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-philosophy-

僕は別に哲学専攻でもなんでもないので、カントの純粋理性批判における物自体について、となかんとかいうようなことは書けませんが。哲学に興味があり続け、考えつづけもしているので、身近なことに関して、そういうところからの考察を書けたらよいな、と思います。ここに書くものは必ずしも細かな調査に基づいたものではなく、自分にとってもこれからの探求のもとになるような僕の推察的性格が強いのものです。

道徳の外在化ついて(12/05/02)
アンドレ・コント=スポンヴィルというフランスのソルボンヌ大学の哲学教授の『哲学はこんなふうに』を読んだ。彼は道徳についてこう言う。「道徳は、ぼくたちが自由であるところではじまる。道徳が自分で自分に判断を下し命令を与えるとき、道徳とはこの自由そのものにほかならない」。この本自体は僕は気に入らなかったが、彼のこの言葉は一理をついていると思う。
法律は道徳をもとにしていると考えられることがある。人を殺してはならない、迷惑をかけてはならない等々の法律的規則を見たときに、人々は道徳をその裏に見るのだろう。しかし、私たちがそれらがなぜ悪いのか、と問うた時、その理由を法律に求めることは出来ない。道徳にこそ求めるべきである(道徳の系譜学的起源についてはここでは考えないことにするが)。ある法律で禁じられている行為を(たとえ自分は正しいと思っていても)、その行為を行ったら罰せられるからという理由でしないのであれば、それはむしろ私たちが抱く道徳観とは正反対のものですらあり得る。ニーチェが行った道徳批判(キリスト教批判という形での)はまさにここを鮮やかについたとも言える。
ニーチェが指摘したキリスト教道徳の危うさとは、その道徳が「絶対的価値」を持っていたことに起因する。絶対的故に問われないという危険。実際には崩壊寸前なのに、その現実をタブー化する絶対性。ニーチェはそれを見抜いた上で、そのキリスト教道徳の起源を弱者の恨み(ルサンチマン)の結果だとし、それ故それは屈折したものだ、と説いた。屈折したものを「絶対的なもの」と疑問すら寄せつけなかったその構造に危うさ、その結果としてのニヒリズムを、ニーチェは当時のヨーロッパに見たのであろう。
こういった見方をとると、日本社会が実に危ういものであり、その崩壊は免れないのではないか、と思われてくる。日本は「恥の文化」だといわれる。これを最初に唱えたのは『菊と刀』のルース・ベネディクトだと思うが、この「恥」というものが日本文化の道徳を固持してきたという指摘はよくなされるが、この「恥」というものは結局自分の自由における判断であるはずの道徳を外的に規定するものに他ならない。もちろんこの「恥の文化」という考え方自体が議論を呼ぶ内容であるので、これが正しいとは言い切れるものではない。また、一神教キリスト教を大きな土台としてきたヨーロッパと日本とが違うことは当然なのであるが。また、この日本の「恥の道徳」がヨーロッパにおける一神教下の道徳より劣っているとは思わない。社会的多様さや歴史を抜きには語れないが、単純に欧米諸国と日本の犯罪率を見ても一概に「恥の道徳」が劣っているとは言えないだろう。しかし、そこに僕は避けがたい危うさを感じてしまう。ニーチェがキリスト教道徳に決定的な危うさを見抜いたのとは別の危うさを。
道徳は、ヨーロッパでは唯一絶対神が決めたものだから絶対的なのだ、という図式で語られる。ところがそのような絶対的な神をもたない、多神教で、その神々が絶対正義でもない日本において、この図式は成り立たない。日本が古来から持ってきた道徳観は歴史的に見て、儒教等の中国思想の影響強い(この儒教自体が非常に政治的で現世利益的なことも見逃せないかもしれない)。日本の道徳は儒教の影響を受け、いわば封建的制度の中で保持されてきたと考えられる。初期日本が儒教のような政治的側面の強い道徳規範に影響を受けていることも興味深いが、「恥の文化」と言われるまでに成熟したその社会的道徳は非常に興味深い。
道を外れ長くなったが、端的に言って、僕が言うこの危うさというのは、この「恥の道徳」が基本的に道徳の外在化にほかならず、コント=スポンヴィルの言う、「道徳とは正反対のもの」なのではないか、と言うことである。以前にヨーロッパ的道徳は神が不在となったら(宗教心がなくなったら)歯止めをするものがなくなり、非常に危険だという議論をどこかで聞いた。では、日本では「恥」がなくなったら何が歯止めをかけるのであろうか。ヨーロッパの一神教世界にはぐくまれた道徳の内在性というものが、日本人には薄いように感じる。戦後日本における「人に迷惑をかけなければ・・・」という言説は内在道徳を無視しているし、「恥」を否定するものであったとも言える。その結果としての現代日本が今何を道徳基準としているのだろうか。
(付記) こういった中で、僕は「武士道」を読み返していて、それが「封建的」と言われ、否定されてきたような強制的抑圧的なイメージを少しも持っていないことに驚き、そのむしろ自分の生き方を自分で選ぶという姿勢に感動した。絶対的という側面を強調し、そこから外れるものを許さない(キリスト教には「赦し」という概念があるがそれにもトップダウン的絶対的イメージが付きまとうように感じる)という姿勢よりも、理想としての道徳基準に魅力を感じる。

哲学とは?(10/17/02)
現在というか、もう数年のことでしょうか?哲学ブームというのがあったように思います(今でも書店の哲学コーナーに行くと哲学入門書がかなり新たに出版されているところを見ると、まだ続いているのかもしれませんが)。確か始まりは「ソフィーの世界」にあったような気がします。私も最初の部分だけは読みました。本はソフィーと哲学者のやりとりの中で進んでいきます。そこには何で私はここにいるのか、なんの為にいるのか、といった哲学的問いが提示されていたように記憶していますが。始まりは良かったのですが、後半が単なる哲学史的内容に終わってしまったところで、私はこの本に対する興味を失ってしまいました。
哲学とは、自分が自分の問題として捉えられる、いや、もはや自分が捉えられてしまっているというような問題においてしか成立しない、と中島義道氏は言います。そして、その問いというものは、決して簡単ではない。言葉の精緻な議論の積み重ね、それは決してやさしいものではないでしょう。中島氏はこういった哲学入門書を批判していますが、それは、哲学とは決してニーチェはこう考えた、ウィトゲンシュタインはこう言った、というレベルでの問題ではないと。ニーチェの哲学はニーチェにとっての哲学であり、ニーチェ自身が避けがたかった問いというものにたいし、ニーチェが挑んだものでしかありません。そのニーチェの哲学の結果は、ニーチェではない私たちにとって無意味なのです。哲学とは、哲学をすることに等しいでしょう。哲学とは結果ではない。過程である。だからこそ、哲学は自分が問わずにはいられない問題が自分に迫ってこなければ、成立し得ないのです。いわゆる哲学入門書の多くは、ニーチェをわかりやすく、つまりニーチェの哲学から精気を抜き取った形で私たちに示しているに過ぎないのです。それはもはや哲学ではないでしょう。これは何もアカデミックな哲学研究の立場からの、スノッブな批判ではありません。中島氏は何よりも、アカデミズムとしての哲学、つまり大学教育の中の哲学を批判しているからです。大学の哲学は、哲学学でしかないと。大学の哲学は自分の問題として哲学を捕らえるという姿勢を強調するにいたっておらず、また血の通っていないカントやニーチェを相手にしているにすぎないと。哲学とはどこまでも生き方であり、厳しい自己批判を含むものなのです。