理科実験を楽しむ会
もっぱら ものから まなぶ石井信也と赤城の仲間たち 

  KZAK報告(4) G-4 No352 2012412()

 

  8  笛吹-氷川(1967/8/9)

  KZAK山行も回を重ねて4度目ともなると, 要領がわかって来たこともあって, この日はバタバタと用意してサラリと出掛けた. 堤さんは若さにものを云わせ, 金峰から帰った日には海へ出掛け, 今日帰ってきたばかりだという.

  朝の立川駅は混雑がひどい. 人の流れに流されて地下道の階段を上がって行くと, 目の前で745分発の五日市の電車が出て行った. 私たちの残念がる様子を見てか, 男の人は話しかけて来た. 「この41分発の氷川行に乗って拝島で乗り換えれば,今出た電車に乗れることがありますよ」私たちは教えられた通りにして逃した電車を捕まえた. 

  五日市で朝食,笛吹まではバスで約1時間, 座席に横になって転げ落ちそうになりながらも, 清水・堤両氏は寝た.

  笛吹峠への登りは, 草の繁みがいくらか多くなっている程度で, 前回の下りの時と何等変わったところはない. 道がわかっているという気安さもあて, 3人とも快調そのもの, 初日にこんな調子のよいことは曾てない. 丸山分岐では, 清水さんがスケッチブックを取り出す余裕をみせた. そこから笛吹峠へはなんなく着いた. プレートNo11は健在であった. 山梨県からの吹き上げが程よかった.

  尾根に沿っての道ははっきりしていたが, 薮は場所により相当ひどかった. でも, 所々に明るい箇所もあり息を継がせてくれる. そういうところには花の大きいキキョウが咲いていた. 堤さんが盛んに空腹を訴えたが, 西原(サイハラ)峠まで足を伸ばして昼食にする.

  2時出発, すぐ, 小さいコブを右手に巻いた. それが槙寄山であったようだったが, 魅力もないのでそのまま前進する. やがて, 斜面に植林された杉苗の下草を刈っている人に出会う. <三頭へは1時間だ>というその三頭は目の前にデーンとあって, とてもそんなことでは行きそうもない. かなりの急坂が続く. 清水さんは少し頭痛がするという. 大沢頭には枯れた大木があり, 木屑が地面に散り敷かれていた. 虫の仕業だ. 果たして穴の中に黒光りする奴がいて掘り出す. ミヤガクワガタの雌である. そこから約6分で三頭避難小屋があった. レンゲショウマが紫色の美しい花をつけている. 水場は右手の沢を50mほど下ったところで, 勿論, 下って水を掬った.

  霧で三頭の頭は出たり隠れたりしていた. やや下って登ると三ツ頭の中央の頂上に出た. 人は誰もいなかった. 白い花をつけた樹に蝶が沢山寄っていた. アオバセセリ・アカタテハ・ヒョウモン類, 珍しくもテングチョウがいる. コムラサキとスミナガシモ飛び回っている. ここにNo12を打ちつけた. 西峰にも行ってみたかったが, 視界が悪いのでやめにした. 境界はここからどこへ続いているのか分からなかった.

  下りが少々きついことはわかっていたが, 歩き出してまもなくうんざりした. 小屋跡らしいところで道が分かれた. 地図を出して磁石を…,磁石を山頂に忘れてきたことをここで気づく.チェッ! 一方の道は鶴峠へ行くものらしい. おつねの泣き坂では足が笑った. モロクボ尾根に入ってからも小さい上り下りが沢山あった. 夕陽はどんどん高度を下げて行くのに, 私たちの高度はいっこうに下がらぬ. そんな時, オオムラサキの飛翔を見た. ケーブルカーが近くになったとみえて, 道がよくなった. 展望台ではウサギが薮に逃げ込んだ. やっと着いたケーブルカーの駅は無人であった. 屋上の生ビールの提灯に喉が鳴った. 奥多摩湖に下る頃には, ドラム缶橋でヤマメを釣っている若者の顔がはっきりとはわからぬ程の暗さになっていた.

  深山橋からいい具合にバスが出た. 今夜は鴨沢で幕営し, 野菜と肉を買い込んで…と予定していたその鴨沢には八百屋も肉屋もないことがわかると, いくばくかの討論の末,衆議一決して, 折よく遅れて到着した氷川行の終バスに乗り込んだ.

  氷川の町は<提灯祭>とかで町中が賑わっていた.店々は明るく灯をともし,山車が行き,踊りの列が続き,おまわりさんが笛を吹いていた.こんな町の中で3人組は買物をした. 清水さんは幕営地の河原に着く頃急に具合が悪くなった. それでも堤さんが腕を振るったスキヤキの長葱をうまいと云って喰った. 川音が祭の声を消してくれた. 夜中によっぱらいが流れて来てテントに石ころを投げて行った. 

 

  9  氷川-小袖(1967/8/10)

  氷川の町は昨夜の祭りの名残をあちこちに留めていた. 7時だというのに町全体がひっそりしている. バスは出発間際に大勢の中学生が乗り込んで来て満員になった. それがみな鴨沢で下りた. 私たちが<かき氷>で下界の味と朝の別れを惜しんでいる間に,彼らは出発して行った.

 道は取っ付きは少々きついが,左手下に散在する家々と,その間を綴る道路や川が少しずつ配置を替えていくのが楽しかった.堤さんが疲労気味だった.二度目の休息を小袖鍾乳洞ヘの分岐点でとった.歩き出して丁度1時間だ.<鍾乳洞へ7分>と私たちは看板の文字を読み取った.「頭を冷やしに行ってみるか」と,どちらかが云いどちらかが同意した.それもよかろうと私も思った.ところが,鍾乳洞へは空身の速足で20分を要した.そこは谷が狭く,バンガロが崖の下にかろうじて足場を得て止まっているといった所であった.人は誰もいない.洞穴からは寒い風が吹き出していた.私は荷物が心配になったので一人で先に引き返した.やがて,帰って来た二人は冗談とも本気ともつかぬ云い方で,<今日はここへ泊まろう>と申し出た.勿論,私はこの提案を蹴飛ばした.何だ! まだ午前10時じゃないか. だが…二人とも調子はよくないようだ. じゃあ, 昼食にしよう. 食って寝りゃあ元気になるだろう. 昼食の後を昼寝の時間にすると二人はシートを敷いてガックリ寝た. この時間, 私は手持ち無沙汰であった. 身体を動かさないと人間は考えことをはじめる. <何だって今時こんなところでぼんやり雲なんか眺めているんだろう. 俺はどうして山なんか歩いているんだろう. 妻子を家に置いて, 自分一人で好きなことを…俺は好きで山へ来ているのだろうか. 宿命みたいなもので, 何かに歩かされているんじゃないかな. でも, 嫌いではなさそうだ> 綿飴のような雲が流れて行く. アセチレンの匂いを嗅ぎながら, 赤いタライの中から魔法のように湧き出して来る綿飴が,割り箸にくっついて太っていくのを, もっと太れ,もっと太れ,と念じながら, 見守っていた幼い日の興奮が頭に浮かぶ. 夜店の風景が次々に登場する. <あの頃はよかったな.子供の頃は><?><息子もやがて山へ行くようになるのだろうか.危ないからやめろと俺は云うかもしれないな.でもどうしても行くと云ったら…>

 陽が移って二人の身体から杉の木の影が逃げてしまっても,そんなことは睡眠を妨げる原因にはならなかった.些かのたくらみもあって二人の寝姿を写真にしてから,すでに1時間が過ぎているので彼らを起こす. 荷物を背負うと堤さんの足元はふらついていた.

  <今日はここに泊まろう>と私が言った.<ゆっくりだったら七つ石までいけるよ> <いや,ここで泊まる> 私は有無を言わせず,リーダーの権限で泊まることを言い渡たした.

 午後の時間を鍾乳洞めぐりに費やした.堤さんによればケーヴィングというのだそうだ.それは1番から8番まであって, もっとも深いという5番をかなり奥まで入ってみた. こうもりがバサバサと頭上を飛んだ. 身体をよじって狭い所を抜けると大きなホールがあったりした. ライトが届かぬような高い天井もあった. 穴が迷路のようにあちこりに入り込んでいて, 私は少し心配になってきたが, 堤さんはどんどん奥へ進んだで行った.

  管理人の家には不幸があったようで, 夜になっても事務所には誰も来なかった. 私たちはテントを張るのをやめにして, 広い部屋で思いきり手足を伸ばした. 葬式の列が明々と灯をともして登って来る夢を見て目を覚ますと, 谷筋から朝の気配が上がって来ていた.

 

  10  小袖-将督峠(1967/8/11)

  急な斜面を石垣を区切って造った僅かな平地に小袖部落の家々は並んでいて, その間を桑畑が埋めていた. そんな斜面の一隅に新しい祭壇が造られ, 花輪と供え物と白木の墓標が, 周囲とは不釣合いな色彩を見せていた. 烏につつかれた果物が散乱している. 私たちの姿を見て烏はもう枝に逃げていた.

  昨夜の休養がきいたのだろう. 私たちは30分歩いて5分休みのリズムに乗った, 堤さんは完調である. 彼はうんと食ってうんと寝れば馬鹿みたいに(失礼)強い. 昨日の不調は嘘みたいだ. 七つ石小屋から七つ石山に登り, 久しぶりで境界に立った. 鴨沢からの境界線は小袖川に沿い, この石尾根につき上げてから七つ石を通って雲取へ続いているのだ. 小袖川を忠実に詰めることは私たちには少々無理なのでイージーな方法をとったのである. 雲取小屋の近くは広々とした草地でその一角にヘリポートが造られてあった. 吹き流しがダラリと下がっている. 清水さんが飲んだここのコーラは90円であった. そこから更に一喘ぎで雲取山頂に着く. プレートの14番は避難小屋の壁に打った. 例によってヤキソバの昼食を作っていると,捕虫網を持った学生風の人が登って来た.

  <何を採集しているのですか> <おかしなものなんです> そう言って彼は虫籠を出した.<シリアゲムシというんです> 中にはハチくらいのよわよわしい虫がいっぱい入っていた.シリアゲムシは石炭紀から生存しているのだが未だ分類もはっきりしない, 年間2度発生し,雄は名の通りシリを上げている,日本には20数種産し,今回は4種を採集した, と彼の説明は丁寧であった.   

 虫屋さんに別れを告げ,同時に東京都と別れを告げ,清水さんの<おらが国さ>の埼玉県に入る.三条ダルミまでは,がくがくの下りだ.狼平から三ツ山の左手を巻いて,落葉松の美しい道を進むと岳雁台という展望台があるが,これをパスすると,北天のタルに着く.<北天のタル!>私はこの名前がすっかり気に入った.あのタルミを越えた向こうには幸いがあるかも…という里人の思いを連想させる.

 約30分で飛竜神社に至り,近くの<はげ岩>でその展望を楽しんだ後, ここにザックを置いて飛竜へ向かう. シャクナゲの中の踏み跡を約10分で山頂. ここは展望が悪くNo15を打ちつけて帰る.

  道は国境が走る尾根を大きく左に迂回し, 大常木山・大喰(オオバミ)山はいずれも巻いてしまう. 鬱蒼とした暗い林の中の道だ. 水場は3ケ所あった. いい加減あきた頃左手下に将監小屋が見えて来た. 将監を清水さんはショーランと呼び, 堤さんはショーカンと呼んだ. 私が何度ショーゲンと訂正しても, 清水さんはショーランを改めなかった. 今回の山行の度重なるリーダーのワンマンぶりに,清水さんは反感を持っているのだろうと私は思った. <俺にさからっているんだろう>と云うと<あしらっているんだ>と答えが返ってきた.

 荷物の軽量化の犠牲になってビールは担ぎ上げなかったが,小屋にビールがあると知ると,私たちは150円を惜しまなかった. ゴッコと湧き出るここの水は冷たくてビールはいやがうえにも冷えた. カレーの作り方について堤さんはうるさかったが, それはうまかった. すぐ上のテントからは講義調の話が聞こえて来た. そして<生産性>という言葉が何度も何度も繰り返えされていた. 

 

 第11  将監峠-赤志(1967/8/12)

  上のテントは2時頃から起き出していた. 私は3時半に二人に声をかけたが, とても起きそうもないので一人で食事の用意にかかる. 4時頃<生産性>の連中は出発して行った. 5人のパーティーらしかった. 私たちが食事を終えてテントをたたんでいる頃, 小屋の主人がやってきて<ここにいた連中はどうしたか>と聞く.1時間ほど前に出発して,今日は甲武信の泊まりだとか言っていた旨を伝えると,<幕営料も支払らわずに行ってしまった,1時間前の出発なら30分で追いつく>といいながら, もう峠に向かって駆け出していた. 鼻の下に髭をたくわえたフトッチョが長靴で駆け出して行く姿は少々ユーモラスであったが,  130円で計150円のために善良な山男に汗をかかせた<生産性>の連中に憤りを感じた. 

 昨日のそうであったが,今日のコースも道は境界を僅かに外れた尾根の左側についているが,この道を歩くというイージーな行き方に不満を持った堤さんの提案で, 昨夜,小屋の主人に尋ねたところ,尾根筋を歩けないこともないが約2倍の時間がかかるだとうということであった.今日は天気もよいのでそうすることにする.山の神戸で,メインロードを右手に入り唐松尾山を目指す.先ず,寄り道をして,御殿岩に登りそのすぐれた眺望を満喫する.そこからは今日これから歩こうとする尾根筋がずっと見えていた.唐松尾山までははっきりした道がついていた.睡眠に強い私も,流石,連日の寝不足ですこぶる眠い.唐松尾山頂にはNo16を打つ. ソーダーラップにバターつきのチーズクラッカーがなかなかいける. ここには営林署の境界標識があった. それは木の杭で, 739の数字が入っていた. この杭はかなり古いもので, 痛んでいるが数字だけは書き直したようだ. ここからいよいよ踏み跡を辿ることになるが, それは最近手を入れた形跡があった. 小さなしかしなかなかきついコブをいくつか越えた. 例のポールは20mくらいの間隔で確実にその数字を減らしていった. 自分たちは今, 忠実に境界を歩いているということが満足であった. 新しい石杭が所々に打たれていて, これは失われた木の杭を補充したものであった. 人は入らぬと見えて, 紙くずなど一片もない美しいコースであった. 踏み跡が2分したところが黒(木偏に兎,漢和辞典にもない。写し誤りか?)頭であるらしかったが, ポールを追うことで, 右手の道が正しいことがわかった. 笠ケ岳が見えてきた. こちらから見ると二つ頭だ. 最後の急登で達した頂上には<笠ケ岳>の標識があった.これは明大WVで打ったもので, ブリキをM字形に切り空色の地に黄色の文字で山名を入れたもの, この稜線の山頂にはずっと打ちつけてたった. 関東分水嶺踏破というNECのモニュメントはNo27が打ち込んであった. この件に関しては,後日,清水さんが問い合わせたところでは次の通りである. NEC玉川事業所開所30年記念で昭和41年に行い, パーティーは別々で17地区に別れて計35本のポールを打った. 1回の日数は3日程度. ナンバーは勿来(ナコソ)1番で, 私たちとは逆である. 記録の整理はまだできていない. マネージャー古川さんの電話は 0427-22-6711 内線 284 である.

  下りはかなり急で,右手の林間に赤い小屋の屋根が見えていた. 真下に見える古びた屋根は, 下ってみると無人であった. その辺を散歩していたハイカーが小屋の主人は不機嫌だと話していた. その雁峠山荘は二階建てのこじんまりした美しい小屋であった. 発電機もあり, 水道もあった. 小屋の周囲にはちり一つ落ちていない. 小屋に顔をだして <水を使わしてください> と挨拶すると, 鼻の下を除いて頬から顎にかけて立派な髭を蓄えた気難しそうなおやじが<ああ>と無愛想な返事をした.私たちはここで昼食にし,テントなどを干した.いざ出発という段になって,私は1時間の昼寝を宣言した. 2人とも少々あっけにとられていたが, 清水さんは落葉松の木陰ですぐ寝入った. どうせ甲武信までは無理だ. 下るにしても広瀬までは無理だ. それに今日は夕立はないと小屋のおやじは云う. とすれば昼寝でも,という判断であった. 堤さんと私は近くのお花畑を散歩し, それから小屋に貼ってあった秩父営林署の地図を400円で譲り受けた. それは色刷りで5万図にない道まで入っていた. 植物・動物・鉱物の産地まで記入されていて便利である. ついでに今日歩いて来た道のことを話すと, ここは今年の埼玉国体の高校コースに決定していて, この6月に整備したのだという. どうりで…こんな話の間 <将監小屋のおやじのひげ+雁峠山荘のおやじのひげ=完全なひげ>という等式を頭に浮かべて, 私はひそかに笑みを堪えていた.      

 雁峠からは登りはジグザクで,これを登りつめた燕山で一休み,30分ワンピッチを清水さんは28分くらいに値切った. 25分を過ぎると, ちょっとした広場を見ては<よい休憩所だ>などと謎をかけた.私がそれを無視すると<うちへ来てもビールを飲ませないから>と脅迫した.それは困るので28分くらいで休憩ということになるのだ. しかしながら快調である. 古礼の分岐に荷物を置いて古礼往復. 古礼の標高について賭けをし, 私が負けて缶詰のミカンの分け前が激減したという一齣もあった. 水晶山頂には林班区5253の標示があった.少し曇ってきて展望がきかない.

 ミヤコザサの間の道はやがて私たちを雁坂峠へと導いた.全くすばらしいお花畑だ.白色のリョウブ・イブキトラノオ・ウスユキソウ,黄色のイワインンチン・アキノキリンソウ・オタカラコウ,赤色のコウリンカ・ヤナギラン・ヨツバシオガマ・アザミ,青色のグンナイフウロ・オオバギボシ・マツムシソウ.花の好きな方は是非この時期にここを訪れることをお勧めする.ここからぐんぐん下っていくつかめの沢で幕営とする.かなり遅くなってから関西の大学生が3人登ってきて隣にテントを張った. 明日はもう少し下ればおわりだと思うと気が楽である. 堤さんが昨年広島から出て来て, この1年半に登った山の名を挙げてみたら84座あった.

 

  12  赤志-広瀬(1967/8/13)

  地図上に幕営地を確認できなかったが, 昨日はかなり下ってしまったらしく, 1時間半ほどで, 広瀬に着いた. 途中, スモモの木があって, 落ちた実を心ゆくまで食ったことを書き添えねばなるまい. 広瀬には笛吹川西沢に入る家族連やミーチャン・ハーチャンたちがわんさといて,宣伝の威力に今更ながら驚かされた. テープレコーダーを持った女の子に<今日はどこまで行くの>と尋ねると<みんなの後についていくの>ということであった.そして,二千円で行ける日本の秘境という週刊誌のページを開いてみせた.

 私はバスを待つ間に,次回予定の破風山の稜線を望遠鏡で追った.鶏冠(トサカ)山の凹凸が見事に空を刻んでいた.

    

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