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上野正章様より2003/3/22に行われた高槻ワークショップの感想をいただきましたので、ここに掲載します。


ランドゥーガ 2003.3.22

上野正章  

簡単なようで難しいものは無数にあるが、即興演奏はその筆頭かも知れない。「自分 の意の向くままに演奏してもいい」となると、最初はなんて簡単なのだということになる が、続けていると、だんだん同じことの繰り返しになってきて − 要するに種が尽きて しまうのだ。なかなか間が持てない。そのため、どうしても工夫が必要になる。とはい え、上手く行くようにと構成を考えてメモし、見ながら演奏すると、残念なことに、もは やそれは即興演奏といえなくなってしまう。なんと難儀なものか。そしてそれゆえ、一般 に即興というと、いくつかのパーツを作っておいて、それらを即妙に組み立てていくこと というのが相場となっている。基本パターンを叩き込み、それらを瞬間的に組み合わせる のだ。でも、そうは言うものの完全なる即興は不可能なのだろうか。

この疑問は、実に魅力的な疑問と見える。多くの人々がこ難問に取り組んできたから だ。そして音楽の歴史を紐解くと、実に多くの格闘と解決法を眺めることができる。

多分、最も上手にこの問を解いたのが、集団で行う即興演奏という方法ではないだろう かと私は思う。つまり、多数の人々が即興で演奏することによって、その全体において生 じる音響は全く予測のできないものとなるという論理からなる音楽である。こうすれば、 確かに全体の音響に関しては、予測は不可能だ。ただ、この集団即興、なかなか耳にする ことが無い難しい音楽でもある。つまり、ちょっとコンサートの予定を探してもそんなも のはまずやっていないらである。その理由は−すぐわかるだろう。そのようなものを嬉々 として見に行く人々をみつけることができるだろうか?

そんなわけで、どこか身近なところで即興音楽を演奏しないかと網を張っていて、運良 く引っかかったのが、このランドゥーガだったというわけである。さっそく申し込んだの は、いうまでもない。

ランドゥーガの実際

さて、当日、出かけていったわけであるが、会場は、幼稚園であった。最初はなんと なく不安であったが、会場に入って、納得。木造の、天井の高い、そこそこ大きいお遊戯 室で行うらしい。これは音がよさそうである。でも、小さい椅子が円形に綺麗に並んでい るのを見て、心配になってきた。私は、幼稚園のとき、お遊戯がものすごく苦手であり、 そのときの思いが不意に甦ってきたからである。どうやらその中の一つに座るらしい。楽 器が電気を使用するという関係で、コンセントに最も近い席に座ったのだが、あたりを再 度見回すと、なにやら怪しげな人がいっぱいいる。これは、大変なところに来たものだと 思い、落ちつかず、見回していると、そのうち、佐藤氏が出現し、なだらかに、「ラン ドゥーガ」が、はじまった。

最初は声を使っての即興であった。ばらばらと手を挙げ、自分で声を出すという、全く 簡単なもの。しかしながら、自分を表現するということと、周りを見回して、間をはかる という二点が含まれた、実に素晴らしい即興へのイントロダクションであると感じた。つ まりそれは、自分が発信するということと、周りを気配るという、言ってみれば、イン プットとアウトプットが最も単純な形で含まれた、一番原初的な即興の形だからである。 また同時に、インプットとアウトプットを繋ぐ間をはかるという、音楽で最も重要な要素 の一つである生き生きとした持続する時間というものが、声を出すという最も単純な行為 で確認できるからだ。これにはいろいろ考えさせられるものであった。ちょっと余裕が出 てきて、さらにじっくりと周りを見てみると、筋金入りの即興者から、全くの初心者まで いることがわかった。というのも、古株の人は、物怖じせずに堂々と表現するし、非常に 豊かな即興のパレットをもっていることが透けてみえるからである。反対に初心者は、 おっかなびっくり、こわごわという感じである。

そうこうしているうちに、ちょっとづつ変化を与えられ、また、複雑になりながら、即 興、つまり、ランドゥーガが進展していった。怖気づいていた人々が、にこやかになって くるのを見て、だんだん人間というものは、環境に慣れると大胆になっていくものだなな どと感じているうちに、一つ上のステージに上がることになった。楽器の使用である。

スヌーピーの、ライナス君の毛布のように、手に馴染んだ楽器というものは、心をほぐ し、奏者を安心させる役割があるようだ。楽器を持ったとたん、仔細に調整したりして参 加者が自分の馴染んだ世界に入りはじめたように思われる。すると佐藤氏が楽器の特性と 奏法についての説明を行った。二点あり、大きい複雑な音が出る楽器と、そうではない単 純な楽器、つまり、シンセサイザーとトライアングルのような、楽器の二分法の提示とそ れを意識すること、次いで、楽器を演奏するときは、自分の馴染んだ奏法から離れること を試みるようにということである。これは実に難しいことである。高度な楽器だが、ま ず、楽器に習熟してない人は、土台無理な相談である。そして、楽器の熟練者は、逆に手 が楽器の運動を覚えてしまっているので、困難となる。さりとて中途半端に演奏ができる 人は、これまで勉強した基本パターンを、すぐに指がはじめてしまう。涼しい顔で、常 に、だれにでもわかる言葉で、過不足なく正確な指示を出す佐藤氏をみて、さすがに即興 音楽のプロよと、改めて感心する。

そんなこんなで、楽器を使った即興演奏が始まったのだが、これも実に面白いもので あった。まず、みんなが、苦労している様が興味深い。そして、朗々と佐藤氏の指示に反 して高度な演奏している人々もいるかと思えば、覚束なく、手作り楽器を持って演奏して いる人々もいるし、なんだが、流暢だが、考えながら演奏している人がいる。私は、笙を 持って行って吹いたのだが、中途半端に練習しているから、基本的なコードを指が自動的 に抑えてしまいそうになった。

全体の流れはというと、奏者が自由に入り混じってというわけではなく、一人一人が順 に音を出すという形態である。従って、他の人が音を発するありさまをじっくり聞くこと もができ、私にとってはいろいろ発見があった。多様な音形なり、パターンを知ることが 出来た。後で思うと、この作業は自分が即興演奏するときのヒントや素材を探し出すとい うレッスンであったような気がする。また、もうひとつ思ったことは、楽器のヒエラル キーや、高度な楽器と単純な楽器という発想は、人間社会の縮図のようにも見て取れるこ とである。これは、様々な程度の権力を持っている人々が共存する際にはどのように振舞 うべきかという問題に通じるだろう。ランドゥーガの場においては、つまり即興演奏にお いては、主張し、同時に他人を配慮し、穏やかに自己を律することによって新たな可能性 を見出すことができるという論法であるように感じられたが、このモデルは現実社会とど のような関係にあるのか…。難しい問題である。

ちょっとくたびれてきたところでお昼となった。なにしろ、笙を吹きつづけるのには体 力が要る。そういう意味で、笙は、確かに繊細で複雑な可能性を秘めた楽器だが、権力的 な楽器とは言い難いということに気付き、明治以前の日本を思い浮かべる。  午後。午後は午前の流れがさらに進展させられ、本格的な即興に入っていった。午前と 違うのが、全体を指揮するという概念が導入される点である。つまり、全体の中から、ひ とりが選ばれて、いくつかのパターンで全体を統御する権利を与えられるのである。他 方、その他の人々は、それを見つつ即興を行うという方法である。パターンには次のよう なものがあった。すなわち、離散的な音の分布、全ての楽器が持続的に鳴らされたところ のいわば線としての音、またそれがうねる波としての音。連続的に一定の時間を取って発 せられるパルス、全ての楽器が鳴らされた状態の、いわば点としての音等々。指揮者は、 これらを組み合わせて、全体の音響を構成するのである。もちろん、指揮者は順繰りに代 わってゆくが。

ここで、ランドゥーガという即興音楽は、一人の即興によって全体が制御され、他方、 個々人はその指示に従わなければならないものの、同時にその指示の範囲内で即興を行う という、新しい段階に入っていったようだ。まずは、一人が全体を指揮する練習である。 こわごわと、あるいは、雄弁に、みんなで、僅かの時間ずつ指揮してみたのだが、やって いても、見ていてもこれは面白かった。ここでも古株の人々の雄弁さは特筆すべきもの で、実に見事に「指揮」を行っていた。ただし、初参加の人のこわごわやる指揮が場合に よっては、非常に面白い効果を生じることもあり、興味が尽きない。中には、視覚(演 劇)的効果を狙ったもの、言語表現にかかわる音声の使用も見られた。これらは確かに面 白いことは面白いのだが、なんというのか、文学書に飛び出す絵本の仕組みを応用した、 飛び出すページの仕掛けを設けるようなもので、あまり望ましい感じはしなかった。つま り、限定された範囲の中での即興のほうが、その内における可能性を徹底的に追求するか ら密度が濃くなるという理屈である。 ついで行われたのが、幾人かが中央で即興演奏を行い、それに配慮しながら、指揮者が全 体の音響を制御するという即興演奏である。これは難しい。特に指揮者は多くのことに目 配りが必要になってくるからである。でも、いろいろ考えているうちに、フィナーレに なってしまった。フィナーレはこの即興の発展型。どうするのかというと、自由に個々人 が即興を行うのだが、指揮を順番で行うのではなく、ひとり一回ずつ、必要に応じてその 機会を与えられるというのである。椅子はその機能を終え、取り払われ、さっそく演奏で ある。

やってみて、これは不思議なものであった。自分の興味の赴くままに即興が行われるの だが、その際特定の興味のある個人に絡んだり、それが集まって集団になったり、またそ れが、ばらばらになっていったり、ゆっくりとした時間で全体が動いていく。個々の点が 自立的なライフゲームのようだ。印象に残ったのは、どんどんと音が減ってゆかずに、だ んだん音が大きくなっていくという点である。不思議なことに、先のパターンの話に戻る が、離散的な状況を指揮者が示した際の音響もそうであった。つまり離散的にはなかなか ならないのだ。だれもが思いのほか大きな多くの音を発するから、音がカオスとなり、繋 がって、雲のようになってしまうのである。健全な一般的な人間は表現への欲望をごく普 通に持っているということを知り、いろいろ考えさせられるものがあった。また、たとえ 自分がこれまでの手の運動と異なった動きを止めようと努力しようが、音を大きく鳴らそ うが、全体の音響は制御されず、指揮者にならない限りそれは、絶対に不可能であるとい うということも、いろいろ後で思う点であった。

そして、ランドゥーガは終わった。非常に多くのことを考えた、実によいコンサートで あった。

©上野正章

最終更新2003/10/15
ランドゥーガ研究会 http://sound.jp/randooga/index.html