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いかりや長介


ドリフターズのリーダーとして一世を風靡し
後に『踊る大捜査線』などのドラマで俳優としても偉大な功績を残した いかりや さん
世代によっては彼がミュージシャンという事を知らない人もいるので
今回は「いかりや長介」について書いてみたいと思います。


1931年 東京墨田区生まれ

いかりやさんが4歳のとき母親を結核で亡くし、小学校を卒業後 静岡へと疎開。
その地で終戦を迎えることとなる、、、

中学を卒業後、製紙工場へと勤めながら 同僚とハワイアンバンドを組み
ダンスホールなどで活動を開始する。

音楽を始めたきっかけは「女性にもてたい」という理由だったそうです。

その後、カントリーバンドへ加入を切っ掛けにベースへと転向する。
(ちなみに、このカントリーバンドのギターは「寺内タケシ」であった)

1962年 加藤茶や小野ヤスシが在籍していたバンド「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」へと加入!
いかりやが加入後 小野ヤスシらは独立したために
1964年 仲本工事、高木ブー、荒井注を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成!

1966年にはビートルズの前座として武道館で公演を行ったのは
あまりに有名な話である。

ただ、この時 前座に選ばれたバンドはドリフターズだけでなく
何アーティストもが入れ替わり立ち代りでステージに出ていたため
仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』を演奏したが
1コーラスも披露出来なかったそうだ、、、

また、「日本で初めてチョッパー奏法をプレイした男!」などと話題になったが
実の所は その頃ウッドベースからエレキベースへ転向したプレーヤーでは主流であった
親指弾きというのが事実であるらしい、、、


しかしながら いかりや長介が日本で初めて
フェンダー製のエレキベースを使用した人というのは意外と知られていない話である。

余談だが、ザ・ワイルドワンズの島英二にピックを進められたが
「コントに支障がでる!」との理由で断ったそうである。


その後TBSテレビの『8時だョ!全員集合』で一世を風靡し、同番組が終了後
俳優として活躍『踊る大捜査線』和久平八郎役、『独眼竜政宗』鬼庭左月などに出掩

2004年4月公開の映画『恋人はスナイパー THE MOVIE』が、遺作となった、、、


晩年出演したビールのCMでエレクトリック・アップライトベースを演奏する姿があったが、
本人もいたく気に入っていたようで、その写真が遺影に使われた。


2004年3月20日永眠 享年74(72歳没)