-Note-
現在「稲置学園教育・心理相談センター」は活動を休止しておりますので、本講演会についてのお問い合わせには対応できません。ご了承ください
(この講演記録は,佐藤氏と稲置学園の御許しを得て転載しております)
こんにちは。普段は割と空気の悪い地下の煙草の煙がもうもうとあるような所で演奏をしたりしてまして、このようなきれいな所で、こんな高い所にいていいのかなあと思います。
しかし、何ですね。こういう教室でしょ。あのー、僕はこっち(教壇)側にはあんまりいないんですけども、そちらに昔いてね。あんまり学校に行かないで、バイトばっかりつまり、ピアノばっかり弾いていたもので、今だに夢をみるんですね。
急に何か知らない教室に入って座ると先生が黒板で、なんか訳のわからないことやってて、何だろう、なんて思うと、急に「ええでは、これから試験をする」なんつって凄い焦ったりなんかする夢を今だに見ますけども(笑)。
今日は、即興演奏というものについて色々とお話をしようと思います。
我々はいつも即興演奏をやってるんで、これは大変愉快なものであると思ってるんですね。でも、知らない人から見ると、とっても不可解なものであるようです。
即興演奏。英語で「インプロビゼーション」あるいは「アドリブ」というふうに言います。これを色々な角度から見て、どういうものであるかという、おぼろげな概念を皆様がお持ちになってお帰りになれば、大変めでたい。と、こういうことでございます。
さて、このようなアカデミックなところでは、最初に定義ということをしなければいけないんだそうで、誰が決めたのかわかりませんけれども。
まず、即興演奏に対応する英語は「インプロビゼーション」または「アドリブ」、あまり使いませんが「エクステンポラリゼイション」という言葉もあります。意味としては即席、即興、一時しのぎ。その場をごまかす。
まず、古典的な、つまりクラシック音楽ではどうかと、音楽用語事典という、厚い本を引いてみました。それによると、「前もって準備された楽譜やスケッチ(暗譜を含む)によらず、演奏者によって、直接自発的に生みだされる演奏。」とあります。これは「全体的即興演奏」と「部分的即興演奏」に分かれる。
「全体的即興演奏」というのは、何らの手がかりなしで、楽曲の構成、実現、全てが演奏者の自発性に委ねられる。演奏自体が完全な創作行為となる。
「部分的即興演奏」は、既存の曲に対して、装飾を加えたり、あるいは楽曲のメロディに対して、もう一つメロディを創る。
つまり、声部を加える、というようなこと。それから、「または」とありまして、与えられた主題、モチーフ、短い楽曲に編奏、展開などによって、新しい部分を即座に創りだしながら演奏をする、というわけですね。
当然のことながら音楽の成り立ちのもとをたどっていくと、即興に行きついてしまうわけです。つまり、ショパンでも、バッハでも、ヘンデルでも、何でも王皇貴族の前に出てですね、バラバラバラーと弾くわけですね。で、弾いて、「アッ!これ、よかったな」と思ったものを家に帰って忘れないように書き留めた、それが即興曲だったりなんかする。と、こういうわけですね。
ところが今は、譜面を一生懸命覚えて、それを演奏するっていうのが音楽という行為だというふうに大部分受け取られていますけども、実はそうではなくて、即興的に出てきたものをたまたま書き留めた、というのが、まあ楽譜であるということだと我々は解釈しています。
なんで、そういうふうに、楽譜をやたらに尊重するようになっちゃったかっていうと、今世紀の始めに、ある種の即物主義というような考え方が出てきました。
そこで、とにかく記譜された(書かれた)音を忠実に再現しなければいけないってね。
で、演奏の即興性みたいなものが極度に抑えられてしまった、という歴史的な背景があるわけです。あんまり譜面に書くということを一生懸命やって、作曲家かなんかが「ここのところちょっと遅くしたい」と思ったら、「ここからここまで何秒でやんなさい」とか、そういうことをやたらあちこちに色々な指定がくっついちゃって。で、それに反発して「もっと自由に音楽をやろう」なんて動きも出てきたわけですね。
大体、1950年前後ですかね。第二次世界大戦が終わってから、割合そういう動きが出てきまして。「チャンスオペレーション」というようなものですね。そういう音楽も出てきた。これは西洋の、つまり、ヨーロッパのいわゆるクラシック音楽と呼ばれている世界での出来事なんです。
一方、東洋には、もともと「インプロビゼーション」というものを重視する音楽というのがたくさんありまして、あとで色々聴いていただきますけども。アラブの音楽であるとか、インドの音楽であるとか、あるいは韓国の音楽であるとかっていうのは即興演奏をするということを一番高い概念というふうに見ていますね。
例えば、さっき配ったプリントの中で、「インプロビゼーション」のことについて書いてあるところがあります。
長府、下関ですね。そこに「忌宮神社」という非常に古い神社がありまして、この神主さんに聞いた話なんですけども、「板神楽」というのを大晦日の晩にやるんだそうです。
それは、宮司さんと副宮司さんが、夜の海に出て、身を清めて、神社に帰ってきて、2人だけでこもって、杉の板をコンコンと鳴らして、なにか自分で祝詞みたいなことを言うんです。それには、口伝がありまして。口伝というから、どんな凄いこと教えてくれるのかなあと思うと、「カンノウの趣くままに、奏すべし」というのが、鎌倉時代のころからずうーっと代々伝わってきた口伝なんですね。
つまり、「感応」。「カンノウ」というのはSEXYな「官能」ではなくてですね、物に応じる、「感じる」という字に「応じる」という字を書く、「感応の趣くままに演奏しなさい」というのが口伝だという、つまり、これがインプロビゼーションなんですね。だから、東洋にもインプロビゼーションはある、というわけです。
ですので、今日は、色々なインプロビゼーションの在り方みたいなものをテープを聴きながら、お話をしていきたいと思います。それが、みなさまの手元にある本日の定食のメニューの1番だったんですけど、2番目の、「音楽以外の分野で」って書いてあるのは、どおってことはなくて。
例えば、皆さんいらっしゃるかどうか分かりませんけれども、昔は、「ディスコ」、今は何ていうの?「クラブ」って言うの?行くじゃないですか。何か音楽がかかっている。そこで踊る、ということをみんながやった場合に、誰かが決めた踊りを踊りますか?誰もそんなことしないでしょ。自分が好きなように踊るでしょ。それがインプロビゼーションなわけね。もう既にね。
だから、常に音楽以外にインプロビゼーションというものはたくさん存在しているわけです。詩なんかでもそうですね。昔、室町時代に、「連歌」というのがありましたけれども、「連歌」っていうのは何人かが、集まってそこには当然ある方式があるわけです。季節が決まっていて、花の座とか星の座とか、あるテーマみたいなものが、ずうーっとあって、という決まりがあるんですけども。その決まりの中であればどういう詩を読んでもいい。前の人が読んだ詩の終わりのところのムードを持ってきて、自分のものにして、そこで、作る。これ、インプロビゼーションなわけですね。そういうのがたくさんあるわけです。
僕が最近大変おもしろいなあと思ったのは、今ドイツでインプロビゼーションというものが、音楽としてのですけども、とっても注目されてるんですね。
それはどういうことかっていうと、精神障害の人達、例えば、精神分裂症であるとか、自閉症であるとか、そういう人達の治療にインプロビゼーションが非常に効果があるのだといわれて、とても研究が進んでるんですね。
インプロビゼーションっていうのは、ある決まりの中にいる限りにおいて、何でも好きなことをやってもいい。そこのところに自分の囚われている精神を開放するっていう作用があるんですね。だから、そういうことに気が付いて治療に使おうというふうになってきているわけなんです。
ちょっと話がそれますけれども、慶応大学で分野横断的なインプロビゼーション研究っていうのを、今やってるんです。その中には、お医者さんとか、学校の先生だとか、そういう人達もいるんですね。
僕が専門的にインプロビゼーションをやっているということで、病院に出かけて行って、例えば精神分裂症の人とマンツーマンで、向こうが楽器で何かやることに演奏で答えてあげる、というような実験をやってみよう、という構想が出ています。
僕は実験台になるらしいんですけども。インプロビゼーションがそういうことのお役に立てば大変いいなというふうに思います。
それでは、3番目のインプロビゼーションの枠、軌道という所に入っていきたいと思います。
先程申し上げましたように、インプロビゼーションというのは、何か枠があって、決まり事があって、その決まり事の中で自由が保証されている。そういう色々な決まり事の在り方を知っていただくために、3種類の音楽を聴いてみたいと思います。
一番最初は僕のホーム・グラウンド、「Jazz」のインプロビゼーションです。
Jazzのインプロビゼーションというのは、どういうふうになっているかというと、もちろん時代と音楽のスタイルによって違いますが、これからお聴かせする、「All The Things You Are」という曲を例にとりますと、36小節のメロディがあり、それに和音・ハーモニーがついてます。
その36小節のハーモニーのつながりを何遍も繰り返し使って、新しく自分なりのメロディーをその場で作って行く。これが基本的なジャズにおけるインプロビゼーションです。
ここではカルテット、つまりサキソフォンとピアノと、ベースとドラムスがいます。
まずサキソフォンが、さっきの方式で、自由にそのハーモニーの中で音楽を創る。ピアノはもとのハーモニーに従って和音を弾く。ベースは同じく和音に沿って低音部でリズムを作る。ドラムスは、もちろんハーモニーがありませんから、そのぶんの注意力をリズムに向ける、という役割分担になります。
サキソフォンは、36小節を何回かやってイヤになったら、ピアノがやる。ピアノが終わったらベースになる。で、またメロディが出てきて終わる。こういうフォームになっています。
では、これを聴いてくだい。
(「All The Things You Are」のテープを聴く)
これが古典的なJazzのインプロビゼーションです。多分、最初に、メロディが出てきてたので、もし覚えてらした方がいたら、そのメロディをずうーっと歌っていると今どのへんをインプロバイズしてるっていうのが大体わかるというような、仕掛けになっております。
次は、アラブ音楽でのインプロビゼーション。
「ナーイ」というのは、葦の茎でできた立て笛です。リードも何もついていない筒を吹く。その後ろに「タクシーム・ヒジャーズ」とレジュメに書いてあります。「タクシーム」というのが、インプロビゼーションに相当する言葉です。
ただし、その方法がジャズとは違っていまして、「マカーム」と言いますが、これは「旋法、旋律の断片がある程度決まっている音階」、一口に音階と言ってもいいんですけど、音階であると同時にある節回しが決まっている、というものなんですね。そのマカームの名前がヒジャーズという音階です。音階をいうと、「レ」、それから「ミのフラットのちょっと高めのやつ」、「Fシャープ」、「G」、「Bフラット」、「C」、「D」ですか。まあそのような音階です。
これと同じことをインドの音楽では「ラーガ」と言います。
ナーイの奏者は、そのヒジャーズというマカームにそって、タクシームをする。
大体どうなっているのかというと、最初、低いところでもって旋律をやっていまして、しばらくたつと、次の上のオクターブになり、クライマックスのところで一番高いオクターブになって、それで、またもとに戻ってきて、下のオクターブになって終わる。
これを枠組みとして、伝統的な旋律の断片を自分の好きなように組み合わせて創っていくというインプロビゼーションです。
(「タクシーム・ヒジャーズ」のテープを聴く)
次は、お隣の韓国のインプロビゼーションを聴いていただきたいと思います。
曲は、「コムンゴ・サンジョ」といいまして、「コムンゴ」というのはお琴です。「玄琴」っていうのかな。
弦が6本ありまして、一番向こうにある弦とそれから手前の2本を除いて、真ん中の2、3、4の弦にギターでいうフレットみたいなものが16個あります。
右手で竹製の「スルテ」というバチを持って、左の手で弦を押し下げると、ギターでいう、チョーキングみたいにミョーンと音程が上がります。
日本のお琴では「押し手」というんですけども、音程が上がってまた下がる。その細かい装飾音符の形などを含めた伝統的な旋律型を奏者が覚えて、それを自由に組み合わせていくという、インプロバイズの方法なんですね。そこのところはアラブと共通しています。
面白いのは曲の構成で、拍子、ここにも伝統的なリズムの型があるわけですが、基調となる一定のリズムが続く間が一つのゾーンとなっていて、そのゾーンをいろいろに組み合わせて曲が成り立っているのです。
このリズムをもとにした構成を「長短」と書いて「ちゃんだん」と読みます。
それぞれのリズムには名前がありまして、6拍子だったり、12拍子であったり、7拍子のもの、5拍子のもの、11拍子のもの色々あります。
拍子の数だけじゃなくて名前によってある程度の速さと、どこにアクセントがあるのかっていうのが決まってくるわけです。
琴のほうにはさらにそのリズムの名称にそった伝統的なメロディの形、あるいは定型句というのがたくさんある。それで演奏者はそれを覚えなければいけないんですね。
それから「チャンゴ」というのは大鼓です。杖の大鼓と書きます。
左手に太いバチ、右手に細いバチを持っています。
両面に皮が張ってあって、こっちで「ドン」、こっちで叩くと「カン」ていう音がするわけです。それでリズムを出すわけです。
コムンゴ・サンジョって書いてありますけど、サンジョっていうのが、曲の形式です「散調」という字を書きます。
サンジョは普通は5楽章に分かれていますが、今日聴くのは、4つに分かれてるんです。
どういうふうに分かれているかっていうと、一番最初が「チニャンジョ」。ジョっていうのは、多分「調」のことだと思う。これは非常にゆっくりした6拍子です。
で、頭にアクセント。ドン、2、3、1、2、3、というふうに、ついている。それを、繰り返していって琴の奏者が次にいくよという気分になったときに、次のところにパッと入ります。
次は「チュンモリ」です。チュンモリは12拍子なんですけども。9拍子目にアクセントがあります。
つまり、1、2、3、4、5、6、7、8、9!、10、11、12。
それから3番目がチュンジュンモリといいます。これも12拍子です。チュンモリよりちょっと速くなった状態。
それから曲のほとんど終わりの方なんですけども、「チャジンモリ」。
全部「モリ」っていうのがくっつくのでそば屋みたいですけども。チャジンモリ、これも12拍子です。それぞれ、微妙にアクセントのある場所が違うんですね。
それで、つまり、琴の奏者がある節をいくと後ろの人が「あっ、そうか」ってその節にあったような、基本的なアクセントの他にその節にあったような「合いの手」でもってアクセントをパッと入れていく、で、お互いの息の合い方みたいなものが、聴き所だと思うんです。とにかく伴奏の人がそれを察知していくと。実際に聴いていると凄くいい合いかたをしたときに客席から声がかかるんですね。日本の歌舞伎みたいに。客席が湧いたりとかっていうこともあります。非常にゆったりした曲なんですけど、面白いとおもいます。
では、聴いてください。(「コムンゴ・サンジョ」のテープを聴く)
最後のチャジンモリっていうのは、今、僕がちょっと手を打ってたんだけど1、2、3、4、っていうこのテンポなんですね。つまり大きく分けると、123、123、123、123。3連音符が4つあるみたいなリズムになったわけです。
さて、次に聴いていただきたいのは、ここに書いた白玉、玉の数は全部で53あると思うんですけど、まあ拍子でいうと53拍子なんですね。
で、赤いところがアクセントになっているという曲なんです。どうなるかっていうとその赤いところだけ打って、間をすこし埋めたりなんかしていますと、(手拍子)、こういうアクセントですね。12345678って頭の中で勘定しているわけではなくて、これは「うねり」みたいなものがあって、身体に入れているわけなんです。
これを延々繰り返していてそのアクセントの間を好きなような状態でもってインプロバイズして埋めていく。最後にだんだん元曲のメロディが出てきて、最後にそのメロディをやって、この外側に別に1個ついているところでおしまいっていう曲が、今度聴く「バンブー・シューツ」です。
演奏は僕がやってたグループなんですけどパーカッションの「高田みどり」さんとこういうやり方やってみようかって言ってレコーディングしたものです。
では聴いてください。
(「バンブー・シューツ」のテープを聴く)
赤い玉を追えましたか?アクセントの場所だけ決まっていて、後は何でもいいっていうようなことがお分かりになったと思います。
いい気になってテープを聴いていたら予定の時間を大幅にオーバーしそうなので、ちょっと端折りましょう。
私が一番言いたかったのはレジュメの4番なんですね。
4番にきたころはもう、お別れの時間という感じがいたしますが、今まで聴いてきた「色々な枠を決めてやるというインプロビゼーション」よりも、「何にもない」、「何でもあり」という、つまり格闘技でいえばK−1ですか、拳法でいえば日本の拳法、つまり、なんでもぶっ倒して気絶させた方が勝ちみたいな、「何でもありというインプロビゼーション」というのが、一番面白いんです。
やってる当人が言ってるんだから間違いないんで皆様も色々試みられたらいい。
今日はそういうワークショップもやろうかと色々欲ばったこと言ってたら、考えてみたら5時間ぐらいかかるかなあという感じなので、足元の明るいうちにみなさまに帰っていただくためにも端折った方がいいかなあと思われます。
それで完全即興、フリー・インプロビゼーション。つまり、何もないってことはどういうことなんだっていう話になってきます。じゃあ、どうしたらいいんだろう。
そうは言っても何か手掛かりがないと、しょうがないわけですね。それにはどういうことがあるかというと、まず動機です。
つまり、ベートーベンのシンフォニーでいえばダダダダーンみたいなやつね。ああいうものが頭の中にポッと浮かんできたら、それを発展させていったらいいのではないかと。
あの、素手でもって何にも使わないで、崖かなにか登っていっちゃうのあるでしょ。そういうのと同じように、何か「ひっかかり」が1個あったならば、その先を探したらもう1個必ず「ひっかかり」があるという感じなんです。
つまり、どっかひっかかってきたものをよく見ると、その中に次に展開していくべき何かっていうものが含まれていることがあるんですね。その含まれているものを何とかして、芋づる式に発展させていくというのがフリー・インプロビゼーションの基本的な考え方なんですね。
それで、動機っていうのはどうやって出てくるのかというと、つまり、言うところの「インスピレーション」というものでしかないわけで、それは何だっていう話になってくるともう心理学や医学の領分です。
もうちょっと先にいくと、宗教で、ヒゲの生えた空中浮遊する人になっちゃったりするんで、あんまり踏み込むと話があやしくなりますので、踏み込まないことにいたしますが。
我々は日常何かの音楽を聴いていて、その聴いている音楽の中から何かのモデルみたいなものを自分の中にこしらえているわけです。そういうもののお導きによって、話があやしくなってきた、お導きによって、何かのとっかかりが出てくる。
つまり内側から出てくる、内発性といいますか「スポンテネイティ」あるいは「独創性」、「インジェヌイティー」ですか?そういうようなもの。
それから、あとは自分がわけ分からなくなって、つまり、昔は「ぷっつんする」、最近は「切れる」というそうですが、ある種切れた状態になったときに、出てくるものが、多分動機ということになるんでしょう。その動機にすでに内在している、色々な要素ですね。言葉を換えれば特徴と言っても良いでしょう。
例えば、「音がここからここへ飛んだ」とか、「短い間にたくさん音がある」とか、「空白が多い」、「なめらかな旋律だ」、「ざらついた音だ」、「速い」、「遅い」とか色々な特徴がその動機の中にあるわけで、その特徴を自分がどういうふうに捕えるかっていうところから、インプロビゼーションが始まってくるわけです。
特徴をとらえたら、それをどう続けるかを考える。例えば、ドレミって何の気なしに弾いたとしたら、これは、「上昇」、「音が三つ」、「初めがド」、「終わりがミ」、というような特徴があるわけですね。
それを足場とすれば、次はファソラっていくのか、ミレドって戻った方がいいのか、シラソって下へいった方がいいのか、ミで終わったからミミミミでいった方が良いのか、瞬間的に色々な可能性を考える。その可能性のどれかにポッと行ってしまうと、だんだん音楽の流れが少しずつ始まってくるわけです。
ある程度流れてきてしまうと、割と展開していくっていうのは楽なんですね。
フリー・フォーム・インプロビゼーションっていうのは、フォームが無いっていうのではなくて、フォームを自由に選びとって自分でこしらえていく。つまり、ある音を出して、それが演歌みたいになっちゃってもいいわけです。演歌になっちゃいけないという規則はないわけですから。
では、演歌になっていて、そこからロックみたいにしたいかなあっていってロックになるとか、そういうのが自分の頭の中にあるモデル、モデルを音楽のスタイルと言ったのはむろん単なる「たとえ」ですが、それに従って、ずうーっとやっていくという意味なんですね。
最終的にはモデルすら存在しないような不可思議な世界がそこに立ち現れる、という状態が経験できると、これはもうフリー・フォーム・インプロビゼーションの面白さの極致ですね。やめられなくなること請け合いです。
フリー・インプロビゼーションの根本的な考え方としては、形式・フォームをどのように選びとっていくか、どのように組み合わせていくか、それから、どのようにそれを運んでいくかということなんです。
さて、今までは、動機という自然発生的に出てきたものを発展させていくという段階の話ですけど、もうちょっと長い時間、例えば2分経ち、3分経ち、5分経った段階ではどんなことが起こるでしょう。
ひとつ言えることは、必ずどこかが同じような状態になっていることがあるんですね。
例えばリズム、あるいは速度感がずっと同じであるとか、音の組み合わせが同じで一つの調に固定されてしまっているとか、音の大きさが同じであるとか、あるいは、音の使われている範囲、音域が同じであるとか、様々な「同じ様な」が見えてくるわけなんです。
ですから、それをどうしようか、そこから違うところへいくには何があるかっていうのを次に考えなくてはならない。
何故、違う所へいかなきゃいけないかというと、音楽、というよりは人間が創り出すものは、飛行機でいえば、離陸して上昇して、安定飛行に移り、いつかは下降するというプロセスを辿るようになっています。
いつまでも飛んでいるわけにはいかない。いづれは燃料が切れて落っこちちゃう。つまり混沌状態の中から、インスピレーションを受けて何かを創り出すとき、発展段階にあるうちは問題ないが、必然的にどこかで停滞します。それをそのままに置いていくと、腐敗するわけですね。腐敗、つまり飽きる。
この第4段階ですか、飽きるという状態になる前に事を起こすというのがフリー・インプロビゼーションの鉄則でしてね。ある良い状況があったときに常にここから抜け出すにはどうしたらいいんだろうと考えているわけです。
これから聴いていただくのは録音状態があまりよくないんですけど、僕とネッド・ローゼンバーグというサキソフォン・プレイヤーのデュオです。
これは、「大体何分ぐらいやろうよ」、あとは最初ネッドから、「お前独りで吹けよ。途中でそっちがやめたら、こっちが独りになるから」って、そのくらいのことだけ決めて。
後は、彼はどういう音の使い方をしているかとか、どういう速度感を持っているか、どういうアクセントをどこに入れているのか、それから、どこで息を切っているのか、しばらく続いたら、アイツはもうそろそろ何か他の状況に移りたいんじゃないかな、というようなあたりを考えつつ演奏したものです。
(佐藤允彦とネッド・ローゼンバーグによる即興演奏のテープを聴く)
というわけで、2人でどういう心理状態になってやっているかというのを割とお分かりになったんじゃないかなと思います。
では、最後にフリー・インプロビゼーションの意義というような点をお話したいと思います。
実際に演奏してみるとわかるのですが、約束事をどんどん取り払って、状況がフリーになってくると、自分の中にあるモデルというようなものが頼りになる、あるいはそういうものに左右されるという傾向があります。
例えば、僕だとHome GroundのJazzっていうのがどこかに顔を出す。アラブの人がやれば、アラブの音組織みたいなのが、どこかに出てきてしまう。
別の言い方をすれば、演奏者の本来の姿が現れるということです。つまり、いっしょに演奏していると、考え方の違いが明白になってくる。楽譜というような約束事があれば、それを守ることによって「すり合わせ」ができていたのが、ここではそれが無い。
ではどうやって意志の疎通をするかというと、共通語をさがせば良いわけです。
先程も触れましたが、例えば、リズム、パルス、あるいは速度感、アクセント、呼吸の長さ、音の密度、強弱、このような要素はスタイルや国境を越えて共通語になりうるものです。
もしアラブの人が伝統的なアラブ音楽の組立てかたにこだわらず、ジャズの演奏家がジャズの方式を離れて、今言ったような要素だけによってインプロヴァイズしたなら、コラボレーションが充分成立するはずです。
もう一点、実はここが一番大切だと思うのは、フリー・インプロビゼーションは「異質」を排除しないということです。むしろ積極的に迎え入れる。
つまり他の人と同じことをやっていては何にもならないので、他の人と際立った何か違うものを自分が持たなければならないんですね。
それから、他の人が何か言いたい時には、いつでもふっと退いて、他の人が言っていることを聴く、それから、他の人が聴きたいなというのを察知したらすぐさま自分の意見を言う、というような音楽上のやり取りみたいなことが、そのまま自分と他の人との人間対人間の関係にそのまま応用できるというようなことなのではないかなあと思います。
フリー・インプロビゼーションみたいなものをみんなでやるようになれば、いじめとかそういうのはなくなるだろうし、みんなが行くから東大に行かなきゃいけないとか、そういうこともなくなるだろうし。僕は他の人とは違うから、僕は僕の道を行くと。それから、彼は僕とは違うけれども、彼は彼でとってもいいものを持っているなあというようなこと。そういう見方が出来る様になるのではないかと思いまして、なるべくフリー・インプロビゼーションというのを世の中に広めたいなあというふうに思ってはおります。
みなさんも何かチャンスがあったら、こういうようなことで遊んでみていただきたいと思います。
どうも、ありがとうございました。これで終わります。