ユグドラシル ep.2 錆びた線路 (1)

「――あ」
 じっと凝らした視線の先に探していたものを捉え、思わず声が漏れる。
 少し前を歩いていたヒースがちらり、と私を振り返った。
「駅?」
「うん。向こうの、坂の上の方に」
 指し示すと、ヒースは青い瞳をじっと細めた。けれどその横顔ににじむ表情はどうにも芳しくない。やがて諦めたのか、困ったように小さく首を傾げて笑った。
「リルは目がよくて助かるよ」
 駅舎と思しき建物は、はるか遠く、緩やかな坂の頂にわずかに顔を覗かせている。平均的なヒトのおよそ数倍に設定されているという私の視力でぼんやりと確認できる程度だ。
「じゃあ、今日はそこまでかな。もうすぐ日が暮れそうだ」
 私は頷き、ヒースの隣に肩を並べた。


ep.2 錆びた線路 (1)

 ラトポリカの街を発ってから、ほとんどの道のりを線路伝いにここまで歩いてきた。
 大陸を東西に結ぶ鉄道は、もはや列車が走らなくなって久しいのだろう。レールの上には氷樹の枝がびっしりと蔓延り、すっかり錆びてしまっていた。
 かつてルフ博士に連れられてフローレの丘を訪れたときに、この鉄道を使った。ラトポリカの駅から、鉄道の終点にあたる丘のふもとまで、寝台付きの列車に何日も揺られていったのを覚えている。
 だからこの線路を辿っていけば、丘の麓へ繋がっている。人の足で歩いたなら途方もない時間がかかることは想像に難くないけれど、これなら道に迷う心配はないね、とヒースは明るく笑った。
 昼間の間に歩みを進め、日が落ちる前にその夜の寝床の目星をつけるのが常だった。線路伝いに歩いていれば、かつて駅舎であった建物や、打ち捨てられた古い車両に幾度となく出会う。それらはほとんどが錆びて崩れかけ、窓ガラスも割れているものがほとんどだったけれど、中に入れば、凍りつくような夜風をある程度は緩和できた。
 そんな旅路も、今日で七日目になる。
「リル、疲れてない?」
 幼い子どもと同じ歩幅でしか歩けない私を振り返り、時に手を伸べながら、ヒースは時折そんなふうに尋ねてくる。
 疲れる、という感覚は、おそらく私にはないのだと思う。
 自分でもつまびらかには把握していないけれど、この小さな身体のあちこちに無数の発電機構が備わっている。それらはあらゆる物質や自然現象、例えば太陽の光や空気の流れ、あるいは自分自身の運動エネルギーも余すところなく還元し、半永久的に私を動かし続けている。
 得られるエネルギーよりも消費するそれが上回ってしまえば、確かに身体は動かなくなるだろう。ヒトと同じ眠りのサイクルが私にも設定されているのは、そうなることを未然に防ぐためだ。
 だけど、ヒースはそういう心配をしているというのではなさそうだった。
 今日も寒いねとか、いい天気だねとか。例えばそんな何気ない言葉のひとつなのかもしれないと、この頃の私は思い始めていた。
「うん、平気」
 だから私も、そんなふうに答えてみる。なんでもないやり取りの、そのなんでもなさが、ほんの一瞬、まるで自分が人間の少女になったような錯覚に陥らせる。
 もっとも、本当に私がただの非力な少女であったなら、この旅はまるで成り立っていないだろう。
 そこかしこに蔓延る氷の木々のおかげで、水にこそ困らないけれど、生命の気配のあまりに希薄なこの大地では、食糧はとても貴重だ。
 ヒースは日に一度、乾いた携帯食を一つ二つ口にするだけで食事を済ませている。大人の男の人が日中歩き通すのにそれで足りるはずがないのは明らかだけど、先の見えない道程のために温存しているのだろう。
 私に食事の必要がなくて本当によかったと思う。その点だけは、彼の足手まといにならずに済んでいる。

 緩い坂にさしかかる頃には、駅舎の姿がヒースにも見えてきたようだ。
 その頃にはすでに空が薄暗くなってきていたから、異変に気付いたのは二人同じくらいだったと思う。
「……あかり」
 ぽつりと呟くと、ヒースも頷いた。
 駅舎の建物からは、黄色がかった光がほのかに漏れている。それに吸い寄せられるように、私たちはどちらからともなく歩みを速めた。
 やがて見えてきたのは、崩れかかったホーム、錆びてほとんど読めない駅名の看板。それでも、ガラス張りの待合室は細かなひび割れも丁寧に補強されていて、中には鉢植えのようなものが幾つも並んでいるのが窺えた。
「温室みたいだ」
 ヒースが呟く。
 鉢の中に植えられたハーブやミニトマトといった植物はどれもみずみずしく、土は十分に湿り気を帯びて見える。明らかに、ごく最近のうちに人の手が加えられた形跡だった。
 ヒースの手を借りながらホームへと上る。灯りは、改札脇の駅員室の窓から漏れていた。
 目線よりもわずかに上にある窓を、背伸びして覗き込んでみる。古びた机と椅子、毛布と使い古された食器。雑多に散らかった室内に、けれども人の気配はない。
 顔を見合わせていると、ふいに少し離れた方から足音がした。
「おや、客人など何年ぶりだろう。お前さん方は人間かね?」
 振り向けば、改札の向こう側からゆっくりと歩いてくる人影があった。
 夕日が逆光になって、その容貌は判然としない。けれども、しわがれた声と、丸めた背で杖をつく姿から、かなりの老齢なのだろうと思われた。
 雨避けの陰に入り、ようやく顔だちがあらわになったその人は、私たちを頭の先からつま先までひとしきり眺め回したあと、「ふむ、足はあるの」とおもむろに呟いた。
「てっきり、天のお迎えでも来なすったかと」
 人好きのする笑顔を浮かべ、からからと笑う。しわの刻まれた瞼の奥に覗く瞳は深い藍色で、加齢ゆえにか鈍く濁っていた。
「おじいさんは、お一人でここに?」
 ヒースが尋ねると、おじいさんはゆっくりと頷いた。
「昔、駅員をしておってね。氷樹で凍りつこうとも、私一人でもおらねば駅が死ぬとここに留まった。その電車もすでに走らなくなって久しいがね。お前さん方、どっから来た?」
「ラトポリカから、線路伝いに歩いてきました」
「ほんに遠いところから、ご苦労だったの。すると、あれかね。フローレの町でも目指しておるのか?」
 何気ないおじいさんの言葉に、私は驚いた。
「フローレの丘に、町があるの?」
「おや、お嬢さんは知らなんだか。あの丘のてっぺんは、氷樹の枝ひとつも生えとらんともっぱらの噂よ」
 ルフ博士と訪れたときには、あの場所は山小屋ひとつあるだけのただの丘だった。あれから、氷樹から逃れるようにして町が形成されたというのだろうか。
「だが、氷樹のない楽園があると聞けば、人の考えることなど皆同じ。フローレの門は固く閉ざされておるというよ。わしらは方舟に乗り損ねた哀れな民よ。……のう、お前さん」
 最後の言葉は、ヒースに向けられたものだった。
 どこか優しげなおじいさんの眼差しに、ヒースもまた、穏やかな笑みで答える。
「俺はただ、世界樹に一番近い場所を目指してみようって思ったんです」
「酔狂なことじゃの」
「少なくとも、この子には意味があるはすだから」
 頭上で交わされるやり取りに、なにか置いてきぼりをくらったような感覚になる。二人の間には、私の知らない何かが共有されているように感じられた。
 その答えは、あの時計塔の中で止まっていた何十年という時間の中にあるのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えていると、ふいに、おじいさんの顔がずいと目の前に近づいた。
 濁った藍色の瞳がじっと私の目を覗き込み、数秒。ああ、としわがれた声が漏れた。
「驚いた。お前さん、人形なのか? ラトポリカの……そうか、あのルフ博士が作ったという」
「知ってるの? おと……博士の、こと」
 がん、と頭を殴られたような衝撃だった。――思わず、昔の呼び方が口をついて出そうになるほどに。
「そりゃあお前さん、ラトポリカの人形師を知らない者などおるまいよ」
 おじいさんは興奮気味に語ったあと、ぽつりと小さく呟いた。
「なるほどの。それがあれば、あるいはあの門も開かれるやもしれん」
 ちり、と胸の隅が焦げ付くような、不可解な痛みを覚える。
 心の奥を覗き込んでみれば、「それ」という言葉が取り残されたようにぽつんと浮かんでいた。何気なく私を指して言われたその呼称は、紛れもなく人ではない、人形である私を指すものだ。
 詮のない感傷だとわかっている。どれだけヒトのように動き、感情を宿そうとも、私の身体が作り物であるということは動かしようのない事実なのだから。
 凍りつく前のラトポリカで暮らしていた頃は、そんなことは気にも留めたことがなかった。ヒースに出会ってからだ、と思う。私と彼が違うということを、ふとしたときに考えてしまう。
 じわじわと浸食する沈んだ思いを、ぎゅっと拳を握り込んでやり過ごしていたとき、ふっと、肩の上に柔らかな温もりが落とされた。
「おじいさん。リルのことを知っているなら、わかるでしょう。この子には心が宿っている。――同じなんです、俺たちと」
 穏やかなヒースの声には、糾弾するような鋭さはない。けれど、いつも私に向けられるものとは違う、しんと強い響きだった。
 どうして。どうしてそんなふうに、私が心から望んでいた言葉を落としてくれるんだろう。
 視界の端で、おじいさんが重く頷くのが見えた。
「すまなかったね、お嬢ちゃん」
 胸の詰まる思いをこらえながら、私は首を横に振った。
 ヒースが私のためにそんなふうに言ってくれたことがたまらなく嬉しいのに、同じだけ寂しくなる。
 小さな私の肩にそっと添えられた温かな掌。触れたその場所から、押し込めたはずの感情がぐずぐずと融け出していく。どうしてだろう。その手を温かいと感じるほどに、熱を宿さぬこの身体を厭わしく思う。
「じきに日も落ちる。今日はここで休んでいきなさい。久方ぶりの客人だ、出来る限りの御馳走を振る舞おう」
 おじいさんはそう言って、私たちを小さな駅員室の中へと誘った。