『〜十代の叛乱〜 』
〜EARLY 80'S OSAKA HARDCORE PUNK〜
 

1980年代初頭、大阪。
週末ごとに警官達とバトルを繰り広げ、それを見物する人々が交差点にあふれたほどの暴走族ブームは去ってはいたが、
ミナミやキタを徘徊する若者達のほとんどはヤンキーであった。
このアジア独特の風俗は依然大阪を席巻し、
まるでティーンエイジャーすべてがヤンキー化したのではないかと思うほどであった。
ヤンキーは生まれつきの悪人面を、脱色したパーマに剃りこみを入れ眉毛を剃ることでさらに狂暴化させ、
下品で粗野で無責任で暴力的で他人を敬うことを知らない人間像を好んで演じてみせた。
また彼らの多くは実際にそんなタイプの人間だった。
ケンカ、恐喝、万引き、シンナー、不純異性交友・・・そんなこざかしい犯罪に不良の美学を見い出し、
群れをなしてパッソーラで走りまわっては、盛り場でウンコ座りしながら女遊びをしたり、
弱そうな奴をみつけてはいじめたりしていた。
彼らの標的になった人間は、年少の奴、気弱な学生、サーファーなどが挙げられるが、
学年に一人いるかいないかという割合でかろうじて発生しはじめていた「パンク」という新種の人間達も、
彼らの絶好の攻撃対象となった。

多くの音楽評論家いわく、80年代初頭の日本のパンクと言えば、
東京ロッカーズや関西のINU、SS、アーントサリーなどが挙げられるようだが、
実際にはそれらは恐ろしく少数の高感度な人々にアピールしたに過ぎない。
校内暴力がふき荒れる中学校のトイレにたまっているローティーン達は
そんなアカデミックなバンドの存在すら知らなかった。
多くの場合、彼らが出会った最初のパンクバンドはアナーキーという
全員19歳、元暴走族のメジャーパンクバンドであった。
そこから徐々にイギリスのパンクにたどりつく。
そうしたパンク少年の中にはヤンキーと同化していく元気者も多くいたが、
パンクへの思い入れが強ければ強い者ほど周囲からの孤立を深めていった。

 クラッシュやPILなどの「過激でラジカルなパンク」を聴き、
髪をデップで立てて腕章や日の丸ファッションなどワケのわからない出立ちでファッションビルをウロウロ。
パンク/ニューウェイヴ系のライヴハウスもやっとできはじめた。
しかしそんな革命的ムーブメントの尖兵であったはずのパンクスも、
集団発生しているヤンキーの前ではアホ扱いであり、標的であった。
その異質なファッション、単独行動を好む習性、年齢差、体格差、繊細さも原因であっただろう。

 81年頃パンクはまだ、世の中により良い変革をもたらす新しい生き方だと思われていた。
ソ連軍の北海道上陸や全面核戦争の危機が叫ばれた東西の冷戦の最中、
パンクのスローガンは反戦反核であり、アンチ資本主義、アンチ中産階級であり
無知で粗暴で愚鈍な一般大衆を覚醒させ、
社会を正しい方向に変革し、よりよく変えようとしていた。
そのための手段は
歌詞、ファッション、音楽(そのせいかパンクの音楽は簡わかりやすく、簡潔でとびきりPOPだった)
しかし、ことはそう簡単ではなかった。
一向に進展しないパンク革命への疑問から、暗く重々しい無力感がパンクス達を覆いはじめた。
ニューウェイヴの台頭(その種のニューウェイヴ雑誌ではパンクは時代遅れな存在と一蹴されていた)、
アバンギャルドな音や抽象的な歌詞、
内向的で耽美的な世界に浸り、黒い服に身を包んだ根暗な自閉症パンクスが増えはじめた。
彼らには、マイナーに逃げ込むか、たった一人で世界を呪うしかなかったのだ。

 そんな時、銀色の鋲を輝かせながらまったく新しい集団が現われた。
ハードコアパンクである。彼らは今までの頭でっかちのパンクスとは違っていた。
年齢は若く10代前半の者も多く、集団で行動し、
ドクターマーチンもしくは鉄入りのドタ靴を履いて街を走り回った。
その髪はモヒカン(当時では信じられない髪形だった)やトロージャン(どうやって立てたか誰にもわからなかった)。
どこに源流があるのかすらわからない、過激そのもののファッション。
どいつもこいつもなぜか見事に着こなしていた。
そして何より彼等は戦う集団であった。暴力には暴力で。
今までのパンクとは人間の種類も違っていた。
ライヴ会場はパンクスでごったがえしていた。
彼らは大声でしゃべりまわり、底抜けに明るく笑いとばし、
バンドの演奏がはじまればグッチャクッチャに暴れ回った。
下着のような格好をした幼い女の子達は派手であけすけでガラ悪かった。
少年達はいかにも強情そうなニキビ面で、筋肉が盛り上がっていたがまだ幼児体型だった。
まるで中学校のクラスの不良グループがパンクファッションをしているだけみたいだった。
陰気で退屈なニューウェイヴバンドはハードコアの出現で一瞬にして角へおいやられた。
よく言われた話だが
東京のハードコアと大阪のハードコアは異質だったようだ。
東京ではヴァイオレンス(暴力性)、ヤバさがいやがおうにも伝えられていたが
大阪には独特な脳天気さがあった
そして年齢の低さにおいて東京のそれを上回っていたのではないだろうか。
 

80年代初頭のハードコアパンクス達は、音楽的には初期パンクを嫌い、
ピストルズなんて聴いたことないと言い、CLASHに至っては嘲りの対象でしかなかった。
DISCHARGEやDISORDER等といったイギリスのバンドも聴いてはいたが、
彼等が支持したバンドはなによりも地元大阪や神戸のバンド達であった。
ナシ、めまい、LAUGHIN NOSE、モホークス、ZOUO、MOBS、COBRA、OUTO、FREEDOM。
そして東京からライヴをしにきたEXCUTE、COMES、GISM、GAUZE....
それは日本のパンクがはじめてストリートに根を降ろした時代だった。
 その後いくつもの大きな流れが現れ、様々な音楽性が生まれ、
日本のハードコアについて一言ではくくることができない。
思想も考え方も人間性もさまざまだ。
ハードコアは、もはやそれはティーンエイジャーのものではない。
ただ諸説はあろうが、日本のハードコアの発生において上記にあげたような
「ニューウェイヴへの反動」、「ヤンキーとのサバイバル戦争」があり、
それをとおして彼らは暴力がいかに有効かを悟った、といった日本固有の背景が、
イギリスでおこったファンション面の変化(モヒカン、鋲ジャン、安全靴)以上に、
この国のハードコアパンクの出現と、その性質に
大きな影響をもたらしたのではないだろうか。
 
 
 
 

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