<群馬の教育>(1995) 巻頭言 自然科学で戦う  S-8  No337 
                       2011年12月15日(木) 

 

 

 敗戦から50年が経った.その50年前, 私は山口県の防府(当時三田尻)にあった海軍の学校で, 敗戦を迎えた.

 

  8月上旬のある日, 教官が私たちに言った. 「広島に強い光を出す新型爆弾が落ちた」その翌日,学校は艦載機の空襲を受けて全焼した.火事による放射は熱いというより痛かった.目の前に見るアメリカの戦闘機,太ッチョのグラマンや,双胴のロッキードは, 怖いというより美しかった.翌日,焼け跡を片付けている所へ教官が来て言った.「長崎に例の爆弾が落ちた.しかし,恐れることはない.黒い布と白い布を配るので,命令された通りに,その布を被れば安全である」.数日後,よく聞き取れない「玉音放送」を聞いた.学校に赤痢が蔓延していた.仮設の便所は,半分土に埋めた大きな樽の上に2枚の板を渡したもので,みんなその前に行列し,用便が終わると,また後ろへ並んだ.何人かの生徒が死んだ.下旬になると,無蓋の貨車による復員が始まった.それは赤痢列車であった.順に連結器にまたがって排便した.列車が止まると,一斉に貨車から跳び降り,線路横にしゃがんで用を足した.気がつくと,列車が腹をみせて転がっていた.一面の焼け野原のそこは,広島だった.新型爆弾は凄かったのだと思った.配られることはなかった白と黒の布を思った.

 

 復員した学校では,先生たちは変貌していた.世間の価値の基準はひっくり返っていた.大人たちに腹を立てた以上に,「国の為」に志願して軍人になろうとした自分自身に腹を立てた.中学を4年で卒業し,就職したNHKはすぐに首になった.()  従来の学校の科目でも, 人文系の学科では, 私の答えは, 先生が示す模範解答とは微妙に食い違っていた. そこへゆくと, 理科系の科目では答えがはっきりしていて気分がよかった. 数学では, 一つの答えが出た. 理科では実験が答えを決めた. 私は信じるに足る理科を選んだ. 何が正しいか, どこに嘘があるかを見極めることを当面の課題とした. そしてそれはライフワークになった.

  <もの>の威力は, 理屈に優先することだ. 犯罪捜査でも, 百の状況証拠より, 一つの物的証拠が決定的だ. 誰が, いつ, どこでやっても, 手順に従いさえすれば, 同じ結果が出るのが<ものの世界>である.物質世界は「民主的」なのだ.

 戦争中, 大人たちは嘘をついた. 言わせた者がどこかにいたのだが, 言った方にも責任はあった. しかし, 現在でもそれは変わらない. 集団催眠にかかったとして, テレビの画面いっぱいに, 踊りまくっている大勢の人たちを見たことはないだろうか. 全く狂気の沙汰だが, そんなことが現在でもまかり通っているのだ. 番組のスタッフだけでなく, 参加者も一団となって虚偽をでっちあげているのは恐怖に価する. 視聴率のためには, そしてまた出演料がよければ, 何でもやる. このような例は枚挙に暇がない.

  一方,<霊界>云々をいう,一部タレントの存在には“あれはマンガだ!”で済むこともあろうが, 社会的に「認知」されている宗教に関しても同じことだ.先日,テレビで青年仏教僧50人の中の4人が“人体浮揚を信じている”という無知さを暴露した. オーム同様救われない.第一,人間の救済を目的とする宗教が,人間の殺し合いの役割を果たしている現状を凝視すべきだろう.

 人間の心のはたらきは,物質の最高の形態に於けるすぐれた物質的作用であり,物質を離れて何事も存在しないということに,確信が持てるようになれば,世界の透明度はずっと増し,視野がぐんぐんと広がるだろう.美しさを追求する芸術や,安らかさを追求する宗教には虚構が許される、とする主張がある.しかし,そこに拠らなくても,科学的自然観を持って生きた人は,きっと,“美しく安らかな人生だった”と, その終焉を総括することができるだろう.

  とはいうものの, 科学的自然観を支持する者は, 相も変わらず少数派なのだ. このような自然観に対する反論には, 特定のパターンがある.

  その第一は, “自然科学でもわからないことがある” というものである. 知識人といわれる人が, 尤もらしい顔をしてこう言うのによく出くわす. それは, 全く, 自然科学に無知な人の発言なのだ. 敢えて言えば, 自然科学で分からないことはないのだ. 現在, はっきりしない事柄も, やがて理解できるようになることは疑いもない. 知見の広さも深さも, 時代とともに益々増している現実を見てもわかるというものだ. 霊界などの特種の世界が自然科学で解明できないというのは, それが存在しないからだ.

  第二のそれは, 少数派に対する批難であって, お前たちは “ひねくれているんじゃないか” というものである. このタイプの発言は, 少数派を封殺するのに全く有効なのだ. これは多数派に属している安心感が, そう言わせるのだろう. “みんなで渡れば…”のたとえの如く, 巨人・ヴェルディ・双子山に人気のある所以である. 「田舎教師※※」云々の発言に見られるように,作用反作用に関する私たちの少数派の主張が認められるまでには,まだまだ時間がかかりそうだ.

  第三の言い方は, “夢がなくなってしまうのではないか”である. ネス湖の怪獣がでっちあげであることが判明した. ネッシーでもクッシーでもイッシーでも, 世界中の湖に怪獣を空想するのは楽しいかもしれない. 英国の国土の, 特に北方の荒涼とした大地には, 何の産業もないので, 観光資源としてのネッシーをつくり上げた「必然性」は理解できなくもない.その意味では気の毒であった.しかし,ネガティヴな部分を見逃す訳にはいかない.少女が箒に乗って空を飛ぶ宮崎駿の<魔女の宅急便>を,私はお話しとして拒否するものではない.だが,健康な夢は,他にも,まだまだたくさんあることを知りたいものだ.

 第四の言い分は,“社会主義は破産した”というものである. “すべてのものは原子からできている”という唯物論の基礎は, しかし, どんなことがあっても揺らぐことはない. 地球上でできた最初の「社会主義」の国が,あのようなものであったこと, を残念に思うだけだ.

 

 自然科学は、虚偽や不正と戦うための武器なのだ.

 

 

 ※  職業軍人ということで公職追放されたのであった。当時、私は16歳であった。

 ※※ 有名な学者さんたちが、“作用と反作用はつり合う”と書いている例を挙げて、その誤りを指摘したところが、生徒の一人から

“たかが一田舎教師が”と批判された。それに対して、私は“それでも地球は動いている”と答えたものだ。

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