょう。もしもアメリカがキューバに侵攻しない事を約束するならば我々はキューバへミサイルの輸送を中止します。」 と記されていた。 お互いが譲歩する事で事態の解決を目指すという始めての交渉提案であり、事態は好転の兆しを見せた。 |
12日目 | (10月27日) AM9:00、モスクワの放送局は突然ケネディー宛に送った書簡を公開した。 「アメリカがキューバのミサイルの撤去を望むなら我々はトルコのミサイルの撤去を要求する。また、撤去が行われた際は、国連の管理化で査察を行う。」 その内容は、前日とは全く違うものでExCOMメンバーは一様に面食らった。おそらく前日送られたものはフルシチョフの私的なものだろう。今公開された書簡はソ連政府が介入していることは明らかだった。 ソ連は東側のリーダーとしてアメリカに無条件で従う事は避けなければならず、アメリカにも譲歩させたという事実が欲しかったのだ。 ExCOMでは、ソ連の公式見解は第二書簡である事が確認されると共に、混乱するクレムリンと今後いかに交渉するかが検討された。 AM3:30、事態は急変した。 今朝飛び立ったU2偵察機がキューが上空で撃墜されたのだ。 ExCOMは愕然とした。キューバには上空2万メートルを飛行する飛行機を攻撃できる対空ミサイルはないと考えられていた。明らかにキューバ駐留のソ連軍の仕業だ。 外交交渉の進め方を論議していた会議は一変し、報復攻撃決断をケネディーに迫った。 この事件が伝えられクレムリンにも同様に衝撃が走った。 フルシチョフは激怒しキューバのソ連軍司令部に対して「二度とアメリカ偵察機に手を出すな!」と命令した。 ケネディーは即時の報復行動は否定したが、今後も偵察機に攻撃が加えられることがあれば即座に爆撃を行う事を決めた。 アメリカ、ソ連、キューバ全てが臨戦状態に入り最高レベルの戦闘待機態勢に移行し始めた。 兵士達は誰もが戦争と死を覚悟した。 戦争勃発はもはや不可避であると誰もが考え、ただじっと運命のその時を待っていた。しかし、ケネディーは違っていた。 ケネディーは最後の賭けに出た。最も信頼を寄せる官僚であり実の弟であるロバートにソ連との水面下での交渉を指示した。 PM7:27、 ロバートはドブルイニン在米ソ連大使を司法省に呼び大統領の意向を伝えた。 「会議の結論は報復攻撃開始でほぼ一致している。大統領が空爆強硬派を抑えられるのも時間の問題だ。このままではもはや戦争は避けられないだろう。 我々がキューバを攻撃すれば報復が次の報復を呼び、両国ともに多大な被害を出す事は明白である。我々は26日に届いたフルシチョフ首相の書簡を尊重し共感する。 大統領はトルコのミサイルに関して今回のキューバ危機の解決に障害となっているのならば十分に譲歩する用意がある。しかしこのことは、我々兄弟を含め数名の者しか知らない機密事項である。事態は急を要するので早急に返答を頂きたい。あなたにはアメリカの国家最高機密であるホワイトハウス大統領直通電話の番号をお教えする。」 ロバートが大統領直通電話の番号を伝えた事は早急な返答を得る為の最も有効な手段であったが、それにもまして国家最高機密を現職の政府高官が敵国ソ連に示した事は、ロバートの伝えた大統領の言葉が偽りではなく心から平和的解決を望んでいる事を強く示すには十分過ぎるほどの効果があった。 こうして クレムリンとフルシチョフに最後のバトンが渡された。 PM9:00、ドブルイニンは早速クレムリンに会談の内容を電報で送った。 |
13日目
(10月28日)
電報は当時暗号化などの作業を経て送られ、アメリカとソ連間で少なくとも8時間の時間を要した。
ドブルイニンの電報がクレムリンに到着するのはおそらくAM10:00頃になるだろう。果たして間に合うか、、、、
そのころクレムリンにある情報が伝えられた。
AM9:00、ケネディーが緊急演説を行うというのだ。
また、この演説前に教会に礼拝に出かける事もわかった。
アメリカではルーズベルト以来、宣戦布告する大統領は必ず直前に教会で祈りを捧げていた。
「ケネディーが戦争開始を決意した!」
クレムリンに緊張が走った。ついに決断の時がきた。
交戦か撤退か、、、、苦悩の末、やがてフルシチョフはキューバからの撤退を決意した。
時間が無い。
この決定を通常の外交ルートで伝えてもケネディーの演説には間に合わない。
それでは意味が無いのだ。
フルシチョフはテレビ放送での発表を選んだ。
ホワイトハウスがこの放送を見ることに賭けた。
開始はAM9:00。まさにケネディーの演説が放送される同時刻だった。
フルシチョフはテレビ演説で両国が平和の為に歩み寄る事を提案し、
キューバにおける基地建設中止と兵器をソ連に持ち帰る事を宣言した。
東西のリーダーの平和への思いがキューバ危機を終結させた。
以来この10月28日の日曜日を人々は「黄金の日曜日」と呼んだ。
誤報
後日明らかになった驚くべき事実がある。
10月28日運命の日、実はケネディーはテレビ演説の予定など無かったのだ。
この日の朝確かにケネディーは教会に行ったが、日曜日の朝に教会に足を運ぶことは
アメリカ人にとって当然のことで、大統領に限ったことではなかった。
また、AM9:00からケネディーの演説がテレビ放送される予定も確かにあったが、
これは海上封鎖を宣言した時の模様を再放送する予定だった。
つまり、フルシチョフに伝えられたケネディーの「宣戦布告演説」は、完全なる誤報だったのである。
しかし、この情報がフルシチョフの背中を押し歴史的決断をさせたことは間違いない事実である。
誤った情報に翻弄されたキューバ危機は、誤った情報により終結した。
ホットライン
キューバ危機が終息した後、東西冷戦構造に歴史的な変化が起こる。
この事件はアメリカとソ連両国に対して大きな教訓を残した。
誤った情報や疑念が思いもよらぬ方向に進み世界を核戦争寸前まで追い込んだ事は、
両者の対話が重要である事を思い知らせた。
この教訓を生かし米ソ両国は「ホットライン協定」に調印し、ホワイトハウスとソ連首相官邸が
「ホットライン」と呼ばれる直通電話でこの時初めて結ばれたのだった。
その後もケネディーはこの対話路線を尊重し軍拡や核実験に関する見直しを進め、
東西冷戦は終結に向けて大きな一歩を踏み出した。
その後のキューバ
ソ連のキューバ撤退を知らされたカストロは激怒した。
なぜなら事前にカストロになんの説明や相談も無くフルシチョフが独断で決定したものだったからだ。
死を覚悟してまで貫こうとしたカストロやキューバ人の愛国心はいつしかアメリカとソ連の対立に利用され
、屈辱的な結末を迎えた。
カストロが怒るのも当然である。
不信感により孤立したキューバに対しては、
米ソとの仲介役に国連が動いたが、カストロは全ての干渉と査察を拒否した。
結局、最終的に査察を受け入れたカストロは、アメリカに対して
キューバへの不公平な外交姿勢の是正などの要望を提出したが
全て無視され、現在もいまだに受け入れられていない。
その後のキューバ
1963年11月22日、ケネディーはダラスで暗殺された。そして1964年10月11日、ソ連ではフルシチョフが失脚する。
平和に向かって動き出したかに思われた米ソの関係は2人のリーダーを失った事で闇へと迷走を始めた。
両国は再び軍拡を図り、東西はキューバ危機以前のように睨み合うことになる。
キューバ内の
ソ連製MRBM(ミサイル)発射基地の航空写真
中距離弾道ミサイルジュピターの発射
1959年1月のキューバ革命後、徐々にアメリカとの距離をとり始めていたキューバのカストロ革命政権は、共産圏との接触を開始した。
1962年、ソ連は兵器の提供の代りに核ミサイルをキューバ国内に配備する『アナディル作戦』を可決し、
キューバ側のカストロもこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。
1962年7月から8月にかけてソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、アメリカは偵察飛行を強化していた。
同年10月14日アメリカの偵察機U-2がアメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル(MRBM)の存在を発見、
さらにその後三つの中距離弾道ミサイル(IRBM)を発見した。
アメリカ政府は激烈な反応を示し、ジョン・F・ケネディ大統領はエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、
ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第一段階として海上封鎖でソ連船の入港を阻止した。
そしてNATOや米州機構の指導者たちに状況を説明し、彼らの支持を得た。
10月22日、ケネディはテレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、
ソ連を非難した。さらにその後アメリカ軍部隊へのデフコン2(準戦時体制)を発令、
ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置き、
ソ連も国内のR-7やキューバのR-12が発射準備に入った。
その一方でアメリカはソ連へのミサイル撤去の交渉を開始する。
その際10月25日の緊急国連安全保障会議でのアメリカ国連大使アドレー・スティーブンソンが、
ソ連国連大使ヴァレリアン・ゾーリンにキューバのミサイル基地を撮影した写真を示し、
核ミサイルの存在を認めるよう迫った有名なやり取りは、当時の米ソ間の緊迫感を示している。
10月27日にU2偵察機がソ連軍の対空ミサイルで撃墜されるなど緊迫情況が続く中、ワシントン時間10月28日午前9時、
フルシチョフはモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。
フルシチョフはケネディの条件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、
ケネディもキューバへの武力侵攻はしないことを約束、
その後1963年4月トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了した。
キューバのカストロ議長は、この措置に激怒した。
キューバが国家を上げて対アメリカ戦に備えていたのにも関わらず、
キューバの頭上で政治的な妥協を、米ソで決定してしまったからである。
一方、フルシチョフの回想によれば、興奮したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、
ソ連の方も、核戦争をもいとわない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになっていった。
その後キューバに対するアメリカの介入も減少し、
冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになる(デタント)。この事件を教訓とし、
首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれた。
一方、カストロは、米ソの頭越しの妥協に不快感を示し、ソ連への不信感を募らせていくことになる(チェコ事件で和解)。
冷戦後わかったことは、キューバ危機の時点でキューバに核ミサイルが数十基配備済みであり、
臨検はほとんど効果がなかったことである。
米国はその危険性に気付かず、圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。
もしフルシチョフの譲歩がなく、ミサイル基地を空爆していたら、残りの数十基のミサイルが発射され、
世界は第3次世界大戦に突入していた恐れが高い。
実はこの時点で米軍もソ連軍も相手を壊滅させるほどの核兵器がなかった。
そのため中距離ミサイルを米軍はトルコに、ソ連はキューバに配備した。
なぜソ連のフルシチョフがキューバからのミサイル撤退を受け入れたかについては
様々な説がある。よく聞かれる説には次のようなものがある。
ワシントン時間10月28日午前9時にケネディが緊急テレビ演説をするという情報がフルシチョフのもとに入った。
そしてその演説に先立ってケネディは教会で礼拝をするという。
開戦前のアメリカ大統領は開戦を告げる前に必ず礼拝に行くと聞いていたフルシチョフは、
ケネディが開戦を決意したと勘違いしてミサイル撤退を決意した、というものである。
しかし、当時は情報機関の間では様々な不確実な情報が飛び交っており、
キューバ駐在のソ連大使アレクサンダー・アレクセーエフのところには
「数時間以内にアメリカが武力侵攻するという確実な情報」が届けられ、
激高したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされる。
しかし、フルシチョフはこの情報はアメリカの情報機関がソ連の情報機関に意図的に流したデマだとして信じなかった。
ケネディが教会で礼拝をするという話を聞いてフルシチョフがあわてて
ミサイル撤退を決意したなどというのは、三流紙のゴシップ程度の話に過ぎない。
ケネディの側近だったセオドア・C・ソレンセンの著書「ケネディ」では、キューバ危機の米ソ対決の決着が着いたのは、
ロバート・ケネディ司法長官とアナトリー・ドブルイニンソ連駐米大使が、ABCネットワークの記者ジョン・スカリーの仲介で
深夜のワシントン市内の公園で密かに会って話し合ったときであったことが記されている。
その会談で実際にどのようなやり取りがなされたかは具体的には書かれていない。
しかし、当時のソ連の権力機構から考えて、駐米大使に決定的な権限が与えられていたとは考えられず、
会談の存在が事実だとしても、この会談が問題解決に決定的な役目を果たしたとは考えられない。
真実は、上記のようなナゾめいた話とは程遠い単純なものである。
当時のソ連の軍事力はアメリカの軍事力には遠く及んでおらず、
両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカに
ある程度のダメージは与えられたものの敗北するのは決定的であった。
ナチスドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフはこのことをよく理解しており、
アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが
国際政治の現実であったと考えられている。
この二年後にフルシチョフは失脚することになるが、彼が更迭された中央委員会総会では、
キューバ危機におけるアメリカへの「譲歩」が非難されることになる。
また、このキューバ危機を教訓として2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話
ホットラインがロシアとアメリカ間に初めて設置された。
もし似たような事件が起こるとすれば北朝鮮 または韓国です。
北朝鮮と韓国がキューバの立場で 中国がソ連の役でしょう。
日本を敵だと公言していますから、、
そして米中 核戦争ですか?
北朝鮮ならやりかねませんな。
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余題
キューバ・グアンタナモベイ海軍基地
敵国の中に堂々と居座る米軍基地
宇宙から見たキューバ
アメリカ領
1898年 米西戦争でアメリカがキューバを占領
1902年 キューバが独立
1903年 米玖恒久条約により、アメリカは海軍基地・石炭補給基地としてグアンタナモ湾とオンダ湾を租借。
ピノス島は帰属未定としてアメリカが引き続き占領
1912年 アメリカがオンダ湾を放棄
1925年 アメリカがピノス島をキューバへ返還
1934年 新条約でアメリカがグアンダナモ湾の永久租借権を獲得。放棄済みのバイア・オンダは除外される
グアンタナモ湾の衛星写真
グァンタナモ米軍基地( -べいぐんきち, Guantanamo Bay Naval Base)は
キューバ東南部のグアンタナモ湾に位置するアメリカ海軍の基地である。
面積は116平方キロに及ぶ。1903年以来、米国が租借権を主張しており、
2002年からはアフガニスタンやイラクで拘束されたイスラム過激派テロ容疑者の収容所としても使用されている。
管理者はアメリカ南方軍。
1898年の米西戦争で米軍が占領し、米国の援助でスペインから独立したキューバ新政府は1903年2月23日、グァンタナモ基地の永久租借を認めた。
主権はキューバにあり、米国は租借料として金貨2,000枚(今日の価格で約4,000ドル)を支払ってきた。
しかしキューバ革命によって成立したフィデル・カストロ政権は米国の基地租借を非合法と非難しており、
租借料は1度受け取った以外は受け取りを拒否している。
アメリカ・キューバ双方が基地周辺を地雷原としていた(アメリカ側は1996年に撤去)。
周囲が地雷原で脱走が不可能な上、マスメディアにも実態が見えない海外基地、更にはキューバ国内でも
アメリカ国内でもなく軍法のみが適用される治外法権区域ということで、20世紀後半からキューバやハイチの難民を不法入国者として収容した。
2002年のアフガニスタン戦争以来、アルカーイダやタリバンなどイスラム過激派のテロリスト容疑者が収容された。
2003年のイラク戦争以来、収容者は増加しており、パキスタン系イギリス人やイラク系カナダ人(両者釈放済み)、
イギリス人、オーストラリア人もテロ容疑者または関係者として収容されているが、
これらの容疑者はテロリストと見なされれば裁判にかけられる事もなく逮捕・長期拘留されるようであり、
“犯罪者”と“捕虜”の処遇を使い分けるアメリカ連邦政府の都合で無期限に拘留されるので問題となっていた
(捕虜であればジュネーブ条約を適用する義務があるが犯罪者にその必要はなく、
また当地はアメリカではないので合衆国憲法の権利章典に定める被疑者の権利も保障されない)。
米軍としては容疑者の処罰より、テロ組織壊滅のための情報収集(自白・密告誘導など)を目的として拘留を行っている。
2004年11月、米軍は同基地収容者に対して心理的、時に物理的な強制を加えており、
拷問に等しいとする赤十字国際委員会の報告書がリーク、2006年5月にはアムネスティ・インターナショナルからも
「世界の人権状況に関する年次報告書」によって、“対テロ戦争を口実にした収容所での人権侵害”の告発がなされた。
キューバ政府は同基地の返還を求めており、世界的にも閉鎖を求める声が高まりつつある。
2007年1月、収監され拷問を受けた末に無関係と判明し釈放された、パキスタン系イギリス人青年3人の体験を素材にした映画
『グアンタナモ、僕達が見た真実』が公開された。また同年6月22日には、米政府が収容所の閉鎖を検討していると報じられた。
2007年6月、多方面からの批判を受けてブッシュ政権は収容所を閉鎖する方針であるとAP通信は伝えた。
収容されている囚人は、アフガニスタンや国内の基地に代替施設を作り移送する見通しであるという。
収容所の閉鎖にはそれまで、チェイニー副大統領とゴンザレス司法長官、ラムズフェルド前国防長官らが強く反対してきた。
だが、後任のゲーツ国防長官は閉鎖に傾いているとの報道が出ていた。
キューバといえば、アメリカとは目と鼻の先にあるが犬猿の仲。かつてはソ連の同盟国で、
ソ連亡き現在でもバリバリの社会主義路線をひた走っています。
東西冷戦たけなわだった頃、世界各地の非毛沢東主義的共産ゲリラへは、ソ連が武器援助して
キューバは兵士を派遣(金は出せないから)というパターンが多かった。
1962年にはソ連がキューバに核ミサイルを配備しようとして、キレかけたアメリカとあわや核戦争になった事件(キューバ危機)もありました・・・
と書くと、なんだかキューバだけが悪玉みたいですが、キューバをそこまで追い込んだのはアメリカだ。
経済制裁は序の口で、61年にはキューバ軍の反乱を装って空軍基地を空爆したり、
キューバ人亡命者に武装訓練を施して上陸作戦を行わせたり(ピックス湾事件)、
はたまたホンジェラス沖合いの島から怪しげな謀略放送を流し続けていたのだから。
さらにCIAがカストロ首相の暗殺を企てたことも数知れず。カストロ行きつけのレストランの店員を買収して、
好物のアイスクリームに毒薬を混入する計画を立てたが、毒薬の入ったカプセルをアイスと一緒に冷凍庫で保存していたため、
いざカストロ首相がアイスを注文した時、カプセルが凍り付いてて毒薬をふりかけられずに失敗した・・
・なんて、マヌケな事件まで明るみになっています。
そういえば、数年前にはよく「経済破綻で物資が不足しているキューバでは、唯一開いているアイスクリーム屋に
市民の長い行列ができている云々」なんてニュースが流れてましたが、
カストロ首相の好物だからアイスは最優先で生産を続けていたのでしょうかね?
さて、そのキューバにはなぜか米軍基地が存在する。キューバ南端の
グアンタナモ湾にある海軍基地がそれ。
しかも日本の米軍基地のように条約によって治外法権を認めているだけ
(主権や統治権はあくまで日本)とは違って、グアンタナモ基地の116平方kmはアメリカが租借をしているれっきとしたアメリカの領土。
一体なぜアメリカは敵国の中に領土を持つことができたのか?
キューバはもともとスペインの植民地だった。しかしアメリカ本土に近いため、
米国資本が大挙して進出し、世界随一のサトウキビ生産地となっていた。
19世紀後半になるとキューバでは前近代的なスペイン統治に対して独立を求める反乱が相次ぎ、
米国資本の農場や製糖工場が脅かされたため、
1898年にアメリカが介入。
この米西戦争でアメリカはスペインからフィリピン、グアム島、プエルトリコを獲得し、
キューバの独立を認めさせ、ドサクサ紛れにハワイ王国も併合し、カリブ海と太平洋に勢力圏を確立した。
キューバは米軍による占領の下で1902年に独立するが、独立にあたっての憲法制定では、
米国議会で先に承認されたブラット修正条項を盛り込むように強要された。
この修正条項では、キューバは外交・防衛ばかりか、内政にまでアメリカの干渉権を認める内容で、
実質的にアメリカの保護国となってしまった。
そしてこの憲法の付帯条項では、「キューバの独立を維持するために、
アメリカが防衛や石炭補給(当時の軍艦は石炭が燃料)のための
陸軍や海軍基地を購入もしくは賃借するのを認めること」が盛り込まれた。
米軍基地の設置はこの条項に基づいて行われた。
03年に結ばれた恒久条約で、アメリカは海軍基地として、グアンタナモ湾とバイア・オンダを年間2000ドルで
租借することになった。条約によれば、租借地の最終的な主権はキューバにあるが、
租借期間中はキューバの主権は停止され、アメリカは統治権を行使することができる。
ただし租借地内で民間企業の設立は認めない、
キューバ本土への密輸取り締まりを行う、租借地へ逃げ込んだキューバ人犯罪者はキューバ側へ引き渡す、
商業目的のキューバの船の湾内航行を認める・・・などの条件がついた。
こうしてせっかく独立したはずのキューバはアメリカの内政干渉に晒され、
1906〜09年と1917〜22年には「選挙で内政が混乱した」などを理由に、
グアンタナモ基地から米海兵隊が出動して、キューバはアメリカ軍に占領され、軍政下に置かれるありさま。
1930年代に入ってルーズベルトが大統領になると、それまでの露骨な干渉から傀儡政権を通じた
間接支配に路線転換し、クーデターで実権を握った軍総司令官パチスタとの間で34年に新たな条約を結ぶ。
新条約ではブラット修正条項は破棄されたが、グアンタナモ基地は両国が変更に同意するか、
アメリカが一方的に放棄するかしない限り永久に租借することが認められた。
つまりその後、キューバが基地の返還を求めても、アメリカは同意せず放棄もしてないので、
現在に至っているというわけだ。租借料もこの時年間4085ドルへ値上げされている。
52年に再度のクーデターで首相に就任したパチスタは、独裁政治の下でアメリカへの経済的従属を強めていくが、
これに反旗を翻したのがカストロだ。カストロはメキシコ亡命中にアルゼンチン人の革命家チェ・ゲバラと知り合い、
ゲリラ部隊を組織して56年にヨットでキューバへ上陸。82人のゲリラ兵士は政府軍の待ち伏せ攻撃で12人に減ってしまうが、
あれよあれよという間に勢力を拡大して、58年の大晦日にパチスタはドミニカへ亡命、独裁政権を崩壊させてしまう。
こうして誕生したカストロ政権だが、当初は反米社会主義路線というわけではなかった。
カストロの新政府を真っ先に承認したのはアメリカだったし、
アメリカを訪問したカストロはセントラルパークで3万人の聴衆を前に演説してニューヨーク市民の大歓迎を受けたたこともある。
しかし農地改革で全土の4分の3もの耕作地を所有していた米国企業の土地を没収したり、
米国資本の電力・通信会社を国有化するに及んで、アメリカ政府と全面対決。アメリカが
キューバ産砂糖の輸入割当を減らすと、これに反発してあれよあれよという間にソ連に急接近したのだった。
かくしてグアンタナモ基地は、世界稀に見る「敵国の中の軍事基地」となり、キューバ危機の際には
軍人の家族たちは2年間にわたってアメリカ本土へ疎開した。
キューバ政府も黙って指をくわえていただけではなく、64年には基地への水供給をストップした。
これに対してアメリカはハイチから船で水を運んで急場をしのぎ、後に海水淡水化工場を作って水を自給して対抗。
キューバ政府が「アメリカが水を盗んでいる」と非難すると、自ら水道管を切断してアピールした。
キューバ政府は61年に「亡命者が基地へ逃げ込んでいる」と基地の周りを鉄条網で囲ったが、
その後双方が境界線の周囲に地雷を設置した。
アメリカ側の地雷は96年に撤去されて、侵入者感知センサーに取り替えられたが、キューバ側の地雷はそのままだ。
アメリカとキューバが核戦争寸前になるまで対立しても、基地では3000人以上のキューバ人労働者が働いていた。
キューバ人にとって米軍基地は金払いの良い仕事場だったのだが、64年の給水ストップの報復措置で
約半数の労働者がリストラされ、アメリカは代わりに中米の親米諸国からの外国人労働者を雇い入れた。
キューバ政府も新たな労働者の米軍基地での就職を禁止したため、現在でも基地で働いているキューバ人は、2〜3人だけらしい。
アメリカは現在もキューバ政府へ毎年4085ドルの租借料の小切手を送り続けているが、
カストロ政権になってからは受け取りを拒否。もっとも4085ドルじゃ現在のレートでは50万円にもならないですね。
さて、2001年の9・11テロの後、グアンタナモ基地にはアメリカが世界各地で捕まえたアルカイダ関係者やテロ容疑者の拘禁施設が作られている。
なぜまた「敵国キューバ」の中にある軍事基地に収容しているのかといえば、周囲にはキューバが敷設した地雷原があるので脱走されにくいから。
また社会主義国キューバの中にあるので、西側諸国の人権団体やマスコミが近づきにくいから。
そしてグアンタナモベイは
あくまで租借地でアメリカの領土ではないから、アメリカの人権法などは無視
して無期限に思う存分キツイ取り調べができる・・・
ということらしい。
これが日本の米軍基地ならあくまで日本の領土なので、米軍兵士に対する治外法権はあっても
日本人やその他の外国人の司法管轄権は日本が持っている。
しかしグアンタナモベイは、キューバの主権も停止されているので、
キューバ人犯罪者以外はキューバへ引き渡さなくても良いというのだ。
さすがにアメリカ政府の身勝手な解釈は国際的な非難を浴び、
アメリカ最高裁も「グアンタナモベイはアメリカが排他的な管轄権を有しているので、
アメリカの司法が及び、拘留者にはアメリカの法律による権利が認められる」と裁定を下したが、
アメリカ政府は「拘禁されているのは敵側戦闘員だ」として数百人の拘禁を続けている。
キューバはこれを大々的に非難しているのかと思えば、カストロはアメリカからのテロ容疑者収容の通告を受け入れ、
脱走者がいたら基地へ送還すると申し出たらしい。
かつて世界各地で「反米ゲリラ支援国家」として名を馳せたキューバも、
今となっては経済発展優先と言うことで、アメリカとの関係改善を望んでいるようだ。
この章のあつかう範囲は時期的には59年12月からで,これまでの章と重複します.
カストロ暗殺計画は当初プルータス作戦の一部でした.さらに計画はピッグス湾のあとも継続しむしろ本格化しました.
また計画の全貌は70年代の上下院の調査委員会で明らかになり,さらに最近の秘密文書公開によって裏付けられるようになってきました.
とくに最近出版されたフリアーティの本は,キューバ側の資料が豊富に使われており興味あるものです.真相解明はなお現在進行中といってもいいでしょう.
この計画は極秘で進行したところに特徴があります.そしてこの計画の延長線上にケネディ暗殺とウォーターゲート事件がぴったり乗っています.
三つの事件を一本の糸で結ぶためには,他の出来事から切り離して流れを見た方が分かりやすいと思います.これが独立した章をもうけた理由です.
それではカストロ暗殺計画を中心に見ながら,その観点から見た二つの事件の評価という形で振り返ってみましょう.
A.プルータス作戦と第一次暗殺計画
(1)暗殺計画の策定
・キング大佐の暗殺作戦
すでに12章でも触れたようにカストロ暗殺計画はプルータス作戦の本質的な一部です.
最初は暗殺計画の方が先行して検討されていました.
カストロ暗殺を作戦の中心に置くという発想はキングの持論でした.
公開された秘密文書によればすでに59年12月彼は下記のような勧告書を提出しています.
「フィデルの排除に徹底した考慮を払うこと.たとえば弟のラウルにせよ仲間のチェにせよ一般大衆に対してフィデルほどの
催眠的な魅力は持っていない.多くの消息通によると,フィデルの失踪(CIA用語で殺害)は現政権の没落を大いに加速させるものと信じられている」
A.ダレスはこの報告に基づきアイクに対し「カストロ抹殺に十全の配慮をたまわりたい」と要請しています.
3月のNSCへの報告では内容が変わってきました.
キングが作戦成功の鍵を握るものとして強調したのはカストロをふくむ政府要人の暗殺でした.
議事録によればキング大佐は「非常な困難をともなうが,フィデル,ラウル,チェをワンパッケージで排除することが必要である」と力説します.
「それが出来なければ軍事力を行使する以外にないだろう」とまで言い切ります.
キングのワンパッケージ提案を受けたNSCはこれを了承します.「フィデルの取り巻きはフィデル以上に悪質」であり,
フィデルひとりを暗殺してもかえって状況は悪化するという理屈です.1
G2(キューバ情報部)の報告によれば,6月には最初の作戦が発動されています.
このときはハバナのアセット(資産=工作員の隠語)に対しラウル暗殺を実行するよう指示が出されています.
1万ドルの成功報酬が約束されたようですが,結局この計画は未遂に終わりました.この工作員は後に逮捕され計画を自白します.2
・マフィアを含む暗殺チームの結成
カストロを含む要人暗殺計画は,発案者キング大佐が更迭されたことからいったん立ち消えになりました.
8月に入ってビッセルは再びこのプランを採り上げました.
CIA内に計画推進チームが組織され保安局長エドワーズ大佐がキャップに就任しました.計画の名を「DRライフル」といいます.
さすがにこのダーティーな仕事に直接CIAが手を下すわけにはいきません.
そこでエドワーズはギャングの仕業に見せかけようと思い立ちました.
彼は工作支援部長オコンネルに安全器(フィクサー)を探すよう指示.
オコンネルはマフィア最大のボスであるジアンカーナと接触するため,
エージェントの一人メイヒューに相談を持ちかけます.
当時メイヒューは私立探偵事務所を開業する一方,
悪名高いハワード・ヒューズの個人顧問という肩書きを持っていました.
つまりヒューズとCIAとの裏の連絡役を勤めていたわけです.メイヒューにはもう一つの顔がありました.
元FBI捜査官で暗黒街に顔が効く彼は,CIAや財界とマフィアとのパイプ役でもあったのです.
とにかく得体の知れない人物であることは間違いありません.
メイヒューはラスベガスを仕切る親分ジョン・ロセリにあたりをつけます.
両者の第1回会談はビバリーヒルズのレストラン,ブラウン・ダービーでおこなわれました.
ロセリは我が身の安全を保障するため政府の正式代表との会見を要求します.
これを受けてロセリとオコンネルがNYのプラザホテルで会見しました.
席上オコンネルは任務の公的性格を保障,暗殺の成功報酬として15万ドルを提示します.
これを受けたロセリはシカゴのジアンカーナと,マイアミのトラフィカンテに声をかけ同意をとりつけます.
トラフィカンテといえば革命直後にハバナで逮捕され,ようやくの思いでマイアミに逃げてきた男です.
3フィデルに対する恨みは骨髄に達しています.
彼は昔なじみのトニー・バローナを計画に巻き込み,真正機構を母体に現地の実行部隊「救援隊」を組織させます.
最近,セスナ機撃墜事件で名前の挙がった「兄弟の救援隊」は,この流れを汲むものです.
ここに世にも奇怪な実行チームが結成されることになりました.
・マフィアとランスキー
ここで少しマフィアの内幕について解説します.
米国のギャングは第一次大戦後の禁酒法時代に酒の密輸で一挙に肥大化しました.
その中心となったのがイタリア人移民で,彼らの秘密結社の名前がマフィアと呼ばれたことから,
米国のギャング全体をマフィアと呼ぶようになりました.
ギャングの二大拠点はシカゴとニューヨークで,それぞれアル・カポネとラッキー・ルチアーノが仕切っていました.
ボストンのケネディの父もシカゴ・ギャングと結んで大儲けをした一人でしたが,後に足を洗ってイギリス大使にまで登り詰めます.
ギャングのなかでもキューバともっとも関係の深いマイヤー・ランスキーについて少し触れておきたいと思います.
彼はユダヤ系移民の子として育ち,ルチアーノの知遇を得てその片腕としてニューヨーク・マフィアの「発展」を支えてきました.
30年代後半バチスタがルチアーノに接触を求めてきます.
当時バチスタは権力を悪用してハバナのカジノを接収.もうけを懐に入れようと図っていました.
しかしカジノの運営については素人です.そこでプロの派遣を求めたわけです.
ハバナに派遣されたランスキーの経営は水際立っていました.
彼はハバナを根城として一国一城の主となり,同時にバチスタのルートを通じて政界にも発言権を持つようになっていきます.
彼の政治的能力が示された事件が二つありました.
44年,CIAの前身にあたるOSSと海軍情報部は,沖仲仕を利用して港湾保全に協力させようと計りました.
当時米国内の主要港湾の荷役作業はルチアーノのマフィアが仕切っていました.
そこでOSSはマイヤー・ランスキーを通じて獄中にあったルチアーノと接触します.
ルチアーノは仮出獄を条件にこれに応じました.交渉の結果彼はイタリアに送還されることを条件に釈放されることになります.
この取引でギャングは一種の政治的市民権を獲得していくことになります.
そしてランスキーが「オモテの社会」に向けてマフィアを代表する窓口となります.
ランスキーの「権威」を象徴する出来事がもう一つあります.
それはルーズベルトの名代としてバチスタと会見し大統領選挙の実施を迫ったことです.
バチスタはランスキーの説得を受け入れ44年選挙の実施に動いたといわれます.
戦後ルチアーノがイタリアに追放になってからは,ランスキーはルチアーノを継ぐニューヨーク・マフィアのボス,
コステロの後見役として影響力を維持します.
第二次大戦直後のハバナ会議は映画「ゴッドファーザー」でもお馴染みです.
ランスキーが招請したこの会議は,ヨーロッパからルチアーノが持ち込む麻薬をハバナ=マイアミ経由で
全米に捌くルートの開拓を目的としていました.
いわゆるフレンチ・コネクションです.
このネットワークを基礎にランスキーは一種の元締めの地位につきます.
折からバチスタが政権に復帰し,
これまで以上のビジネスをランスキーにもたらします.
政治が堕落すればするほどギャングの仕事はやりやすくなります.
ハバナはラスベガスと並ぶ歓楽の巷となっていきます.
ランスキーの野望はハバナの帝王となることで完了するものではありませんでした.
彼は全米のボスを集め全米シンジケート会議を開催します.
1954年ニューヨーク近郊のアパランチンで開かれたこの会議は,途中FBIに踏み込まれるなどさんざんな目にあいますが,
ともかく全米のギャングを曲がりなりにも統一したという点で一つのエポックとなります.
この会議でランスキーは議長に就任します.
ユダヤ人で国内にこれといった根城を持たないランスキーがマフィアの頂点に登り詰めたのは,それなりの
「人格」とシンジケートの総意を体現できる政治的力量によるものでしょう.4
・ギャングの世界における勢力の消長
その後ギャングの世界では勢力の消長が続きました.ニューヨークではコステロが死んだあと新たなボスの座をアナスタシアとジェノヴェーゼが争います.
一時優位を占めたアナスタシアでしたが,他地区への強引な割り込みが嫌われたのか暗殺されてしまいます.5
この間シカゴのジアンカーナはラスベガスやロスアンジェルスに進出するなど,全米最大のギャングとしての地位を固めていきます.
その力の源泉はチームスターと呼ばれる全米最大の運転手の労組を傘下におさめたことでした.
ギャングは労組を通じてとくに民主党を牛耳ることになります.当時シカゴのデイリー市長はギャングの政治代表と呼ばれたくらいです.
カストロ暗殺計画に最初に登場するロセリは,ジアンカーナの弟分で本名をフィリッポ・サッコといいます.
シカゴ・マフィアの西部進出にあたりアンダーボスとして派遣され,当時はラスベガスとロスを縄張りとして羽振りを利かせていました.
ついでにいえばジアンカーナ一家のダラス進出への足がかりを作るべく乗り込んだのが,
オズワルド殺しの犯人ルービーことルーベンステインでした.
それまでニューヨークやシカゴの動きから孤立していたニューオリンズのローカル・マフィアが全米規模に成長してきます.
ボスのマルセロはニューオリンズを密輸基地として拡充し,これで得た巨利を手にダラスに進出するなど独自の展開を図ります.6
(2)カストロ暗殺チームの結成
・ボツリヌス毒素入りカプセル
CIAとマフィアの合同チームはマイアミのケニルワース・ホテルに作戦本部を設置,
かき集めたキューバ人亡命者と協議を開始します.
その結果射殺ではなく遅効性の毒薬による毒殺を第一選択とすることで合意しました.
どちらかといえばトミーガンをぶっぱなして敵を血の海に沈めるというのがギャングの得意技ですが,
今度ばかりは敵のただ中で単身闘わなければなりません.
ヒットマンが安全に国外逃亡する計画が,殺害計画そのものと同じくらい重要な課題となります.
このことを考慮すれば毒殺以外にはありません.幸いなことにイタリアにはボルジア家以来の毒殺の伝統があります.
CIA技術部長シュレイダーが選んだのはボツリヌス毒素でした.
これはボツリヌス菌が産生する毒素です.
日本ではイズシの中毒の原因として知られています.
口から入って24時間位してからじわじわと効いてきて,最後には重篤な呼吸筋マヒを起こして悶え死ぬというきわめて危険な毒素です.
技術部がこれを開発したとされていますが,このような毒素は簡単には作成できません.
彼の開発したのはボツリヌスをカプセルに詰める技術であって,
毒素の供給自体には軍の生物兵器研究所が絡んでいると見るべきでしょう.7
ところで暗殺計画の対象とされたのはカストロだけではありません.
75年上院委員会での証言によれば,アイクは二度にわたって「非友好的な海外指導者の排除のため“処刑能力”を創出せよ」と指示したとのことです.
それは具体的にはナセルでありエンクルマでありスカルノでありルムンバでした.
この年の8月NSCはCIAに対しルムンバ暗殺を指示しています.
8技術部長シュレイダーはみずからコンゴにわたり,ボツリヌス・カプセルを現地のCIA責任者に手渡したと証言しています.
カストロのみならず世界中の反米有力者をこれで抹殺しようという魂胆です.
・毒薬カプセル,国内へ
CIA内では(1)LSDを噴霧し錯乱させる,(2)葉巻にボツリヌスをしみこませる,
(3)脱毛剤の硫酸タリウムを靴に仕込んでフィデルの髭を脱落させるなどの案が検討されたようです.
(3)などいささか滑稽ですが(2)は実際に実行されたようです.
翌年2月「挨拶がわり」のつもりでしょうかこの葉巻がカストロのもとに送られました.
残念ながらこの葉巻はカストロには味わってもらえなかったようです.
60年9月,まずシカゴ・ギャングの一味リチャード・ケインなる人物がカストロ暗殺計画を携えハバナ入りします.
ケインもギャングであると同時にCIAのエージェントでもあるという謎の人物です.
いよいよ毒薬カプセルができあがりました.
マイアミのホテル・フォンテンブローで行われた会議にはロセリ,メイヒュー,トラフィカンテ,ジアンカーナ,トニー・バローナが出席,
メイヒューが毒薬カプセルと1万ドルをバローナに手渡しました.バローナはハバナの「救援隊」幹部に毒薬を託します.
ピッグス湾侵攻を目前にした4月14日,いよいよ準備がすべて整いました.
メイヒューはトニーを通じてカストロ「処刑」を指示します.
ここで滑稽な事件がおきます.肝腎のトニーがオパ・ロッカの旧海兵隊兵舎に幽閉されてしまったのです.
別のCIA筋が,亡命者評議会幹部を予防拘束するよう指示したためです.
それを知らないメイヒューは八方手を尽くしますが,結局連絡が取れずじまいで戦争が終わってしまいました.
これが暗殺作戦第一幕の何ともしまりのない幕切れです.
B.ピッグス湾事件以後の一連の作戦
(1)パティー作戦とリボリオ作戦
この二つの作戦はG2側の情報としてフリアーティの著書のなかで初めて明らかになったものです.
米国側で対応する資料が出てこない現在,この著書から紹介する以外にありません.
ピッグス湾の敗北でCIAは手痛い打撃を被りました.彼らは失点を取り返そうとしてさらに凶暴になります.
当面侵攻作戦の再現がないとすれば残された作戦は暗殺計画しかありません.
CIAはフィリップスを作戦責任者に抜擢し,全力を挙げてこの作戦に取り組むことになりました.
これがパティー作戦,キューバ側ではカンデラ作戦と呼ばれた暗殺計画です.
計画の骨子は7月26日のモンカダ記念式典に出席するフィデルをハバナで,同じくラウルをサンチアゴで同時に暗殺しようとするものでした.
さらにこれと並行してエウヘニオ・ディアスにグアンタナモ基地を「襲撃」させる計画も進められました.
集会で演説中の人間を暗殺しようとするのですからこれは銃による狙撃以外にありません.
暗殺計画の具体化には現地キューバ人のイサギレが当たります.
キューバ当局は7月はじめにはこの情報をつかみました.
慎重な捜査の結果,式典間近の24日イサギレと協力者を一斉逮捕します.
これで結局パティー作戦は壊滅することとなりました.
しかしこれでフィリップスがへこたれることはありませんでした.彼はパティー作戦に代わる新たな暗殺計画を考案します.
リボリオ作戦と呼ばれるこの計画は,旧大統領宮殿の近くに潜みカストロが顔を出すところを狙撃しようというものです.
フィリップスはこの作戦のためにハバナ時代に育てた子飼いの破壊分子を利用しようと図ります.
その対象となったのはライのMRPに属する活動家アントニオ・ベシアーナでした.
ベシアーナはアベニーダ街のアパートの8階に部屋を借りました.
ここから旧大統領宮殿の北テラスまで直線で70メートル,腕のいい狙撃手にとっては目と鼻の先です.
当時宮殿前広場は革命広場と改称され多くの大衆集会が開かれる場所になっていました.
宮殿の北テラスはカストロが演説するときいつも使うおきまりの場所でした.
ハバナに派遣されたエージェントがベシアーナと接触,この部屋にバズーカ砲や多数の機関銃,手留弾,民兵の制服など武器を持ち込みます.
準備が終わった頃フィリップスがキューバに偽装して潜入します.
彼はベシアーナに作戦の目的がカストロの暗殺であることを明らかにしました.
協議の結果10月4日開かれるドルティコス大統領の帰国歓迎集会が暗殺計画の実行予定日となります.
しかしベシアーナらは前日になって実行を断念し,その足で米国に逃亡してしまいます.
保安局からマークされていることを知ったためといわれますが,当局がどの程度つかんでいたかは分かりません.
ただ狙撃という方法はそのあと逃げる余裕がほとんどなく,犯人側にとってはかなり過酷な条件です.
少しでも危険な状況があれば実行を躊躇するのも無理はないでしょう.
この二つの作戦と並行してCIAは3人からなる刺客団3組を送り込みます.
この作戦はマングース作戦と呼ばれました.
しかしこれらはいずれも成果を上げることはできませんでした.
G2はこのうちトロエジャらのグループを逮捕し計画の全容を知ります.
・ケネディ,暗殺計画を非難
かくしてCIAが起死回生を狙った暗殺計画も次々と挫折していきました.
キューバはあいつぐ暗殺計画を国際政治の舞台で暴露していきます.
NYタイムスのタド・シュルツ記者と単独会見したカストロは「倫理上の理由からして米国は暗殺に訴えるような状況に立ち至ってはならないと思う」と,
この人らしからぬ穏やかな話ぶりで急所を衝いてきます.
ケネディの右腕バンディ特別補佐官は秘密文書「キューバ緊急対策」を提出し「キューバ政界からカストロを取り除く可能性は低い」と結論します.
CIAのお膝元からも公然と異論が出されました.
情勢分析を専門とする「国家評価局」は「キューバの現状と展望」なるレポートを提出.
このなかで「カストロがいま暗殺か自然死で倒れれば混乱した影響が出るに違いないが,
現政権にとって致命的な打撃にならないことはほぼ確実である.
生き残った指導部は共通の危機に直面しておそらく一致団結するだろう」と述べます.
このような情勢の変化を背景にケネディはワシントン大学で演説し「われわれは自由な国家として,
敵対国に対してもテロルや暗殺,二枚舌,
演出された暴徒,みせかけの危機といった戦術で競うべきではない」と力説します.
この演説から2週間後の11月29日ケネディはアレン・ダレス長官を更迭しマコーンを後任に指名するのです.
(2)ハーベイの暗殺計画
・CIAの生き残り策動と暗殺計画 JMウェーブとZRライフル
アレンが更迭された以上,秘密作戦の最大の責任者ビッセルの首が飛ぶのは時間の問題です.
ビッセルは自らの退陣に備え次々に手を打ちます.まず暗殺計画を秘匿するためエドワーズ保安局長を実行部隊からはずしました.
保安局からキューバ関連のプロジェクトを取りあげ,これにかわり秘密工作を一手に集中する「機動班W」を新設します.
班の責任者にはベルリン・トンネル事件で勇名をはせたウィリアム・ハーベイが任命されました.
ビッセルが見込んだだけあってハーベイも負けず劣らず精力的でした.
彼はまずダミーとしてマイアミにゼニス工学サービス社(暗号名JMウエーブ)を設立,秘密活動の拠点とします.9
フィリップスもハバナでの経験を買われJMウエイブ本部入りします.
この「会社」では400人の係官が3千人のキューバ人情報提供者を管理していました.
多数の艦船を抱え「西半球第三の海兵隊」の異名をとるほどの勢いです.
その資金を担当したのはブッシュ上院議員を先頭とするテキサスの石油成金たちだといわれます.
ハーベイは一方で再びZRライフル作戦を組織し始めます.
10計画を進めようとする以上どうしてもギャングとよりを戻す必要が出てきました.
ハーベイは前任者エドワーズを介しロセリと接触を図りました.
エドワーズはマイアミででロセリ,オコンネルと会いキューバ・コネクションの再開を指示します.
ロセリはニューヨークに赴きハーベイから武器弾薬を引き渡されます.
マイアミに戻ったロセリはそれをマイアミのキューバ人に分配しました.
ところで理由は分かりませんが,今度はメイヒューとジアンカーナは作戦から外されたようです.
トラフィカンテとだけ組んでやるということです.おそらくはハーベイの指示でしょう.
たしかに参加者が少ないほど秘密の漏れる恐れも少なくなりますが,
ロセリ直系のボスであるジアンカーナがこれを知れば愉快ではなかったはずです.
暗殺計画が進行し始めたとき,ヘルムズ副長官がロバート・ケネディより状況説明をもとめられます.
ロバートといえば反シンジケートの鬼のような人物です.CIAにマフィアが絡んでいるとあっては聞きずてなりません.
マコーン長官に問いただしますが要領を得ません.
そこでCIAの実質上のトップであるヘルムスを呼び出したというわけです.
ヘルムズはかつてギャングと関係があったことを認めましたが現在は関係が切れていると強調します
.これは明らかに嘘です.ロバートは「われわれとの事前協議なしにマフィアといかなる接触も持つべきではない」と釘をさします.
・カストロ,危機一髪
今度の暗殺計画は一番成功に近かった作戦でした.
キューバ国内にカプセルを持ち込む「運び屋」には,買収されたスペイン外交官ベルガーラがあたることになりました.
ベルガーラは外交特権を使って警備の網を潜り抜けます.毒薬カプセルが再び持ち込まれました.
トニーの「救援隊」はまだ健在でした.
ベルガーラは救援隊のカソを呼び出しスペイン大使館内でカプセルを渡します.
カソはホテル・ハバナ・リブレを暗殺の場に選びました.
ハバナ・リブレはキューバ最高のホテルで海外の賓客が宿泊することも多かったのです.
館内には接待に赴いたカストロがしばしば立ち寄るビュッフェがありました.
カストロはそこでアイスクリームを食べるのが楽しみだったといいます.
恰好なことにホテルのバーテンダー,サントス・ペレスは救援隊の秘密隊員でした.
カソはペレスにカプセルを渡しアイスクリームにこれを混ぜるよう指示しました.
ペレスはこれを冷凍庫に隠します.準備万端整いました.あとはカストロが来るのを待つばかりです.
結局この計画も失敗に終わりました.別に当局に察知されたわけではありません.
ペレスをはじめとするハバナ・リブレ内の反革命分子が摘発されたのは,それから2年半も経った64年末のことです.
彼らの自白から恐るべき計画が明らかになったのです.
現にチャンスはあったのです.外国のゲストにあいさつするためホテルを訪れたカストロは,
くだんのごとくビュッフェに立ち寄りアイスクリームを注文しました.
注文を受けたペレスは冷凍庫の扉を開け,ふるえる手でカプセルを取り出そうとします.
ところがなんと容器は冷凍庫のなかで凍結してしまっていたのです.
ごりごりこじってもすぐには剥がれそうにもありません.
もちろんいつまでそうやって遅くなれば怪しまれます.この瞬間ペレスは実行を断念します.
こういうことは一度失敗するともうダメなのでしょうか.
ペレスたちはすっかり怖じ気付いてしまいカプセルをトイレに流してしまいました.
それにしてもピッグス湾のときのトニーの「失踪」とか冷凍庫の失敗とか,カストロ暗殺計画に
まつわるさまざまなエピソードにはなにかブラック・ユーモアを感じてしまいます.
あいつぐ暗殺計画の発覚に怒ったカストロは「われわれは米政府と闘いおなじ方法で対応する用意が出来ている.
米政府がテロリストどもを援助してキューバの指導者を排除するつもりなら,彼らの身も安全でないことを考えるべきだ」と発言します.
例によってのフィデル節ですがケネディ暗殺事件のときにこの発言が徹底して利用されます.
(3)AM−LASH作戦
・JMウェーブの解散
11月世界を震撼させたミサイル危機が終結しました.マングース作戦全体の運命については前の章で触れました.
CIA内のW機動班は規模を縮小され「特別問題スタッフ」と改称しました.
もちろんJMウェーブも解散です.
ハーベイはなおも暗殺計画を進めようとし,技術サービス部に細菌付きダイビング・スーツの開発を指示します.
カストロの趣味がダイビングであることに目をつけたのです.
このスーツをつけるとやがて毒薬が体に吸収されカストロはもだえ死ぬというのが目論見です.
ハーベイは,ピッグス湾の捕虜釈放のため米国側エージェントとしてキューバにおもむくドノバン弁護士に,
ウェットスーツを「カストロへのみやげ」として持たせようとします.しかしどういう訳かこの作戦もうまく行きませんでした.
タフネスをもってなるハーベイの泣き所がアルコールでした.
あいつぐ作戦の挫折からついにアルコール中毒になってしまったハーベイは,作戦責任者のポストを外されローマに転出します.
ハーベイはロスでロセリに会い,暗殺計画の中止を指示したあとローマに去っていきます.
残された特別問題スタッフ(SAS)は隠密的性格をさらに強化していきます.
SASはカストロ暗殺計画も新たに作成します.
このなかにはそれこそキューブリックが喜びそうなブラック・ユーモアの極致と呼ぶべき珍案,奇案があります
.たとえば結核菌をべったり塗ったウェット・スーツとか,カストロが潜る辺りに爆薬入りの貝を仕掛けるなどなど….
・最後の作戦「AM−LASH」
ピッグス湾からミサイル危機へと情勢が緊迫するにつれ,
キューバ国内での反革命取り締まりも厳しくなりました.
国内の反革命組織は63年末頃にはほぼ根絶やしになりました.
64年6月にはカストロの妹フアナが米国に亡命しました.おそらく最大の大物でしょう.
ニューヨークタイムスによれば彼女は60年以来CIAから金を受け取っていたといわれます.
しかしCIAには未だ切り札が残されていました.それはDR幹部で元大学学生連合委員長のロランド・クベラです.
CIAにおける暗号名はAMーLASHでした.彼はカストロともサシで話せる超大物でした.
彼の経歴について若干触れておきましょう.
クベラはハバナ大学在学中FEU作戦部隊の一員としてバチスタ政府要人暗殺にも関わりました.
大統領宮殿襲撃事件のあと潜伏中のところをファウレ・チョモンによりリクルートされDRゲリラの一員となりました.
58年1月の上陸作戦に参加しエスカンブライで戦闘を開始します.
やがてゲバラとともにサンタクララ解放を勝ち取ったクベラはハバナに出て大学に復帰します.
かれはDRに属しながらMR26の忠実な尖兵として活動,FEUの役選ではキリスト教系の候補を抑え当選を果たします.
FEU委員長となったクベラは,今度は平原派と闘いながら学生を革命の側に組織するのに大いに貢献します.
その貢献が認められ彼は青年反乱同盟の幹部に登用されます.
61年2月亡命者部隊の侵攻を前にしてメキシコでキューバ連帯会議が開かれました.
これに出席したクベラは,会議はそっちのけソナ・ロッサ(メキシコの歓楽街)で遊興にふけります.
市内だけではもの足りずアカプルコで足を延ばしたそうです.
行状はキューバ大使館の知るところとなりきびしい批判を受けます.
この間に彼に接近してきた「友人」がいました.彼はCIAメキシコ支局のフィリップスを紹介,密かに第1回目の会談がもたれます.
その後彼はエージェントとして秘密情報を流し始めます.11
・毒薬内蔵型ボールペン
ケネディが密かにキューバとの接触を図っていた63年10月,
SAS班長ブラウンはクベラを使ってカストロ暗殺を実行すべく作戦を策定しました.
ブラウンはクベラがパリに出張した際に会見するよう提案しますが,
クベラは危険を冒して会うのだから相手もしっかりとした政府の代表でなければ困るといいます.
そういわれてもケネディ大統領に隠れてこっそりやっている作戦ですから,そんなことはできるはずがありません.
頭を抱えたブラウンはヘルムズ副長官に相談します.
ヘルムズはマコーン長官に無断でブラウンのパリ派遣を了承します.
ブラウンは政府の正式代表になりすましてクベラと面会し暗殺計画を提起します.
高圧ジェットの毒薬を内蔵したボールペンが手渡されます.
しかしこの武器の詳細は不明です.まさかこれで刺せというのではないでしょうが.
こうしてクベラはキューバに戻り計画を開始します.しかしいよいよ秒読みに入ろうとしたとき突然計画は中止されてしまいました.
ケネディが暗殺されたためです.しばらくほとぼりが冷めるまではCIAが疑われるような行動は絶対できません.
それから1年が経ちました.64年12月CIAの代理として派遣されたアルティメがクベラとの接触に成功,
カストロ暗殺計画をふたたび検討することになります.
しかしこの頃からクベラの行動はG2から疑いの目で見られるようになっていました.
翌年6月情報を得たCIAはクベラとの接触を断ちました.
66年3月1日G2は1年半にわたる内偵の後クベラらの逮捕に踏み切ります.
クベラはカストロを狙撃しようとしたとの罪状で25年の刑を宣告されました.
ただしこの時点では計画の背後にCIAが存在することまでは解明できなかったとのことです.
・その後のカストロ暗殺の試み
AM−LASH作戦をもってCIAによるカストロ暗殺計画は終了しました.
ただし亡命者集団の計画は別です.
たとえば67年には,フロリダから高速艇で潜入したアルファ66の部隊がその2日後に逮捕されています.
彼らは潜入の目的がカストロ暗殺計画の実施にあったと自供しています.
それから4年がたちました.いまやCIAは70年に成立したチリ民主連合政府の転覆を目指す活動に集中しています.
フィリップスの側近となったベシアーナは現地で陰謀の中心人物として活動していました.そこへカストロがやってきたのです.
71年11月のことです.訪問の目的は窮地に追い込まれつつあるアジェンデ大統領を励ます一方,
分裂活動を繰り返すカストロ派学生を説得し統一戦線を擁護することでした.12
さっそくベシアーナとヘミングスのあいだで暗殺計画が立てられました.
記者会見の席上でカストロを暗殺することになりました.
犯人はカメラを偽装した拳銃でカストロを射殺,そこで革命を裏切ったカストロを糾弾するビラをまきます.
そしてかつてオズワルドがそうだったようにその場で射殺されてしまいます.
これが彼らの計画です.しかしこのプランは結局お流れになりました.
オズワルド役になろうと手を挙げる人が誰もいなかったからです.これもまたブラック・ユーモアです.
注
1 12月の意見書とは反対の結論ですがそれだけにこちらの方がリアルです.
つまりキューバは一見カストロのカリスマ性だけで支えられた国のようだが,
決してそうではなく,革命を支持する幅広い人材が存在しているのだという事実の反映でしょう.
2 キューバの捜査当局はピッグス湾を境に飛躍的に強化されます.内務省の保安局内に破壊分子に対する捜査を専門とする第二課が編成され,
ソ連のKGBから対牒活動に関する技術援助を受けたといいます.これは頭文字をとってG2(ヘ・ドス)と呼ばれます.
3 ところでハバナでトラフィカンテ釈放のために奔走したのがルービーです.かれはケネディ暗殺の容疑者オズワルドを暗殺したこ
とで歴史に名をとどめています.そのあと獄中で暗殺についての証言を求めますが,裁判所により拒否されたままガンのため獄死しました.
4 ランスキーは間違いなく悪漢ですがただの荒くれでないことも確かです.ハバナにトラフィカンテやジアンカーナが進出しようとしたときも容認しています
.このとき彼はシマの一つや二つで騒ぎ立てることはないのだといっています.
逆にキューバ革命のときランスキーは人より早く逃げ出すチャンスがあったにもかかわらず,ホテルの泊まり客が最後に脱出するまで国内にとどまります.
5 これが有名な「理髪店の虐殺」です.ニューヨーク・シエラトンの理髪店で散髪していたアナスタシアは,突然踏み込んだ刺客に銃弾をしこたま撃ち込まれその場で即死しました.
ランスキーの指示の下トラフィカンテが実行したものといわれます.
6 これが60年代初頭のマフィアの勢力地図でした.63年ジェノヴェーゼ一家の代貸しヴァラキの上院での証言によれば,
全米委員会委員長はランスキー,委員はマルセロ,ジアンカーナ,トラフィカンテ,ガンビーノ,ジェノヴェーゼなどとされています.
7 技術部のシドニー・ゴッドリーブ博士は毒殺「オタク」でした.彼は仲間内から「ストレンジ・ラブ博士」の異名をたまわったそうです.
ストレンジ・ラブというのは当時ヒットした映画「博士の異常な愛情」に出てくる殺人狂の名前です.ついでに言えばこの映画を作ったキューブリックも相当の「オタク」です.
8 NSCは独自の秘密活動担当委員会を持っており,当初はその中に対カストロ工作の検討にあたる特別グループを編成していました.
この委員会はCIAと三軍の情報担当責任者から構成されており,部屋の番号をとって5412委員会と呼ばれていました.ただこの委員会がどの程度秘密計画に関与していたかは不明です.
9 JMウエーブ責任者の一人シャックリは,のちに防牒部長となりジュディス・キャンベル殺害を指揮した人物です.
ジュディスはケネディの愛人兼ジアンカーナの情婦というよく分からない人物で「謎の死」を遂げました.
シャックリーはケネディ兄弟の共通の愛人だったマリリン・モンローの「変死」にも関係しているといわれます
10 CIAの暗号名の多さには閉口します.それが引用文献ごとに異なっていたりするともはやお手上げです.
CIAとは暗号オタクの集団なり,と達観すればよいのでしょうが,これでは当事者でも憶えきれないのではないでしょうか.
11 彼にしてみればもともと鬱屈した感情があったのでしょうがそれにしても感心しません.
飲んで荒れるような酒を飲んではいけません.お酒を召し上がる方は十分ご注意下さい.
12 チリにおけるカストロの一連の発言は一冊の本になっています.その内容たるや実に立派なものです.
過去の発言に見られるこけおどしのレトリックや,ときに強引な論理建てはここでは影を潜めています.誰にでも素直に納得させる,それでいて熱情あふれる見事な訴えです.
以前デルガド前大使と酒を酌み交わす機会がありました.それまで68年問題で仏頂面だった彼が,
この感想を聞いて急に満面笑みを浮かべて,抱きつかんばかりに喜んだのが思い出されます.
ケネディ暗殺
ケネディ大統領暗殺事件、
第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが1963年11月22日
(金曜日)現地時間12:30(18:30 UTC)にテキサス州ダラスで暗殺された。
ケネディは、ディーレイ・プラザで自動車パレードを行っていたときに複数の銃弾を受け致命傷を負った。
ケネデイ大統領のご冥福を心から祈るものであります。
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私の意見
とにかくキューバは問題でした。まあ今でも共産主義をやっている
数少ない国家です。 しかし 実際一人の共産主義者の考えで
米ソの核戦争寸前まで行きました。
もし フルシチョフが折れなかったら アメリカは核戦争を覚悟していた、とあります。
実際 カストロはフルシチョフにアメリカに向けて核攻撃の許可を再三 求めた、とあります。
キチガイですね。
どうなりますか?死者は2億人とか3億人です。
それは即死の数です。後遺症や他地域まで放射能の影響が出るでしょうから
10億人かも知れません。
他の核保有国 この場合 米ソ以外のフランス イギリス 中国 イスラエルも参戦するでしょう。
アメリカ ソ連どちらかの同盟国だからです。
何しろ 米ソで核爆弾 1万2000発です。地球を200回 破壊できる量だそうです、
私は1党独裁共産主義は嫌いです。武力覇権拡張主義なのです。
皆さん 騙されてはいけません。朝鮮戦争も共産主義者の武力覇権主義の結果南に奇襲攻撃ですよ。
いまその1党独裁共産主義の国は ロシア 中国 北朝鮮 キューバ スーダン です。
共産主義者に地球の存続が脅かされています。
人類は英知を持って共産主義者を撲滅せねばなりません。
日本の朝鮮総連も北朝鮮 金正日と一心同体ですから共産主義者です。
その金正日に追従している韓国も敵と考えるべきです。
独裁共産主義の北朝鮮は核兵器の保有を企んでいます。
人類の敵です。 。
カストロは思いとどまりましたが バカな金正日は自棄のやんぱちで核ミサイルの発射ボタンを
命令するかも知れません。
皆さん 北朝鮮の核ミサイルは日本に向けられているのです。
他人事ではありません。北朝鮮は公然と日本に宣戦布告をし、
韓国はアメリカに日本は仮想敵国であると申し入れています。
私は微力ながら共産主義者と戦っています
明智大五郎
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