村上ゴンゾ INTERVIEW (1998年11月発行oo5号に掲載)

ライブハウスにいりびたるようになって以来、わたしもいろんな人間を知ったが、
ゴンゾさんはもっとも強烈な部類に入るヒトだ。
スルメと缶ビールでトリップしているのをみると、
なんとなくあこがれちゃったりしたくなるほどである。
「ヤバそうにみえて、その実とてもナイーヴでセンシティヴ」という
ゴンゾさんのパーソナリティーについては
このたび発売された彼のソロCD『小さな笑い声』(Oz disc)のライナーで、
いろんな人が文章を寄せている。
しかし、ナイーヴでセンシティヴにみえて、ちょっとやばいのも確かだ。
わたしは、某飲み屋で「おまえのせいで酒がこぼれたやないか」と怒っているゴンゾさんをみたことがある。
その怒り方は、声を張り上げているが誰に怒っているのかわからないという
典型的な労働者のおっちゃんのソレだった。
20代なかばにしてあの味がだせるとは、末頼もしい人物である。
何はともあれ、リリースされてこんなに嬉しいCDはめったにない。
西田辺のマンションで録音されたというこの音源は、
ゴンゾさんの長い旅の途中のドキュメントのようなアルバムではないだろうか。
長池町の池のほとりの公園で収録したこのインタビュー、
ぜひ彼のCDをききながら読んでほしい。
 
 

●今回ソロCD『小さな笑い声』をだすことになったいきさつは?。
去年の11月か12月に、LABCRYで東京のカフェ・オ・レーベルのイベントで東京にいったんです。その時、早稲田前でなんかいろいろ集めたライブがあって、三沢君と2人のユニットでLABCRY名義でめちゃくちゃミクロな音でやったんですよ。ホント小っちゃい音でやって、目覚まし時計の秒針をピックアップでひろってリズム隊にしたり。"はちみつ沸点"ですかね〜。それがムチャクチャ楽しくて。三沢君はギター、ヴォーカル、僕はテルミンとか発信機とかカリンバ、ハープ。二人で「楽しかったわあ〜」言うて。それが田口さんは気に入ったみたいで「2人でやってるのを出したいから7inchをつくってくれないか」みたいに誘われたんですよ。
その頃、三沢君に「僕の音を聴いください」ってテープを渡してたんですけど、それを聴いた三沢君が「これで行こう」って。それがキッカケなんですよねえ。

●内容はどういうのが入ってるんですか?
もう1年半以上前の音源です。電気もガスも止まってる時に、家賃も3ヵ月ぐらい滞納してて、ドアに「立ち入り禁止」だとかいって赤札が貼ってあって、ビクビクしながら録ってた音なんですよね。フトンにくるまりながら。寒かったんですよ〜。ほんでオナカもすいてて。仕事もしてなかったんですよね。小銭をもうけようとかいって西田辺に歌いに行ったり、そういうとんでもないことやってたんですけど。ある日帰ったらカギが変わってたんですよね。もう笑いました。

●村上ゴンゾとしなぷす(ゴンゾさんのソロノイズユニット)は別のモノなんですか?。
全然ちゃいます。アコースティックってのは路上でしかやったことないですね。バーノイズで一回やったぐらいで。

●今回のCDはノイズは入ってないんですか?。
ミニマルっぽいのはあります。スティーブ・ライヒとか意識しちゃったんですけど全然違うんですよねえ〜。

●歌詞はどんなことを歌ってるんですか?。
身近なことですね。『カレーハウス』って曲はおなかすいてて「腹へったなあ〜、めちゃめちゃカレーのニオイしてきたなあ〜って。ココカレーっていうところが西田辺にできて。昔は700gくらい食べたのになあ〜とか思って。ああ〜シャビシャビカレー食べたいとか思って。家に帰ってすぐ録音したのがそれなんです。「カレーライス」じゃ他の人がだしてるでしょ?。だから「カレーハウス」にしただけで。

●ゴンゾさんはいつから音楽活動してるんですか?。
一番最初は高校の時に三重県でパンクバンドをやってて。ベースでしたわ。SWANKY'Sとか好きで。ラモーンズとかジョニー・サンダースのコピーやってました。

●そういえばベースうまいですよねえ。
どこがですか!。たのんますわ〜(笑)。

●その後、名古屋へ行ったそうなんですが、何をやってたんですか?。
バンドはいろいろやってましたよ〜。最初にCDあがったっていうのがU  WAISTED  Jっていうバンド。オムニバスですけどねえ。
それが名古屋でなんか変な感じやったんですよ〜。グランジバンドが出た!みたいな(笑)。

●どんな人達と遊んでたんですか?。
名古屋って割礼とかもそうでしょ。ドアーズとか好きな人も多いし、そういう人達とつきあってました。名古屋ってヒッピーっていうか変わった人が多いんですよ。オッサンしか遊べる人がいなかったんですよ。

●その後、東京へも行ったんですよね?。
ああそうですわ。一発あてようかな〜と思って(笑)。最初中野で4帖半に3人で住んでたんですよね。名古屋で一緒に住んでた人と。その人はメチャクチャ好きな人でね。ほんまワルっていうか戦時中に生まれてたら将校になってるような人で。人を利用してうまくやる才能を持ってるんだな〜って。でも大好きやったんですよね。その人はバンドで一回メジャーの東芝から誘いがかかってたんですけど。めちゃめちゃメロウな曲をつくってましたよ。
東京は「なんで人がこんなに多いんや〜」みたいな感じでしたよ。ダラダラしてたら置いていかれるんやなあって思いましたわ。すごいなーっていうか。
その後、長野の川上村ってとこへ野菜つくりに行ってましたわ。「リゾート地のアルバイト」って募集してたんです。そこに1ヵ月いてました。
ほんでまた東京に住もうか、大阪に行こうかってそんな感じでしたねえ。

●大阪へはいつ頃来て、何をやってたんですか?。
大阪に来たのは3年前なんですよねえ。あんまりおぼえてないんですけど。モノ忘れっていうか(笑)。

●ずこうびじもくっていうバンドにいたんですよね。
タイムボムとかなんかでチラシみて、ベースで。

●バーノイズとか行って飲んでた頃は?。
ずこうびじもくを抜けてからですわ。チラシでみて。バーノイズ?。何やこれヤッバイわあ〜って。一回行ってみたらやっぱりとんでもなくて。

●その後はしなぷすでノイズやったり、よし子ちゃんとポケットキノコはじめたり。そういえばBEARSとかでよく客でクネクネ踊ってましたが、音楽に対するああいう反応はいつ頃から?。
あれはもう〜そんなんずっと前ですねえ。10代。名古屋時代から。その当時ルーツレゲエとか大好きで、名古屋で僕が知り合ったのは脳震盪っていうとんでもない人達がいて。バンドですわ。僕がやっぱりメッチャメチャ好きでしたわ〜。3人組なんですけど。

●その頃からクネクネ。
一緒に行ってはもう。それが普通なんでしょうけど。

●LABCRYに入ったきっかけは?。
BEARSの10周年記念でサメ釣りっていうのがあって、無料だっていうのにひかれて行ったんですよね。ヒマだし。サメは本当にいてました。
その時三沢君と話して東京バナシで盛り上がって。
 

(取材:98年3月4日)

 
 
・・・・インタビューはまだまだつづきます。
このつづきを読みたい方は、NEGA005号をどうぞ→
 

インタビュートップに戻る→

 
TOPに戻る→